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ヘイトスピーチ、ヘイトクライム、レイシズム - 在特会って何
岩波から「哲学・思想事典」という大きな分厚いが出ている。定価14.700円。我ながら、こんな高価な本をよく平気で購入したものだと思う。ブログの読者の皆様と同じく、昔は生活に多少の余裕があった。出版されたのは1998年。編集者は、廣松渉、子安宣邦、三島憲一ら碩学の重鎮が7人。刊行から15年間、改訂されずに今でも販売している。買おうかどうか悩んでいる人は、今回の記事が参考になるかもしれない。先に意地悪を言うと、Wikipediaが繁盛する理由と事情がよく頷ける。料金の負担とか、重くて嵩張る本を部屋に置くスペースの問題もあるが、ネット検索の方が新しい情報に素早くリーチできるのである。私自身も、最近はこの事典を捲る機会が少ない。久しぶりに頁を開いたのは、次の単語が記載されているかどうか確認したかったからである。レイシズム、ヘイトスピーチ、ヘイトクライム。結果を言うと、案の定、一つも登録されてなかった。だから、9/22の「東京大行進」や9/25の「のりこえネット」の政治と思想について考察を加え、意味を検討しようとするとき、14.700円で入手した岩波の「哲学・思想事典」は役に立たない。使えない。これら諸語の定義や概念に接近するには、リスクを覚悟してネットを使う作業に挑まねばならないことになる。ネット情報の海からこれら諸語の正しい意味を探り当てるということは、一人の人間にとって知的精神的に容易ならざる難業と思われる。類似したものとして、理解に煩瑣と労苦と混迷を伴う語のカテゴリーに、ジェンダーとかマイノリティがある。


小郷知子は9/22の7時のニュースで、冒頭、こう原稿を読んだ。「在日韓国・朝鮮人などに対する<ヘイトスピーチ>と呼ばれる差別的な言動を伴うデモが、国内で繰り返されています。こうした動きに反対する人たちが、今日、東京都内でパレードを行い、特定の人種や民族などに対する差別の撤廃を訴えました」。NHKのニュースでは、<レイシズム>と<ヘイトクライム>の言葉は出ていない。が、<ヘイトスピーチ>という語が登場し、特定の民族や人種に対する差別の言動を行うことだと説明されている。NHKのテレビ報道は、日々の事件や時事を伝えると共に、社会情勢の中で新しく出現する言葉を教える教育の場であり、この耳新しい単語はこういう意味だよと教諭を受ける機会でもある。この国の「社会常識」を聴講する時間であり、世間に遅れないように知識を修得する場だ。今回、こうして小郷知子が<ヘイトスピーチ>を説明し、それを聞いた以上、日本国民は<ヘイトスピーチ>の語について知りませんという態度はとれない。<ヘイトスピーチ>の語は、新大久保で威圧的なデモをして、在日を脅迫し恐怖させている極右の集団行動の映像とともに一般に届けられた。そのイメージで頭に入る。このとき、テレビを見ていた普通の人たちは、<ヘイトスピーチ>の概念をどう受け止めたことだろう。NHKのニュース視聴者のボリューム層である70-80歳代の地方の高齢者は、多分、「ああ、それのことか」と思ったに違いない。

映像の過激さはショッキングだが、政治的な意味は一瞬で察知するはずで、目新しさを感じることはなかっただろう。高齢者の概念では「朝鮮人差別」であり、既視感があるというか、昔からこの国の政治社会の暗部にタブー的に存在するものだ。それを過激な右翼が東京の街で凶悪に騒ぎ、世間に政治的示威のパフォーマンスをしている図である。テレビの前の善良なお年寄りたちは、「ここまで来たか」と悪い胸騒ぎがしたことだろう。と同時に、こうも思ったはずだ。「小郷さん、右翼の<朝鮮人差別>を、何でわざわざ<ヘイトスピーチ>なんていう難しい術語を使って言うのかしら」と。現実や状況の意味は判るが、言葉が聞き慣れない。無論、賢い日本の高齢者のことだから、すぐにピンと直感して、昔からの日本語を新しい英語に置き換えて、若い人とかが馴染むように、新しい時代の意味づけを添えているんだろうと、そう積極的に解釈する。きっとジェンダーとかマイノリティとか言い出したのと同じで、その方面の言語系列や言説企図と同じ文脈のものなのだろうと、そう内在的に見当をつける。「きっと姜尚中さんとか上野千鶴子さんが言っているのよね」と思い、「何でNHKがそんな難しい新語を」と最初に浮かんだ違和感に自ら解答を用意する。忖度して疑念を自己内解消する。<朝鮮人差別>じゃ生々しすぎるし、知らない英語の方が新鮮でお上品だし、社会背景や国際環境が昔とは違うから、新しい言葉を仕立てた方がいいんだわと、そう意味を納得する。日本人はこうやって外国語を消化するのだと。

