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【憲法と、】

第6部 福島の希望<3> 屈しない一人でも

「国民の意思で政治は変えられる」と話す大和田秀文=福島県喜多方市で

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 東日本大震災翌日の二〇一一年三月十二日。テレビには、東京電力福島第一原発1号機の建屋の上部が吹き飛んだ、ありえない映像が流れていた。

 原発から八キロの自宅から、同じ福島県浪江町内の友人宅に避難していた大和田秀文(80)はぼうぜんとした。さらに遠くに逃げる中で悔しさがこみ上げた。「四十年にわたる原発反対は何だったのか」

 中学教師になったばかりの一九五六年、書店で「第三の火−原子力」という本を手にしたのが、反原発運動にのめり込むきっかけだった。「放射能は今の技術でおさえられるか分からない」と書かれていた。

 大和田は、明治期に憲法制定や国会の設置を訴える自由民権運動に身を投じた苅宿仲衛(かりやどなかえ)の親せき筋にあたる。苅宿は、たびたび飢饉(ききん)に見舞われた貧しい浪江で農民の手助けをしながら、一人一人が大切にされる社会を目指し続けた。

 戦後の高度成長からも取り残され、貧しさから抜け出せなかった寒村に、原発マネーが降り注ぐ。福島第一原発は建設段階から、出稼ぎ農家に地元で働く場を与え、自治体にも膨大な補助金をもたらしていた。福島第二原発や浪江・小高原発の計画が相次いで浮上し、大和田は反対の輪を広げようと集落をまわったが、仲間になってくれる人はほとんどいなかった。

原発から13キロの場所にある自宅前で無念の思いを語る志賀勝明=福島県南相馬市小高区で

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 七三年、国の原子力委員会は福島第二原発建設をめぐり公聴会を開催する。三十人中二十一人が賛成派。反対派は六十人の参加希望を出したが九人しか認められなかった。反対の声はかき消された。

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 その公聴会に、南相馬市小高区村上のホッキ貝漁師の志賀勝明(65)は反対派の一人として出席していた。仲間の漁師たちは最初「海が汚染される」と反対したが、原子炉が増設されるたびに支払われる膨大な補償金で腰砕けとなり、最後は孤立無援となった。福島第一原発近くにあるホッキ貝の漁場は、原発の取水が始まってから生息に必要な砂地がなくなり、水揚げはほとんどゼロになった。

 二〇〇六年に新築した自宅は福島第一原発から十三キロ。立ち入り可能な避難指示解除準備区域になった一二年四月に訪れると、壁は変色し、家の中には鳥の巣まであった。「がっくりきて、もう、掃除する気もしない」。避難先を転々とする中、母は亡くなった。

 志賀は震災前、地元の仲間に誘われ、九条の会に参加していた。南相馬市の借り上げアパートに閉じこめられた現状は、憲法一三条の幸福追求権の侵害なんだろうかと思ったりもする。「素人だからよく分からないけど、人は誰からも束縛されずに住みたい場所に住む権利があると思う」

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 「政府は原発再稼働や原発輸出を進めている。しかし、国民の意思で政治は変えられる」。喜多方市に避難している大和田は、所属する自由民権運動の研究会で原発の話をする。「私にとっては、反原発が自由民権運動なんだ」 (敬称略)

 

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