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2013/07/31

「野嵩ゲートの攻防」はつばぜり合い

PhotoPhoto_3  「抗議活動を妨害したい一心で、米軍はゲート前をたいへん危険な状態にしてしまった」。29日、普天間飛行場野嵩ゲート前で、赤嶺和伸さんが説明してくれました(写真左)。 
 22日夜の新フェンス設置に伴い、バリケードの位置が約1㍍前に移動。それによってゲート入口の横断歩道の停止線がなくなってしまったのです。ゲートから出てくる米軍の車両は、新フェンスで視界を遮られたまま、停止線のない横断歩道に入ることになります。「ここはスクールゾーン。小・中・高生が通学するところ。たいへん危険だ。米軍は沖縄の子どもたちの安全などまったく考えていない」。赤嶺さんたちは怒りを新たに、市教育委員会にも米軍に働きかけるよう申し入れています。新フェンス設置強行以来、野嵩ゲートは1週間閉まったままでした(30日開門)。連日の抗議活動への刺激を避けたのか、市民に顔向けができなかったのか。「野嵩ゲートを1週間封鎖した」。赤嶺さんは皮肉まじりで米軍の動きに注目しています。
 この日もフェンスに抗議の赤いテープを張る女性たちの姿がありました(写真右)。しかしこのテープは1週間もちません。毎週土、日に剥ぎ取られるからです。取るのは米軍ではありません。「オスプレイ配備支持」グループです。平日に張っては、土日に剥がされる。その繰り返しです。
 入口から少し離れた所にある市民広場に新しい看板が立てられました。「禁止事項」に次の項目が付け足されました。「米軍への抗議行動としての駐車場使用、凧揚げ、風船での抗議行動」。看板を立てたのは宜野湾市役所です。もともと日米安保賛成の保守系・佐喜眞淳市長。オスプレイ・基地に対する態度は、米軍と住民世論との間で揺れ続けています。
 野嵩ゲートの攻防は、まさに一進一退の持久戦です。米軍も防衛省も、市民の反対世論・行動を注視しています。米軍が空軍仕様オスプレイの嘉手納基地配備を躊躇しているのは、海兵隊仕様オスプレイの配備に反対しているここ普天間の野嵩・大山ゲートでの抗議行動を見ているからです。
 市民の粘り強い不屈の”武器なきたたかい”が、世界最強の米軍とつばぜり合いを演じる。そんな現代史がいま、沖縄の普天間で、辺野古で、高江で、繰り広げられています。

 <今日の注目記事>(31日付琉球新報1面トップ)※沖縄タイムスも1面

 ☆<防衛省 オスプレイ「違反なし」 調査不十分認める 県指摘、一部検証できず>
 「防衛省は30日、米軍オスプレイをめぐり県が日米間で合意した運用ルールや安全確保策に違反すると指摘していた318件の飛行について、『合意違反の確証は得られていない』とする検証結果まとめ、県に提出した。米側の説明を基に県側の主張を退けた形だが、一方では県が指摘した違反のうち、普天間飛行場の周辺以外については写真がなく、事実上検証できないとも説明。『合意違反が絶対ないということも言い過ぎだ』として、調査の不十分さも事実上認めている」
 ※「写真がない」とはよくも言えるものです。県はちゃんと違反飛行の写真を撮っています。防衛省はまったく米軍のいいなりです。その一方で「絶対ないともいえない」とは、まさに、米軍と沖縄の間で世論の動向をうかがっているのです。

2013/07/30

それでも勝利の歌声は野嵩に響く

 Photo_4Photo_5                                               参院選の翌日、沖縄防衛局が市民の目を避けるように、夜陰に紛れて新フェンス設置を強行した普天間飛行場野嵩ゲート。毎週月曜日は夕方6時から7時まで、「ゲート前でゴスペルを歌う会」がおこなわれます。あの日もいつも通り歌って帰った人々は、「翌日の新聞を見てびっくり」。怒りを新たに、「フェンスに負けずに平和の歌を歌っていこう」と、29日も約50人が集いました。
 いつもはゲート前の芝生の小さなスペースで歌いますが、新しいフェンスによって追い出され、この日初めて歩道の両端に列をつくって歌う形に。それが防衛省の狙いの一つだったのでしょう。主催者は歩道の中央を一般歩行者用に空け、さらに2人が灯光棒を持って誘導するなど、通行のじゃまにならないよう細心の注意が払われていました。
 キリスト教徒の人たちが中心ですが、仏教関係者も、私のような無宗教者ももちろん自由に参加できます。子どもも、障がい者も。この日初めて参加した人が8人いました。その中に根本雄三さん(62)・照子さん(64)夫婦の姿がありました(写真右)。24日埼玉県から1週間の予定で来沖。足が不自由な雄三さんは歩行もままなりませんが、照子さんと杖に支えられながら。ペアで仕立てたサマーウエア―が素敵です。初参加者として照子さんがあいさつしました。「沖縄に基地を押し付けて申し訳ありません。何もできないことを申し訳なく思っています。みなさんと少しでも一緒に何かできたらと思って夏休みを使ってやってきました。みんなで頑張りましょう」。照子さんは最後にもう一度言いました。「基地を押し付けてごめんなさい」
 最初の歌は「勝利をのぞみ(WE SHALL OVERCOME)」。
 ♫ 手をたずさえて たがいにすすまん 勝利のときまで ああ、希望にあふれて われらはすすまん
 最後の歌はよく知られた「沖縄を返せ」。終わりの「沖縄を返せ 沖縄を返せ」は歌詞が変わります。
 ♫ 普天間を返せ 沖縄に返せ
 野嵩ゲート前はウチナーンチュウとヤマトンチュウの連帯の場。たたかう人々がつながる場。卑劣な妨害などものともせず、歌声は響きます。勝利のときまで。

 <今日の注目記事>(30日沖縄タイムス1面から)

 ☆<オスプレイきょう岩国着 追加12機 1週間整備>
 「米軍普天間飛行場に追加配備されるオスプレイ12機を積んだ民間輸送船「グリーン・リッジ」が30日、岩国基地(山口県)に到着する。昨年7月に続く第2弾は、約1週間の機体整備や試験飛行を経て8月上旬に普天間に移動する見通し。配備後はCH46ヘリからの機種更新が終わり、24機体制の運用が本格化する。・・・県や市町村は昨年12月、318件の(日米合意)違反を指摘したが、確認作業をしている日本政府から、まだ回答は来ていない」

2013/07/29

いま、教師に求められているものは?

Photo_5Photo_7  「原発・放射能」の講演で来沖された市川章人さん(65、京都、写真左端)、そして市川さんを招いた沖縄民間教育研究所所長の長堂登志子さん(62、同右端。中央は加藤彰彦沖縄大学長)を見ていて、いま教師に求められているものは何だろうかと、改めて考えさせられました。
 二人には多くの共通点があります。市川さんは高校、長堂さんは小学校という違いはありますが、ともに30数年間教育現場にいたこと。そしてその間、一貫して視線は常に児童・生徒に向いていたことです。それは既成(管理)の枠を超えた独創的な教育実践と無関係ではありません。誰も注目しなかった「原発・放射能」問題をチェルノブイリ事故の以前から教えてきた市川さん。その先見性は多くの同僚教師に影響を広め、「3・11」以降まさに真価を発揮しています。勉強にあまり熱心でなかった生徒たちが卒業時、「市川先生の授業で事実を知ることの大切さがわかった」と感想をのべ、担任を驚かせました。
 長堂さんはこの半年間沖縄大学で非常勤講師として未来の教師たちに生活科を教えてきました。その中で、フォトジャーナリストの中村梧郎さんをゲスト講師に招くなど、基地・戦争、平和の問題も積極的に教えてきました。それに対し、「生活科でなぜ?」という疑問(批判)の声もごく一部で聞こえましたが、長堂さんは信念を貫きました。半年後の学生たちの感想は、「こんな授業を受けることができてよかった」で満ちていました。
 目線を「上」ではなく「下」に持ち続ければ、だれがなんと言おうと、当の生徒たちは分かってくれる。応えてくれる。二人の実践はそれをはっきり示しています。
 もう1つの大きな共通点は、二人とも永年教職員組合活動の中心にいたことです。教師と組合活動の両輪(もちろんそれに私生活)。それは心身にたいへんな負担となり体調を壊す。でも病院へ行く時間もない。たまに行くと医者から「しばらく休みなさい」と言われ、「休めないんです」と答えて医者をあきれさせる。それも二人の共通点でした。そんな苦労をしながら続けてきた組合活動が、やがて同僚教師を、さらには校長までも変えていく。それは”本業”の教師としてのしっかりした実践とそれによる信頼があるから。それが二人の共通点です。
 教師と組合活動の両輪は、2つの重荷であるように見えて、実はお互いを助け合う、まさに車の両輪なのではないでしょうか。生徒に目を向けた教育を行おうと思えば組合で頑張らざるをえない。また組合でたたかうことが生徒を見る目を鍛える。二人を見ていてそう思います。そして、それは教師だけではないのではないでしょうか。どんな職業でも、その社会的使命を果たそうとすれば、自分の生活防衛も含め、組合活動でたたかうことは不可欠なのではないでしょうか。それがまた”本業”への意欲をかりたてる。その車の両輪が機能しなくなっているのが今の日本ではないでしょうか。組合組織率の急激な低下、労働組合ナショナルセンターの右傾化が、今の日本の危機的状況を生み出した根源ではないか。市川さんと長堂さんを見ていて、そんなことも考えました。
 市川さんが「教師としての自分を支えてくれた」という言葉があります。「教えるとは希望を語ること。学ぶとは誠実を胸に刻むこと」(ルイ・アラゴン)
 (写真右は沖縄戦当時の識名壕を調べる市川さんと長堂さん)