ヘイトスピーチ、ヘイトクライム、レイシズム。しかし、これらの語の羅列と言い回しに「インフォームド・コンセント」的な隔絶感や隔靴掻痒を覚える者は、急には減ることはないのではないか。「PCをサクサク」の表現ではないが、果たして無事に一般に浸透するだろうか。若い世代の新語は流行にはなるけれど、高齢者から疎んじられると社会に定着しない。私は、少し訝る気分がある。北朝鮮拉致問題がたけなわの頃、<レイシズム>という語がネットの左派の議論に頻用されたが、私はその語の氾濫に少し抵抗を感じていた。今回、その違和感が政治学的にどういうものか、薄々ながら意味を掴めてきた感覚がある。何が問題なのか。一言で結論を言えば、レイシズムの語を導入し、その言説で問題を説明する者は、右翼というイデオロギー的本質を捨象しているのだ。意図的意識的に、この現実の説明から右翼の語を消し、右翼の政治的実体を無視しているのである。レイシズムとヘイトスピーチの言説でこの問題を概念づける者は、その政治運動の主体を右翼として定義してなくて、政治敵としての右翼を想定してないのである。レイシズムは右翼とは無関係なのだ。敵はレイシストであり、それは政治敵ではなく社会敵であり、新大久保で暴れ回る在特会は右翼団体ではなくレイシストなのだ。そう定義するのだ。「レイシスト」なる邪悪で物騒な集団が急に現れ、暴れ回っているのである。この症候群は、古くからある問題ではなく、新しい社会現象であり、レイシストなる新種の厄介者が出現して始まった現代の社会病理なのだ。

つまり、レイシズム、ヘイトスピーチ、ヘイトクライムの言語を立て、その概念を駆使して事態を説明し対策を言う者は、故意に、在特会から右翼の政治表象を拭い取り、英国のフーリガンのような表象に仕立て上げ、問題を政治問題ではなく社会問題にするのである。なぜ、そのような言説の構築を作為するかというと、その動機は、在特会の批判者たる自己を左翼にしたくないからである。左翼の表象を引き受けたくないからだ。敵を右翼だと名指しして攻撃しなければ、こちらも左翼だと指差されることなく、そこで必死にレッテルの防戦をしなくて済む。在特会について書かれたネット情報の中に、かかる思想構造を端的に照射すると思われる一行があった。安田浩一が在特会のことを、「彼らは右翼でも保守でも民族派でもない。レイシストだ」と言ったとある。この1年ほど、私はブログで幾度も、右翼を右翼と言わなくてはいけないと主張し続けてきた。TWでも、そう絶叫し続けている。それなのに、一向にその提唱の受け手が広がらず、逆に、ネット言論の中で批判語としての「右翼」が消える一方なので、無力感と焦燥感に悶え続けてきた。時折、きっこなどが、「真の右翼とネトウヨは違う」などと愚論を言う光景があり、やたら、語としての「右翼」が肯定され礼賛される場面が増え、苛立つことが多かった。「ネトウヨ」などという言葉を使い、「ヘサヨ」などという言葉を繰り出し、問題を間違った構図で捉え、自らの立場をアクロバティックに合理化している。右翼による左翼攻撃から逃げて身をかわそうとしている。つまり、彼ら(レイシズム批判者)にとって左翼は悪であり、悪である左翼の定義から自己を逃し、新しい立場(批判者として正当化できる)を確保しているのだ。

