いい指摘をいただいたので書いておきます。
「制裁」と「監視」
http://twitter.com/IHayato/status/382655326408802304
| 「馬鹿なやつは実名晒して制裁すればいい」という私刑ロジックは危険かつ、根本的に効果がない。罰によって道徳を保とうとすれば「バレなければいい、罰が与えられなければやってもいい」という話になってしまいます。脱税なんかと同じですね。ん~なんかちょっと前にこう言ってた気がするのだが。
マスコミが死者を冒涜してまで取材する理由と、その対策 – ihayato.書店 | ihayato.書店
http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/27413
| 実際には困難も伴うのでしょうけれど、報道をする際に、記者とカメラマンの「署名」を必ず掲載することにすれば、自由意志と責任感は、ある程度よみがえるのではないでしょうか。
| やや暴力的ですが、カメラマンや記者を物理的に「監視」してしまう、というアプローチはありえるかもしれません。つまり、今回の場合なら、市民が実際に取材現場に行き、冒涜的な取材をした会社やカメラマン、記者を強制的に可視化するのです。
さすが、よく読んでますね。ここは確かに矛盾してます。いやー、難しいものです。
色々考えてみると、「報道機関の監視」は「私的制裁」に当たらない、という論理で矛盾は回避できそうですね。事実、「見られている」ことそれ自体は、私的制裁ではありません。ぼくもツイッターやブログを日々「見られている」わけですが、みなさんから制裁を受けているわけではありませんから。でも、ぼくは監視されているので、自制的に行動することになります。
では、実際に「報道機関の監視」と「私的制裁」が交わらないという態度は、どのようなかたちで実践できるのでしょう。「私的制裁はNGだけど、市民によるメディアの監視はOK」という態度です。この二つの境目は、非常に曖昧なので、針の穴をすり抜けるような設計が必要でしょう。
この態度は、「取材をする際には、ルールとして企業名・媒体名の入った腕章をつける」「写真・記事ともに署名状態にする」という企業側の配慮によって実現可能でしょう。もっとも、これ自体、実現は難しいものであるのも確かなのですが…。
一方で、先の記事で提案した「霊柩車の前に立ちはだかったのは○○社の○○という人間だ」というロジックは、私的制裁にあたるでしょう。これは「権力の監視」を飛び越えて「私的制裁」の域にまで達してしまう行いです。というわけで、この点に関しては、ぼくは間違っていたことになります。「霊柩車の前に立ちはだかったのは○○社の○○という人間だ」と市民が叫ぶことは、悪いことです。前言撤回です。
「権力の監視」を市民が直接的に行ってしまうと、それは「私的制裁」の様相を、原理的に帯びてしまいます。結局、市民側でやるべきことは「すべての記事に署名を!」とメディア側に呼びかけることにとどまるのでしょう。とりあえず、ぼくは矛盾せぬよう、この立場を取っていくことにします。
誰もがメディアになる時代ですから、監視と制裁の問題はますます複雑になっていくでしょうね。もっと深堀して考える価値がありそう。
「私的制裁にまで踏み込まないメディア監視のあり方」について、何か意見がある方はぜひコメント欄で教えてください。
あと、元記事では「ついでに」以下の批判もありますが、他の批判はいまいちズレているので、ズレているとだけ言及しておきます…これで6回ほど文通しておりますが、メカAGさんはすれ違ったままで、お話にならないんですよね。読者のみなさまに判断をお任せするかたちで投げておきます。気になる方は、どうぞ合わせてご覧&評価して下さい。