 <今日の注目記事>(29日付琉球新報1面トップ)※沖縄タイムスは社会面トップ

 ☆<追加配備許さず オスプレイあす岩国へ 山口で1200人抗議集会>
 「米軍普天間飛行場に追加配備される垂直離着陸輸送機MVオスプレイ12機の搬入が30日予定されている山口県岩国市で28日、オスプレイの追加配備に抗議する市民集会が開かれた。市民ら1200人が集まり、『世界一危険なオスプレイを新たに追加配備するという暴挙を絶対に許すわけにはいかない』とのアピール文を採択し、追加配備への反対を強く訴えた。岩国への搬入後、8月上旬にも普天間に移動する計画だ。・・・岩国市内の五つの市民団体でつくる実行委員会の桑原清委員長は『政府の安全宣言はすでに破綻している。岩国にも沖縄にもオスプレイはいらない』と強調した」
 ※オスプレイも基地も、沖縄にも岩国にも、日本中、世界中、どこにもいらないのです。

2013/07/28

「子どもとともに原発・放射能の真実を」市川氏講演

 Photo_5                                       Photo_4         「3・11」から2年4カ月。今こそ「原発・放射能の正確な理解のために-子どもたちのためにできることは何か」を考えようという講演会が26日(沖縄市)と27日(那覇市)にありました(主催・沖縄民間教育研究所)。講師は元京都府立高校教諭(現非常勤講師・京大原子物理専攻)の市川章人さん(65=写真左)。市川さんは以前から一貫して原発・放射能の危険を生徒に教えてきました。「3・11」以降はその「わかりやすい話」が評判になり、各地から講演依頼が相次ぎ、今回が212回目。のべ9000人以上の市民に語りかけてきました。
 市川さんの特徴は、難しい問題を子どもにもわかるように解説すること。図やグラフ、写真を駆使するのはもちろん、「文科省の新副読本は放射線安全神話を振りまく”服毒本”」など印象に残る言葉づかいにも工夫しています。
 市川さんが特に強調するのは、「今後何十年と放射能汚染と立ち向かっていかなければならない子どもたちに必要なのは、科学的な認識であり、様々な情報を批判的に吟味する方法を学ぶこと。多様な意見の存在を認めたうえで、判断できること」。通常の授業は必ずしも熱心でなかった生徒たちも市川さんの「原発・放射能」授業のあとに、「僕たちはいままでだまされていたのか」「もっと知りたい」と目を輝かせました。数多くの実践にもとづき、「真実こそ力。子どもたちは希望」と確信をもって言い切ります。永年教職員組合の活動にも取り組んできた市川さん。子どもたちへの愛と情熱にあふれる講演です。
 参加者もこれに応えました。「原発問題は大人と子どもをつなぐ最高のテーマだと思う」(元石油精製会社勤務の男性)、「僕たちも積極的に参加していきたい」(琉大学生)、「小規模でいいからこういう学習会をいろんな所へ拡大してほしい」(南城市の女性)、「先生の熱い話に涙が出てきました。大人としての決意を新たにしました」(原発避難の母親)など、多くの感想・意見が交わされました。
 原発再稼働を許さないとともに、放射能汚染とのたたかいも、「風化」どころかこの先何年、何十年も続く。それを支える力は「真実」。その輪を広げるのは、熱い思いでつながった大人と子どものスクラム。久しぶりに元気が出た講演会でした。

 <今日の注目記事>(28日付沖縄タイムス第2社会面)

 ☆<意見書「利害対象広げて」 普天間移設 市民団体訴え 週明け県要請を検討>
 「米軍普天間飛行場移設の埋め立て申請に対する意見書のうち、県が『利害関係人』と認めたのが全体の1割に満たないという見通しが明らかになり、意見書提出を呼び掛けてきた環境・市民団体から『門戸を狭めず幅広く意見を審査すべきだ』との声が相次いだ。週明けにも県に要請する動きも出ている。・・・沖縄環境ネットワークの真喜志好一世話人は、意見書で『このままの自然を子孫に渡すことが現代に生きる私の責務』と利害関係を記す。『県は事前に対象を狭めないと言っていた。利害関係を表明している人は該当者とし、できる限り間口は広げるべきだ』と求める」

2013/07/27

「あえて、批評」の勇気と見識

PhotoPhoto_2 「へいわってなにかな/ぼくはかんがえたよ/おともだちとなかよくし/かぞくがげんき/えがおであそぶ・・・せんそうは、おそろしい/「ドドーン、ドカーン」/ばくだんがおちてくるこわいおと・・・ああ、ぼくは、へいわなときにうまれてよかったよ・・・へいわなかぞく/へいわながっこう/へいわなよなぐにじま/へいわなおきなわ/へいわなせかい/へいわってすてきだね/これからもずっとへいわがつづくように/ぼくも、ぼくのできることからがんばるよ」
 今年の「沖縄慰霊の日」(6・23)の県主催式典で、与那国島の小学校1年生が読み上げた詩「へいわってすてきだね」の一部です。感動的な詩として大きな反響を呼びました。
 ところがこれに対し、ちょうど1カ月後の今月23日付沖縄タイムスの文化欄コラム(唐獅子)で、「あえて、批評を!」と題し、次のような文章が掲載されました。「私はあの式典での朗読に、指導者の”影”を強く感じた。その指導者とは単に教師のみを指すのではなく、式典の企画者・主催者、もっといえば大人全体も意味している」。寄稿者は浦崎浩實さんという映画批評・劇評家。浦崎さんは続けます。「児童が平和について考えることは大切だろう。しかし長じてもどう向き合うか、かなり難しいテーマであり、ましてやそれを詩で表現するのは難易度が高い。そのことを大人たちはどこまで自覚しているか」「私は(この詩を)無批判にたたえる大人たちの方が不気味だ。平和とは守り抜く強い決意が必要なほど獲得困難なものだと私は考える。だから当該児童を表現者とみなして、あえて言う。『へいわってすてきだね』とのことばを紡いだのなら、これからもその言葉の真の意味を問い続けてほしい。表現とはそういうものだ」
 この批評をどう思いますか?確かに1年生にしては”出来すぎ”で、指導が入ったかもしれないが、それでもいいではないか、素晴らし詩なのだから、その意をくめば、と思う人もいるでしょう。1年生にそこまで「表現者」としての責任を求めるのは酷だとの意見もあるかもしれません。
 私は浦崎さんがどういう方かまったく知りません。でも、この批評には同感です。素晴らしい批評だと思います。「表現の過程で指導を受け、書き換えていくと、自分の思いと出来上がった作品とに乖離が生まれる。『表現者』であれば必ずそこで傷を受ける。幼くとも必ずそういう表現者はいる。優先されるべきは児童生徒の自立性のはずだ」。これが浦崎さんの基本的立場だからです。そして「あえて」批評した背景には、「沖縄では批評が育ちにくい」という指摘に対する問題提起があるからです。
 沖縄のみならず、表現者は自立した個人として尊重されなければならない。それが子どもであっても。そして「美しい」言葉の裏にある真実を見抜かなければならない。そう教えてくれた浦崎さんの勇気ある批評に拍手を送ります。