要するに、何が思想的に為されているかと言うと、イデオロギー否定であり、問題の認識に<右翼/左翼>を持ち込まないことであり、在特会問題の認識と対処からイデオロギーの要素を排除することだ。五野井郁夫が広報担当の「東京大行進」には、明確にその目的性と方向性がある。イデオロギー排除が運動の原理に据えられている。そのため、「東京大行進」に何か些細な文句を言うと、「ヘサヨ」というレッテルで悪罵が返ってくる。一般的客観的に見て、「東京大行進」は左派系の人々の集合であり、在特会から見れば極左集団に違いないのだが、彼らはそうしたイデオロギー色の評価づけをアレルギー的に拒絶し、凄絶なまでに無色透明を主張し、その立地で自己正当化するのである。左(イデオロギー)は悪魔であり、左(イデオロギー)は禁忌だから、左ではないと直立不動で公共空間に宣誓しなくてはいけないのだ。彼ら(東京大行進)は、その方が在特会の行動を抑止する上で効果的だと判断している。在特会に対抗する側のイデオロギー色を消し、市民的普遍性の表象と評価を獲得し、在特会の反韓行動をフーリガン的な社会暴徒として概念づけて批判した方が、在特会を押さえ込めると確信している。これはちょうど、1年前、反原連が官邸前デモから組合旗を排除し、日の丸の持ち込みを積極推奨し、また、歩道の警察と口論になった市民をスタッフが現場から摘み出していた行動パターンと、何か思想的に通底した戦略性を感じさせる。そのときも、今回と同じく「ヘサヨ」のレッテル攻撃の乱射と重爆撃だった。

ところがである。肝心の在特会の方は、イデオロギーの主張で容赦はしないし、ストレートに正直なのだ。自らを隠さない。彼らは、新大久保で暴れるときは、必ず右翼のシンボルである日章旗と旭日旗を振り回す。右翼にとっては、それは中立で愛国の象徴であり、政治的にマイナスのシンボルではない。だから、在日に対して差別と脅迫のデモ行進をするときも、自分たちの政治的立場を明示する。(右翼であることを)示威し強調する。細工しない。そもそも、在特会は、韓国朝鮮人への攻撃だけを専門にやっている集団ではない。右翼らしく、8.15には靖国神社の「防衛」を任務するし、官邸前に出張って反原発デモに嫌がらせの妨害をする。在特会が、反原発運動に罵倒を浴びせて襲撃を試みるのは、反原発が(在特会から見て)左翼の主張であり運動だからだ。これもまた、反原発に携わっている者の中には、迷惑なイデオロギー表象の着色だと不満を言う者もいるだろうが、一般的客観的物理的に見て、反原発に左派が多いのは事実である。反原発は政治運動だ。当然、そこにはイデオロギーの問題が介在する。資本と反資本、権力と反権力の問題が投射される。本日(9/25)、「のりこえネット」の発表があった。こちらの方は、「東京大行進」と較べると、世代が上の重鎮(和田春樹・佐高信・宇都宮健児・田中優子)を多く並べていて、むしろ左派色を前面に出した風貌になっている。設立宣言も、<ヘイトスピーチ>批判の中身ではあるが、従来からのメッセージ(言葉の並び)で構成されている。「東京大行進」のような脱イデオロギー性(=脱構築主義)の特徴がない。薄められている。

さて、結論を言おう。在特会が在日に対する攻撃をやめ、スローガンを「左翼を殺せー」「共産党を叩き殺せー」に切り換えたら、それは<ヘイトスピーチ>ではないのか。そこを問いたい。そこが<ヘイトスピーチ>論の陥穽だ。攻撃の対象が民族や人種ではなく、左翼の政治勢力であれば、威圧的な<ヘイトスイーチ>として糾弾されることなく、言論・表現の自由の政治言論の範囲であり、市民社会の敵でもなくなるのか。手品のように化けて無害に変身するのか。その瞬間、彼らが<レイシスト>ではなくなるのは明らかで、<差別デモ>でなくなるのは明らかだ。反レイシズムの側は、この問題にどう答えるのか。

by thessalonike5 | 2013-09-25 23:30 | Trackback | Comments(0)
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