 <今日の注目記事>(27日付沖縄タイムス1面トップ、関連2面)

 ☆<辺野古埋め立て 県に3500通 意見9割は対象外 「利害関係」該当せず>
「米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に向けた埋め立て申請をめぐり、県内外から寄せられた『利害関係人』による意見約3500通のうち、県が利害があると認める意見は1割に満たない見通しであることが26日までに分かった。埋め立てに伴い、経済活動や日常生活に実態的な利益・不利益が生じることを『利害』と捉え、名護市外から寄せられた意見の大半は利害関係人に該当しないとみている。ただ埋め立て区域周辺で日常的に活動する自然保護団体など判断の難しいケースもあり、来週以降、慎重に審査を進める」
 この記事が正確だとすれば、まったく言語道断の話です。環境保護や基地反対の意見がなぜ「利害関係なし」なのか。またく理解できません。名護市住民以外は対象外というならなぜ県内各地で申請書の縦覧を行ったのか。仲井真県政の姿勢が問われています。

2013/07/26

小さな島の大きなたたかい・与那国町長選

PhotoPhoto_2 日本の最西端、面積約29㎢、人口約1500人の与那国島。この遠くて小さな島で、いま日本の平和を左右すると言っても過言ではない大きなたたかいが行われています。自衛隊誘致をめぐる攻防です。
 誘致派と反対派が激突する一騎打ちの町長選挙が、8月6日告示、11日投票で行われます。誘致派は防衛省から「迷惑料」10億円をかすめ取ろうとして失敗したにもかかわらず厚顔無恥に出馬する現町長。反対派を代表して立候補するのは地元農家に生まれ町役場職員も務めた崎原正吉さん(65=写真)。その崎原さんを励まし勝利を勝ち取ろうという集いが25日夜、那覇市内で、「与那国の人々を支える会」の呼びかけで行われました。
 与那国の自衛隊誘致には国の軍拡政策の醜悪さが典型的に表れています。発端は2007年6月24日。アメリカの掃海艇が突然入港し上陸しようとしました。これに対し島のおじい、おばあら100人以上が座り込みで抗議。しばらく上陸を阻止し、米軍を驚かせました。その年、突然、与那国防衛協会がつくられ自衛隊誘致運動が始まったのです。彼らは秘密裏に「誘致賛成署名」なるものを集め、町議会で「誘致決議文」(防衛協会の趣意書そのまま)を上げ、町長、町議会議長、防衛協会長3者連名で、町の公印を勝手に押した請願書を持って防衛省に誘致要請を行いました。こうしたやり方はかつて宮古島で行われた手法と瓜二つ。裏で仕掛け人が指南していたと言われます。今回現職町長は防衛省と土地賃貸の仮契約を交わしましたが、それも地権者(南牧場)の意向を無視して強行という横暴ぶりです。
 これに対し、誘致反対派は07年以来、住民に事実を知らせる活動を中心に粘り強く運動を続けています。最新のビラ(写真)では、「自衛隊誘致で産業、自然、与那国島伝統がこわされる 島の平和なくらしを守ろう 憲法が生きる与那国島へ」「変えよう住民無視の今の町政 つくろう新しい町政 子・孫にほこれる与那国島に」と訴えています。
 与那国島への自衛隊配備は「島しょ防衛」を掲げる安倍内閣の当面の懸案。それは石垣島への海兵隊機能を持つ1000人規模の自衛隊増派、さらに那覇空港の自衛隊機1・5倍化へと連動します。事態は与那国だけの問題ではありません。
 反対派のみなさんの合言葉があります。この日も壁に張り出されていました。「ばんた どうなんちま かていらりぬん(私たちの与那国島を捨てるわけにはいかない)」

 <今日の注目記事>(26日付沖縄タイムス社会面見開き)

 ☆<猛毒「埋めるとは」 沖縄市・ダイオキシン検出 憤るサッカー関係者
    地元住民、米軍に不信感>(社会面トップ)
 「米軍嘉手納基地跡の沖縄市サッカー場から、ダイオキシン類の中で最も毒性が強く、枯れ葉剤被害の主因となった物質が検出された。サッカー場は少年たちにも利用されており、25日夜集まった地域のサッカー監督らは不安を募らせた。周辺住民も『猛毒を埋めるなんて』と憤った」
 ☆<「国は徹底調査を」 責任果たさぬ米軍 地位協定 地元にしわ寄せ>(第2社会面)
「沖縄市サッカー場地中にあったドラム缶から猛毒のダイオキシン類が検出された問題は、かつて米軍嘉手納基地として土地を使っていた米軍が当事者責任を果たさないまま、返還後に発覚した有害物質への対応に日本政府と地元自治体が追われるという構図をあらためて浮き上がらせた」

2013/07/25

杖を手に沖縄戦語り継ぐ元学徒隊員

PhotoPhoto_2 稲福マサさん(86=写真右中央)は当時、昭和高等女学校の18歳。「お国のために戦う」ことを疑わず、「ナイチンゲールにあこがれた」「軍国少女」でした。反対する親にウソをついてまで学徒隊(「でいご隊」=校章がデイゴの葉)に加わりました。
 そんなマサさんと一緒に、沖縄戦ででいご隊がたどった跡を一緒に巡りマサさんの話を聴く平和ガイド学習(教職員ピースガイド実行委主催)が20日ありました。主に教職員が対象でしたが、参加させていただきました。
 識名壕(本島・識名園近くの洞窟=写真左)での数カ月。外は爆撃、中は負傷兵の血と汚物とうめき声。マサさんは九死に一生をえますが、身代わりのように2人の学友が爆撃で亡くなりました。マサさんは「いつか家族に遺骨を」との思いで必死で2人の遺体を近くの松の木の下に埋めました。それでもマツさんは特攻隊機が米軍艦隊に突撃するのを見るたびに喝采をおくり「勝利を疑わなかった」といいます。根っからの「軍国少女」だったマサさんが、「だまされた」と気づいたのは終戦になって。「特攻隊の突入は人が死ぬこと。それを喜んだなんて・・・」と当時の異常な心理状態を悔やみます。何度も寸前のところで命拾いしたマサさんは、生きて親の元に帰り「親を悲しませずにすんだ」ことにほっとします。心の中にはいつも、学徒隊志願に反対した両親がいたのです。「軍国主義教育」の悲惨さ、残酷さがあらためて胸に迫ります。
 マサさんは杖をつき、痛む足を引きずりながら、「元気なうちは(ガイドを)続ける」と言います。マサさんのように現地を一緒に巡る体験者は極めて少数になっています。ひめゆり学徒隊も現地ガイドをとりやめざるを得ませんでした。一緒に回ったベテランガイドもマサさんの話に新たな発見があったように、体験者から引き継がなければならないことはまだまだたくさんあります。壕の保存も重要です。識名壕に移る前にマサさんたちがいたナゲーラ壕の前はいま建設現場となっており、まもなく壕が見えなくなろうとしています。壕は放置されたままです。
 体験者を引き継ぎ、語り継ぐ自主的な平和ガイド活動の大切さ、それを支援し、壕などの戦跡を保存する公的責任・活動の必要性を痛感しました。

 <今日の注目記事>(25日付沖縄タイムス1面トップ、社会面トップ)
               ※琉球新報も1、2、社会面で

 ☆<ダイオキシンは最強毒 沖縄市のドラム缶から検出 研究者「枯れ葉剤だ」
    防衛局 否定も肯定もせず>
 「米軍嘉手納基地跡の沖縄市サッカー場からドラム缶が見つかった問題で、沖縄防衛局は24日、ドラム缶の付着物と付近の水たまりからダイオキシン類のうち最も毒性が強い物質が検出されたと発表した。米軍が枯れ葉剤としてベトナム戦争で使った除草剤に高濃度で含まれ、奇形などの深刻な被害をもたらいた物質。研究者は『枯れ葉剤があった証明だ』と断定するが、防衛局は『否定も肯定もできない』と説明している。・・・物質は『2・3・7・8-TCDD』と呼ばれるダイオキシン類で、『最強の毒物』といわれる。・・・ダイオキシン類の分析と処理が専門で、ベトナムで被害調査をした愛媛大学の本田克久教授は『ベトナムと沖縄市でデータは共通点が多い。「2・3・7・8」の高濃度汚染は枯れ葉剤被害の典型。通常の除草剤ではこれほどの濃度にならない』と指摘した」

2013/07/24

「野嵩フェンス強行」より「ロイヤルベビー」か!

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Photo_3 参院選が終わるのを待ち構えて、22日夜沖縄防衛局が強行した普天間飛行場野嵩ゲートのフェンス増設強行。防衛局は「米軍の交通の安全確保のため」と言っていますが、大ウソです。私は先日その場所に行きました。そこはゲート入口からかなり離れている所で、入口に通じる道路との間にはすでにフェンスがあります。今回フェンス増設で入れなくした空間は、オスプレイ配備に反対する住民たちが水分を摂ったり、約1㍍四方の手作り机を置き、県外から初めて来た人たちなどとの交流の場になっていた場所です。そこから住民たちを追い出したのです。住民運動の妨害、来月予定されているオスプレイ追加配備への抗議行動の事前弾圧が狙いであることは明白です。
 それを参院選が終わるやいなや、夜中に抜き打ち的に強行したことは、安倍改憲内閣のこれからの強圧政治を象徴的に示すものです。けっして沖縄だけの問題ではありません。住民たちは22日夜も、23日朝も、警察に排除・妨害されながらも、怒りの抗議行動を続けました(写真左=琉球朝日放送から)。
 安倍内閣の暴挙それ自体がもちろん大問題です。ですが、さらに問題なのは、ことの重大性がどれだけ本土の人たちに伝わっているかです。
 NHKは23日正午と夜7時の全国ニュースでは「野嵩フェンス強行設置」にはまったく触れませんでした。正午のトップニュースは何だったか。イギリス皇室の男子誕生です(写真右)。夜のニュースでも「ロイヤルベビー」を大きく取り上げました。さすがに沖縄ローカルニュースではNHKも野嵩の事態を伝えましたが、沖縄以外の全国放送を見ている人にはまったく伝わっていません。
 「ロイヤルベビー」の過剰報道は、「開かれた皇室」(NHKのコメント)に誘導するものです。無意識のうちに日本の天皇制を刷り込む役割を果たします。本土の人びとは、野嵩ゲートの事態の代わりに、「開かれた皇室」を注入されているのです。
 これが「沖縄と本土の温度差」といわれるものの正体です。それは「温度差」などではありません。日本人にとって、人間にとって大切な情報が奪われ、知らなければならない事実が隠されているということです。奪われているのは本土の国民です。本土のみなさん、せめて時々、ネットや図書館で沖縄の新聞を読んでください。それは自分自身のためです。

 <今日の注目記事>(24日付沖縄タイムス1面トップ、社会面トップ)

 ☆<ドラム缶からダイオキシン 沖縄市サッカー場 
                     環境基準超す 「枯れ葉剤」断定できず>
 「米軍嘉手納基地跡地の沖縄市サッカー場の地中から枯れ葉剤などを製造していた米化学品メーカーの社名が記されたドラム缶が見つかった問題で、ドラム缶の付着物や周辺土壌を採取した沖縄防衛局の調査で環境基準を超えるダイオキシンが検出されたことが23日、分かった。枯れ葉剤を構成する複数の成分で検出されていない成分もあり、政府関係者は『ダイオキシン検出をもって現時点で枯れ葉剤と断定できない』としている」
 やっぱりか。枯れ葉剤かどうかの確定はこれからですが、基準を超えるダイオキシンが検出されたこと自体大問題です。ダイオキシンは発がん性をもつ猛毒です。基地の跡地はこれほど汚染されているのです。日本政府はここに限らず、すべての基地跡地土壌の徹底検査を行うとともに、米軍に化学薬品使用・廃棄のデータを提出させなければなりません。

2013/07/23

いま響く、中村文子さんの「草の根」の教え

PhotoPhoto_2 参院選から一夜明け、テレビで安倍首相や石破自民党幹事長の顔を見るたびに、暗い気持ちになっていた22日、偶然ある番組に出会いました。「草の根は叫び続ける~中村文子 1フィートの反戦~」(琉球放送)。先日亡くなった「1フィートの会」事務局長で沖縄平和運動の中心人物の1人だった中村文子さん(享年99)の活動を追ったドキュメントで、10年前に放送されたものの再放送です。
 中村さんの活動の原点は、「軍国教師」として教え子を戦場に送ったことへの後悔と贖罪です。市民の募金でアメリカからフィルムを少しずつ買い集めて編集する「1フィート運動」は、初上映の1984年5月以来、沖縄戦の継承に大きな役割を果たしてきました。苦しい資金事情の中でその活動を支えてきたのが中村さんです。
 中村さんには「大きな影響を受けた2人の人」がいました。1人は国連軍縮総会で知り合ったイギリスのノーベル賞受賞者、ノエル・ベーカー氏。その言葉、「人間が造ったもので壊せないものはない。核もミサイルも。壊すための強力なハンマーは世論である」。もう1人は恩師でもある初代沖縄県知事の屋良朝苗氏。「沖縄の硬い壁を削るためには、刃先が太い刃物でなければならない」。「鈍角のたたかい」の教えです。これが中村さんの「草の根のたたかい」を支えてきました。
 中村さんは1978年に有事立法が自民党政府によって初めて国会に上程された時に、自宅の床の間に憲法9条の掛け軸を掛け、平和への誓いを新たにしました(写真左)。そして番組が放送された2003年、有事法制が成立。中村さんはさらなるたたかいを決意します。この時の防衛庁長官が石破茂現自民党幹事長でした。
 中村さんの教え子のうち5人がひめゆり学徒隊となり、うち2人が帰らぬ人となりました。中村さんはひめゆり記念館で2人の写真をさすりながら、涙で話しかけます。「春子、清子、見ててや。子どもや孫は絶対あなたたちと同じ目には遭わせないからね。しっかり見ててよ」(写真右)
 番組は中村さんの次の言葉で終わります。「沖縄から基地を取り払うのを見届けて、あの世で教え子たちに”昔の沖縄に戻したよ”と報告したい。それはたやすいことではない。草の根から大きな声を上げなければ」
 中村さんは思い半ばで教え子たちのもとへ行きました。憲法9条がかつてなく危ないこの時に。参院選の翌日の再放送は、見えない力の引き合わせでしょうか。中村さんの声が聞こえてくるようです。「落ち込んでいるヒマはないよ。いまこそ草の根の、鈍角のたたかいを強めなければ」。

 <今日の注目記事>(23日付琉球新報1面トップ、社会面トップ)

 ☆<普天間基地・野嵩ゲート 防衛省が鉄柵設置 オスプレイ抗議防止か>(1面)
 「日米両政府は22日の日米合同委員会で、米軍普天間飛行場の第3ゲート(宜野湾市野嵩)にフェンス(境界柵)を設置することを承認した。垂直離着陸輸送機MVオスプレイ初配備をめぐり、昨年9月に配備に反対する住民らが座り込みなどで第3ゲートを封鎖し、飛行場から市内への出入りができなくなったのを受け、米軍が日本政府に対し柵の設置を要請していた。防衛省は22日午後8時ごろ、工事に着手。ゲート前で抗議行動をしてきた住民らが反発し、作業員ともみ合うなど現場は度々、騒然となった」
 ☆<選挙翌日「だまし討ち」 市民ら激しく抵抗>(社会面)
 「『工事を止めろ』『だまし討ちだ』。オスプレイ配備に反対する住民らの怒号が上がる一方、工事作業の音が響き渡った。着工は21日投開票の参院選の翌日だった。『これが負担の軽減か。増強拡大だ』などと工事に反対し、声を張り上げる市民数十人と警察数十人、工事関係者が激しくもみ合うなど、現場は23日午前0時半現在も緊迫した状況が続いている」
 朝刊で初めて知りました。まさに夜陰に紛れただまし討ち。安倍内閣が早くも牙をむいてきています。

2013/07/22

暗黒政治に一条の光・・・沖縄・糸数さんの勝利

PhotoPhoto_2 予想していたこととはいえ、参院選の結果には暗たんたる思いです。圧勝した安倍・自民党の改憲・強権政治はますます加速し、日本は暗黒社会への道を突き進むでしょう。
 そんな中、自民党候補との一騎打ちを制した沖縄選挙区・糸数慶子さんの勝利は、まさに暗黒政治の中の一筋の光です。その意義は歴史的です。糸数さんの当選は、日本の根幹にかかわる安倍内閣の2つの野望にストップをかけたのです。
 一つは米軍普天間飛行場の辺野古移設です。県民は自民党候補の「県外移設」のごまかしを見破り、中央と沖縄の自民党の「ねじれ」に審判を下しました。自民党候補の選対本部長だった仲井真知事はこの結果を厳粛に受け止め、辺野古沖埋め立てを承認すべきではありません。県民の意思は三たび、四たび明確に示されたのです。アメリカの言いなりになって基地負担を続け、米戦略に加担する安倍・自民党の安保政策に、沖縄は「ノー」と言い続けているのです。
 もう一つは憲法改悪です。自民党候補は辺野古移設を隠そうとしたのと対照的に、「国防軍」設置を含め憲法改定をはっきり掲げました。糸数さんとの政策の違いは鮮明でした。沖縄では憲法問題が最大の争点だったのです。そして県民は糸数さんに軍配を上げた。沖縄戦で県民の4人に1人が殺され今なお傷が癒えない沖縄は、憲法改定、とりわけ9条の改悪をはっきり拒否したのです。
 沖縄は1972年にアメリカの支配から日本国憲法に「復帰」できると期待しました。しかし、それは裏切られ、沖縄は憲法9条のラチ外に置かれ続けています。まるで憲法に見放されたように。それでも沖縄の人々はその憲法を、9条を守ったのです。日本人の多くが沖縄の現実に目を向けようとしなくても、沖縄の人々は日本の憲法を守ってくれたのです。このことを、本土の人間は真剣に考えなければなりません。
 自民党圧勝にマスメディアは犯罪的な役割を果たしました。一貫して「衆参のねじれ解消が争点」だと口をそろえて自民・公明を後押し、選挙後はまたしても、「野党連合が焦点」と、政策抜きの政局劇に目を移させようとしています。その腐敗ぶりはますます極まっている気がします。沖縄の選挙結果は、そうした本土のマスメディアとは一線を画す県紙の存在と無関係ではないと思います。
 とは言っても、安倍・自民党を圧勝させたのは、やはり日本の有権者です。基地や安保、憲法のことよりも「自分の生活が第一」という、ひと任せの利己主義が、強い者になびき、「政治の安定」を選んだのです。
 日本の民主主義は沖縄のおかげで首の皮一枚つながりました。でも孤立無援は辛すぎる。首の皮はいつまでもつか分かりません。本土の人間が、早く目を覚まして、沖縄の人々と一緒にたたかわなければ、この国はほんとうに暗闇になってしまいます。

2013/07/21

映画「吉屋チルー物語」と金城哲夫

PhotoPhoto_2 映画「吉屋チルー物語」の上映会が18日宜野湾市内でありました。名前だけは知っており、機会があればぜひ観たいと思っていました。なぜなら、それは全編ウチナーグチ(沖縄語)で作られている映画だからです。ウチナーグチは分かりません。分からないからこそ、その世界に身を置きたかったのです。
 映画は幼くして身売りされ遊女となり、身分違いの恋に落ち、19歳で自死した伝説の女流歌人の生涯を描いたものです。実生活の詳細は不明ですが、身売りされる時に渡った比謝橋に悲しみを歌った歌碑が建っています(写真左)。案の定、台詞はほとんど分かりませんでした。でも、いくつかの単語と演技によって粗筋は理解できました。しかしチルーが死ななければならなかった場面など肝心なところの細部はわかりません。周りで目頭を押さえている人たちの感動にはやはり及びませんでした。大筋は分かる。でも肝心な細部、心の機微は分からない。ウチナーグチの世界でこの感覚が体験できただけでも貴重でした。
 さらに大きな収穫だったのは、この映画の製作・脚本・監督を独りで行った金城哲夫(1938~1976、写真右=森口豁著『沖縄・近い昔の旅』から)を詳しく知ることができたことでした。映画上映後に実妹の上原美智子さんのトークもありました。金城哲夫は名前は知っていました。子どものころ楽しみに見たテレビドラマ「ウルトラマン」の作者です。金城は高校時代から親友の森口氏と手作りの沖縄通信を全国の高校に郵送するなど、精力的に沖縄を本土に理解させようと努めました。「吉屋チルー」は金城が大学を卒業して直後の24歳の時に作ったものです。大胆な性格そのままです。出演者(沖縄芝居の一流役者)も音楽もオール沖縄。巨額の製作費は母親が営んでいた飲食店の私財を投げ打って調達。母は借金で病気になったとか。そんな犠牲を払ってでも、ズブの素人の金城が「吉屋チルー」を製作した真意は何だったのか。貧困や身分差別に対する告発もあるでしょう。もちろん「沖縄のアイデンティティ」が基盤にあります。でもそれだけでしょうか。金城は「復帰」直前に円谷プロを退社して沖縄に帰郷し、37歳で事故で急死します。妹の上原さんは「一瞬自殺かと思った」と言われました。その思想、人生は深く、興味は尽きません。
 強い愛で結ばれていた母は奇しくも哲夫と同じ年に急死しています。57歳。沖縄戦で片脚を失っていました。名前は金城ツルさん。「吉屋チルー」のチルーは沖縄語で、日本語ではツル。偶然でしょうか。

2013/07/20

墓が語る新たな近世琉球の庶民・家族史

Photo_5Photo_6 沖縄ですぐに目につくのは各所の墓地にある大きな墓です。それは代々の一族の絆であり、祭事の場であり、沖縄戦では防空壕の代わりにもなりました。でも墓にはそれにとどまらない大きな意味があると教えられました。歴史資料としての可能性です。
 沖縄文化協会の公開研究発表会が14日県立芸大であり、県立博物館・美術館の安里進館長(写真右)が、「墓からみた近世琉球の家族史-家族の数だけ歴史がある-」と題して報告しました。
 沖縄には、亀甲墓、洞穴墓、掘込墓、破風墓など各種の墓がありますが、それらの基は琉球王府の墓・玉陵といわれます。墓の中には洗骨した骨を納める厨子が置かれていますが(写真左)、その形は首里城正殿を模したもの。厨子の中には銘書という個人情報が書かれたものが入っている場合があります。でもそれがなくても故人や家族の状況を復元することができる、というのが安里さんが土肥直美さん(琉大医学部)らとともに発見した方法です。骨の分析から性別や死亡年齢、体格、病歴など「人生履歴」を割り出し、それに厨子や銘書、墓内の状況などの情報を重ね合わせるのです。そうすると一人ひとりの生活や家族関係、系図などをリアルに蘇えらせることができるといいます。「琉球の近世・近代墓は、家族史のタイムカプセルだ」と安里さん。まさに「家族の数だけ歴史がある」というわけです。
 たとえばそうやって墓内の厨子を調べてみると、従来沖縄では男尊女卑の考え・風習が強く、墓もそれに従うと見られていましたが、実際は性別よりも家族への貢献度が優先され、女性でも経済的柱になっていた人を中心に墓が構成されている例が判明したといいます。庶民は案外プラグマティックな、生活に根差した価値観を持っていたのですね。
 琉球近世墓はこれまで宗教や習俗の観点から調査・研究されてきました。それを歴史資料とし、そこから家族史を再構成する試みは、「扉が開かれ始めたばかりの、琉球=沖縄史研究の新たなジャンル。開拓し深める課題はたくさんある」と安里さんは期待を膨らませます。
 これまで知られなかった、あるいは定説を覆すような琉球・沖縄の歴史、庶民の生活が、墓から分かってくるかもしれません。わくわくする話です。

 <今日の注目記事>(20日付琉球新報から)※沖縄タイムスも同様記事(共同電)

 ☆<改憲「もってのほか」 宮崎駿監督、冊子で訴え>
 

 「宮崎駿監督がスタジオジブリ発行の小冊子『熱風』の寄せた改憲反対の記事が大きな反響を呼んでいる。『憲法を変えようなんて、もってのほか』。全国の書店で10日から無料配布した熱風は早々に品切れとなり、問い合わせが相次いでいる。ジブリは急きょホームページで内容を公開した。・・・宮崎監督は談話形式の記事で『政府がどさくさに紛れて、思いつきのような方法で憲法を変えようなんて、もってのほかです』と主張。改憲の国会発議要件を緩和する96条先行改正を『詐欺』と断じた。『憲法9条と照らし合わせる、自衛隊はいかにもおかしい。おかしいけれど、そのほうがいい。国防軍にしないほうがいい』とも指摘。従軍慰安婦問題にも言及し『きちんと謝罪して、ちゃんと賠償すべきです』としている」

2013/07/19

組踊-その歴史・伝統と新たな挑戦

PhotoPhoto_2 組踊(くみおどり)は沖縄を代表する伝統芸能です。台詞と踊りを歌曲(舞台上で演奏)にのせて展開する独特の歌舞劇で、起源は18世紀の琉球王国時代。「復帰」した1972年に国の重要無形文化財に、2010年にはユネスコの「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載されています。
 そんな組踊の歴史を学び、実際に鑑賞しようという取り組みが13日、国立劇場おきなわで、県の生涯学習事業の一環として行われました。組踊のために04年建てられた国立劇場で、本物の組踊を、低料金で鑑賞できる機会で、喜んで参加しました(写真はロビーと舞台)。
 この日の演目は「貞孝夫人」。夫亡きあと嫁ぎ先の家を守ろとする貞淑な士族女性の物語です。事前の講演の講師は大城学琉球大教授。組踊は本土の歌舞伎などに学びながら、ほとんどの演目の結末に琉球王府が登場し重要な役割を演じるのが特徴と知りました。「貞孝夫人」もそうでした。それは組踊がもともと中国の使節団・冊封使を歓迎する催しとして始まったことと無関係ではないようです。実は私は昨年本土で初めて組踊(「二童敵討」)を見ており、今回が2回目でしたが、劇場が素晴らしく、舞台の両そでに台詞のうちなーぐちを日本語に訳したテロップが流れるのに感心しました。これなら安心して鑑賞できます。
 ところで、今年3月、歌舞伎の坂東玉三郎が新作組踊「聞得大君(きこえおおきみ)誕生」(作・大城立裕)を演じ、「歌舞伎と組踊のコラボ」として話題になりチケットは早々と完売しました。ところが6月になって琉球新報、沖縄タイムス両紙に相次いで玉三郎の「身体様式」や「唱え」を酷評する投稿(沖縄国際大学教授と准教授)が掲載されました。7月にはそれに対する反論(県立芸大研究員)の投稿が載りました。もちろん私にはその批評の応酬に立ち入る能力などまったくありません。でも、組踊がこれまでの枠を超えて、より多くの人に鑑賞されるのはとても良いことではないでしょうか。批判を覚悟で大きな壁に挑んだ玉三郎はさすがです。伝統は守りながら、新たな挑戦で裾野を広げることは大歓迎です。沖縄では学校で組踊を演じ、その魅力を児童生徒に伝えようという取り組みも広がっています。
 沖縄の歴史、言語、音楽、踊りが一体となった組踊。もっと親しみたいと実感した1日でした。

<今日の注目記事>(19日付琉球新報1面トップ)※沖縄タイムスは2面に同様記事

  
 ☆<辺野古埋め立て 意見書2000通超 「告示・縦覧」が終了 県、利害関係精査へ>
 「米軍普天間飛行場代替施設の名護市辺野古への建設に向けて、沖縄防衛局が県に提出した公有水面埋め立て承認願書を住民に公開する『告示・縦覧』が18日、終了した。所管する県海岸防災課は、3週間の告示・縦覧期間中に受け付けた『利害関係人』からの意見書が同日までに2千通を超えたことを明らかにした。同課は『県内での埋め立て事業への意見書としては最多ではないか』と話しており、辺野古への埋め立てに対する関心の高さが浮き彫りになった」
 申請書縦覧については、もともと不備なまま県が受け入れたことや、期間が短いなどの問題がありましたが、2000通以上の意見書は、辺野古移設反対がいかに沖縄の強い世論であるかを改めて示しています。

2013/07/18

野嵩ゲート前・・・たたかい続ける人々

PhotoPhoto_2 安倍首相が石垣、宮古を訪れ、自衛隊の配備強化をアピールした17日、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の野嵩ゲート前には、いつものように2人の男性の姿がありました。赤嶺和伸さん(59、写真左)と比嘉良博さん(54、同右)。昨年10月1日のオスプレイ配備強行からゲートでの抗議行動は続いています。朝は7時から10時まで、夕方は3時から5時まで、のべ20~30人がそれぞれの思いを持って参加します。組織された人たちではありません。中心にいる2人もそうです。
 赤嶺さんは普天間基地のすぐそばに住み、普天間爆音訴訟団の原告の1人ですが、オスプレイ配備強行までこうした抗議行動の経験はありませんでした。毎朝2時起床という食品関係の仕事をしながらの活動です。基地を見たいという人には初対面であろうと、普天間基地が一望できる自宅へ招きます。比嘉さんは少し離れた所で鉄工所を経営しながら、毎日プラカードやのぼりを軽トラックで運びます。ゲート前には折り畳み式のテーブルが置かれ、参加者のゆんたく(歓談)の場にもなっていますが、これも比嘉さんの手作りです(写真右)。
 「ここはスクールゾーン。小さな1年生が大きなランドセルを背負って通学しているのを見ると、沖縄の姿を見ているような気になる。人口1%、面積0・6%の小さな沖縄に全国の74%の米軍基地が背負わされている。中の荷物を1つ降ろしてやろうという。それが嘉手納以南の基地返還。しかしその代わりに別の重い鉛を入れる。それが辺野古移設。なぜ沖縄だけが重い荷物を背負わなければならないのか」。赤嶺さんの実感です。
 自分の仕事、生活をもちながら、ゲート前行動を続けられるのはなぜ?「小学生が『オスプレイ反対』と書いた紙を見せて通ることがあります。そんな時はほんとうに励まされます」と赤嶺さん。「ここにいると仕事では得られない充実感、”生きている”とう実感があります」と比嘉さん。時折中学生たちが数人で通りがかりました。「こんにちは」「今何時ですか」という子どもたちに、笑顔で応える赤嶺さんと比嘉さん。2人の力の源はここにもあるようです。

 <今日の注目記事>(18日付沖縄タイムス「社説」から)

 ☆<2013参院選 普天間問題 「辺野古」を争点化せよ>
 「普天間問題は既に全国レベルの焦点ではなくなっているのではないか。参院選をめぐるメディアや世論の動向を見る限り、シビアな現実と向き合わざるを得ない。・・・沖縄が直面する『国策のゆがみ』に全国の関心が向かないのはなぜか。政府が辺野古移設を『既定路線』として扱い、争点化する機運を意図的に封じ込めているからではないか。・・・普天間飛行場には8月にもオスプレイが追加配備される見通しだ。政府と沖縄の意識の隔たりは深刻といえる。与野党を問わず、政府の暴走を断つ候補を見極めたい。有権者の感度も試されている」

2013/07/17

参院選・・・争点を隠す人、暴く人々

Photo_3Photo_4Photo_5 参院選挙投票日まで5日となった16日、安倍首相が来県し、夕方5時半から県庁前で街頭演説を行いました。開口一番、「沖縄は全国で一番厳しい選挙区です!」。その沖縄で何を話したか。約20分の演説の大半は自民党候補者の持ち上げと「アベノミクス」の自画自賛。それも「”安倍さん、そうは言っても(好景気は)実感できないよ”という人がたくさんいることは承知しています」と言い訳しながら。沖縄で焦点の普天間飛行場については、「1日も早く移設を」というだけで「辺野古沖」とは一言もいいませんでした。言えないでしょう。横にいる沖縄選挙区の候補者も自民党県連も、世論の手前、「県外移設」を公約しているのですから。自民党の”ねじれ”、ごまかしの構図がくっきり浮かんでいる争点隠しです。
 もっとひどい争点隠しは、憲法です。参院選挙で自民党が勝てば、憲法96条、さらに9条に手をつける。それが本音であることは、自民党の選挙政策でも、16日沖縄タイムスが報じた安倍氏の発言でも明らかです。しかし県民を前にした演説では「憲法」のけの字も口にしませんでした。
 でも有権者は見抜いています。ちょうど24時間前の同じ場所で、主婦ら6人が手作りの看板1枚を立て、手書きのビラを配り、メガホンで訴えました(写真右、下)。「憲法9条・メッセージプロジェクト(K9MP)」の主婦たちです。「何かしたい。何ができる?」と相談して作ったビラ。真ん中にはズバリ、「選挙の争点は憲法」。そして、「憲法は私たちにくらしを守る最高法規」「我が子を戦場には送らない!」「今!私たち主権者が問われています」。代表の城間えり子さんは、「『国防軍』『集団的自衛権』を含む改憲の先、『戦争のできる国』に変えていく動き。それに歯止めをかけられるのは私たち一人ひとりです」と訴えます。
 県庁前を埋めた安倍首相・自民党の数百人の演説会に対し、「6人の女性」は、象とアリほどに微々たる存在です。しかし、どちらが真実なのか、どちらが正義なのか。歴史は常に、真実と正義に立った少数者から動き出します。彼女たちのビラにも書いてありました。「私たちは微力ではあっても、無力ではない」。

 <今日の注目記事>(17日付琉球新報1面トップ)

 ☆<糸数氏先行、安里氏猛追 態度未定3割強 浮動票が当落左右
    本紙・共同通信調査>
 「21日投開票の第23回参院選に向けて、琉球新報社は14日から3日間、共同通信社と合同で県内有権者を対象に電話世論調査を実施した。その結果に本紙の取材を加味して情勢を探ると、沖縄選挙区(改選数1)は社大党委員長で現職の糸数慶子氏(65)=生活、共産、社民、みどり推薦=が先行し、自民党新人の安里政晃氏(45)=公明推薦=が激しく追い上げる展開が続いている。ただ、3割強が投票する人をまだ決めていないと回答しており、最終盤に向けてこれら浮動票の動向が当落に影響しそうだ」

2013/07/16

映画「道~白磁の人」に見る「沖縄と本土」

PhotoPhoto_2 映画「道~白磁の人」(高橋伴明監督、吉沢悠主演)の上映会が14日、那覇市てんぶす館でありました。1914年朝鮮半島に渡り林業技師として半島の緑化に生涯を捧げた実在の人物・浅川巧(たくみ、1891~1931)の生涯を描いたものです(白磁は朝鮮の伝統的陶磁器)。巧は兄・伯教(のりたか)、親交があった柳宗悦とともにソウルに「朝鮮民族博物館」を開館したほか、朝鮮の伝統文化・風習を著書で紹介した功績もあります。上映は「森林ボランティアおきなわ」の主催で、東北復興支援チャリティの一環として行われました。
 確かに植林・緑化がテーマなのですが、私にはそれよりも強く胸に迫る問い掛けがありました。日本の植民地下の朝鮮で、日本人と朝鮮人は理解し合えるのか、ほんとうの友愛を結ぶことはできるのか、です。それは私にとって、そのまま、沖縄と本土は理解し合えるのか、沖縄にいる本土の人間は沖縄の人々とほんとうに信頼し合えるのか、という問いかけでした。
 朝鮮に渡った巧が朝鮮を理解しようとしてまず行ったことは、同僚の朝鮮人の親友からハングルを学ぶことでした。まず相手の言語を知ること。当たり前のようですが、沖縄にいるとその意味が実感されます。巧は日本軍の朝鮮差別に対し身を挺して抗議します。時に民族衣装を着け、現地の文化・風習に溶け込もうと努めます。そんな巧に対しても、朝鮮の人々は「だまされるな、彼も日本人だ」と言い放ちます。どんなに”いい人”でも、植民地支配する国の国民であることは消えないのです。失意の巧が親友に問います。「日本人と朝鮮人が理解し合えるのは夢なのか」。親友は答えます。「夢でも、それに向かって行動することに意味があるのではないですか」。巧はハングルで、親友は日本語で。40歳で早世した巧は娘に「それでもお父さんは木を植え続ける」と言って息を引き取ります。植林への思いを言い遺した言葉なのでしょうが、私には”日本と朝鮮が理解し合う夢を追い続けたい”と聞こえました。
 「夢でもそれに向かって行動することに意味がある」。そう言える人生を、沖縄で送ることができるでしょうか。
(写真右は、山梨県北杜市高根町にある浅川伯教・巧資料館のパンフレット)

 <今日の注目記事>(16日付沖縄タイムス1面トップ)※琉球新報は3面

 ☆<「9条改憲 正しい姿」 安倍首相「自衛隊を明記」 軍隊として必要性強調>
 「安倍晋三首相(自民党総裁)は15日に放映された長崎国際テレビ番組のインタビューで、将来的な憲法9条改正に意欲を示した。『われわれは(憲法)9条を改正し、その(自衛隊)存在と役割を明記していく。これがむしろ正しい姿だろう』と述べた。自衛隊や軍隊として位置づける必要性も強調した。首相は、参院選で経済政策を優先する姿勢を強調するため、公示後はテレビ番組などで改憲についての積極的な発言が少なく、街頭演説などを含めても具体的な改憲内容に言及したのは珍しい」
 能のないタカはつめを隠すこともできない。参院選の争点はまぎれもなく「憲法」です。

2013/07/15

「海の日」も沖縄にとっては「屈辱の日」

PhotoPhoto_2 今日は「海の日」。といっても多くの人にとっては連休最終日というくらいの認識でしょう。私もそうでした。でも、沖縄に来て、この日も沖縄にとっては見過ごせない日だと知りました。
 「海の日」は1996年橋本内閣によって制定されました。その起源は「海の記念日」(7月20日)です。「海の記念日」が決められたのは1941年。まさに太平洋戦争に突入する直前でした。なぜ7月20日なのか。1876年のこの日、天皇制浸透を図るため北海道、東北を「巡幸」した明治天皇が、横浜港に”無事”帰還したことを記念したものです。明治天皇が乗った船は明治丸(写真左。堤防の向こう=ウィキペディアより)。当時最新鋭の灯台巡視船で、天皇の「お召し船」になりました。その3年後の1879年3月27日、明治政府は160人の警察官、400人の軍隊を引き連れた松田道之を琉球に派遣し、琉球の尚泰王を東京に連れ去り、「沖縄県」設置を強行しました。いわゆる「琉球処分」です。この時、松田が琉球に乗り込み、尚泰王を連行した船こそ、あの明治丸だったのです。「琉球処分」は1872年に琉球王国を解体して琉球藩を設置したことに端を発しますが、その翌年に明治政府は全国にさきがけて「日の丸」と天皇・皇后の写真を琉球藩に押しけ、天皇制の普及を図りました。そんな明治天皇や明治丸を称賛し、戦意高揚に関わった「海の記念日」を沖縄が祝えるわけがありません。しかも、それを「海の日」とした1996年は、橋本内閣が普天間飛行場を辺野古沖に移転することでアメリカと合意した年でもあるのです。
 こんな「海の日」を、逆に「平和を考える日にしよう」と、「軍港反対!浦添市民行動実行委員会」の大城信也さん(フォークシンガー=写真右)らは、12年前から毎年この日に集会を開いています。今年も浦添西海岸で行われます。大城さんは、「世界につながる海を平和で結ぶ海として開花させよう」と訴えています。
 「海の日」もまた、沖縄にとっては「屈辱の日」であり、「海の平和」への決意を新たにする日なのです。

 <今日の注目記事>(15日付沖縄タイムス1面から)

 ☆<自衛隊に海兵隊機能 新大綱中間報告 離島防衛重視>
 「防衛省は、年内に策定する長期的な防衛力整備の指針『新防衛大綱』の中間報告に『海兵隊機能の充実』を図ると明記する方針を固めた。同省関係者が14日明らかにした。尖閣諸島周辺での中国との緊張関係を反映し、離島防衛重視の方策を打ち出す必要があると判断した。中間報告は参院選後の7月中に公表し、安倍晋三首相に提出される見通しだ。海兵隊は米軍では陸海空軍と並ぶ4軍の一つで、主として敵の支配する地域に空海路で乗り込む先遣隊の役割を担う。韓国軍にも置かれているが、自衛隊にはない」
 海兵隊は敵への殴り込み部隊。自衛隊にないは「専守防衛」の建前に反するからです。沖縄タイムスも「離島防衛重視」の見出しをつけていますが、「防衛」などではなく、米軍と一体になって先制攻撃ができるようにしようとするものです。

2013/07/14

参院選沖縄選挙区・民主党の不可解な行動

Photo 参院選挙の投票日まで1週間になりました。世論調査では「自民党の圧勝」が予想され、とくに選挙区選挙の1人区は自民党の独走と見られています。そんな中で、全国で特筆されるのが、1人区で自民党が苦戦している沖縄選挙区です。
 現職の社大党委員長・糸数慶子さん(共産、社民、生活、みどり推薦)と自民党公認・安里政晃さん(公明推薦)の一騎打ちです。「今回の選挙は来年の知事選などの前哨戦ともなる。昨年12月の衆院選で県内4小選挙区中、自民党が三つを制した勢いで与党が議席を獲得するか、野党が共闘する現職候補が議席を死守するかが注目される」(琉球新報7月5日付、写真も)というのが共通した見方です。普天間飛行場の辺野古移設攻防の天王山となる来年はじめの名護市長選にも直結します。その影響は沖縄にとどまりません。まさに全国注視の選挙区です。
 ところがその選挙で、不可解な動きが出ています。公示日直前に突然、まったく無名の女性(無所属)が立候補を表明しました。平和ガイドという経歴、基地撤去などの政策、そして女性ということで、糸数さんと大変共通点があります。もちろん立候補は自由です。平和を訴える候補者が増えることは悪いことではありません。しかし、今回の選挙の構図・意義を見るなら、反自民票の分散は避けねばなりません。もう1人の女性候補の突然の立候補で、糸数さんへの票のいくらかはそちらに流れると見るのが普通でしょう。
 そしてなによりも驚いたのは、民主党の沖縄県連代表である喜納昌吉氏がこの女性候補を応援していることです。喜納氏は10日、那覇市内3カ所でこの候補の街頭宣伝に参加し、応援演説を行いました。「個人としての応援だ。(県連は)自主投票を決めていて問題はない」(琉球新報)と言っていますが、そうでしょうか。沖縄民主党の代表であり、抜群の知名度を持つ喜納氏の街頭選挙応援が、「個人」の問題ですまされるでしょうか。「自公の過半数阻止」という民主党のスローガンが本物なら、本来糸数さんを支援してしかるべきです。一歩譲って「自主投票」ならまだしも、喜納氏の行動は明らかに反自民票の分散につながり、自民党を喜ばせるものです。この喜納氏に対し党本部から注意の一つも与えられたという報道はありません。民主党の全国的な衰退は必至ですが、沖縄民主党のこうした行動は、同党の沖縄における存在意義を消滅させ、再建の芽すら摘んでしまうと言わざるをえません。
 そんな民主党幹部の不可解な行動をよそに、安倍改憲内閣・自民党の暴走を許さない沖縄平和・民主勢力のたたかいは、五分五分の形勢のまま最終盤に突入します。

 <今日の注目記事>(14日付琉球新報2面から)

 ☆<岩手、沖縄で協力強化方針 自公幹部>
 「自民党の石破茂、公明党の井上義久両幹事長は13日夜、国会近くのホテルで、終盤を迎える参院選の情勢について意見交換した。与党で過半数を獲得するため、岩手、埼玉、千葉、沖縄選挙区での協力を強化する方針を確認した。石破氏は、自民党が重点区に位置付ける改選1人区の岩手、沖縄と、候補者を2人擁立した千葉(改選数3)について協力を要請」
 沖縄の選挙はまさにつばぜり合いです。

2013/07/13

「ヘイトスピーチ」を法律で規制する前に

PhotoPhoto_2 沖縄大学で行われた研究発表会(沖縄外国文学会第28回大会、6日)のなかで、筑波大学の畔上泰治教授が、「メディア媒体を通して表現された社会的少数者に対する嫌悪・攻撃感情の研究-現代ドイツの事例を中心に」と題して報告しました。東京や大阪のデモなどでヘイトスピーチ(憎悪発言)が問題化し、その規制の是非が問われているとき、興味深く聴きました。
 ドイツで昨年12月、1枚の無料音楽CDが規制されました。極右勢力が若者への宣伝・勧誘のため学校の前や集会で2004年から配布(19曲収録、のべ5万枚=写真左はそのジャケット)してきたもので、その後右翼政党NPDが選挙の際に利用していました。その歌詞は少数民族を攻撃して多文化共生社会を否定し、「俺たちはナチ」などとナチズムを賛美するもので、青少年保護法などに違反すると認定されたのです。問題になったのははやり「表現の自由」との関係です。畔上さんは「ドイツでももちろん現体制への批判は認められる。しかしそれに代わるビジョンがナチズムと類似する場合は取り締まりの対象になる」と説明しました。
 日本ではどうでしょう。在日朝鮮人などに対し「死ね」などと叫んでデモするヘイトスピーチを規制することはできるでしょうか。ドイツでは「表現の自由」よりもナチズムの排除が優先されます。それほどナチズムへの反省が浸透し、多民族・文化共生社会が尊重されているのです。日本にそんな社会的風土はあるでしょうか。
 「ヘイトスピーチ規制は世界の常識」とする前田朗さん(東京造形大教授)は、法律で規制する前に、「まずは罰則のない人種差別禁止法をつくるべきだ」と主張します(ブログなど)。人種差別撤廃条約は日本も批准しています。「表現の自由」との関係では、「ヘイトスピーチで被害が厳然と存在することをまず認めること」が必要だとし、「欧州も50年かけて社会意識を変えてきた。ネオナチ対策から始まり、試行錯誤しつつ取り組んできた。時間をかけてでも、日本は人種差別問題に取り組む必要がある」と指摘します。
 ヘイトスピーチにはそれを生み出す社会的基盤(新自由主義によるストレス競争社会)があります。さらにその根底には、人種差別につながる伝統的な天皇制風土があると思います。法規制の前に、こうした社会基盤や日本の風土を捉え直すことが必要ではないでしょうか。人種差別にどう立ち向かうか。他人事ではなく、日本人一人ひとりが問われているのですから。

 <今日の注目記事>(13日付沖縄タイムス1面から)※琉球新報1面にも同様記事

 ☆<非正規割合 沖縄が最高 12年就業調べ 44・5% 全国も上昇>

 「総務省が12日発表した2012年の就業構造基本調査によると、非正規労働者の総数(推計)は2042万人と07年の前回調査から152万人増加し、初めて2千万人を超えた。雇用者全体に占める割合も38・2%と2・7㌽上昇して過去最高を更新。過去20年間で16・5㌽増え、正社員を中心とした日本の雇用形態が大きく変化している実態がより鮮明になった。非正規の割合が最も高いのは沖縄(44・5%)で23万7500人、次いで北海道(42・8%)だった」
 この労働実態が日本の根源的問題です。その中で、「辺境」の沖縄と北海道が最も深刻な事態になっていることは偶然ではありません。

2013/07/12

宮古島・「人頭税廃止」にみる歴史の深淵

PhotoPhoto_2 宮古島で連想するのは人頭税(にんとうぜい)です(「純と愛」もありますが)。一定の身長に達した住民に頭割りで課税する過酷な税制で、課税対象者を確定するための石(ぶばかり石=写真左)は観光コースにもなっています。市立博物館には人頭税のコーナーが大きく設けられています。人頭税は薩摩藩の琉球侵略(1609)による重課税を契機に、1637年琉球王府によって課せられた差別的税制といわれており、1903年廃止されました。その廃止の歴史には、今日に通じる、感慨深いものがあります。
 ①廃止運動の先頭に立ったのは、城間(ぐすくま)正安と中村十作(写真右)の2人でした。城間は本土の製糖技師、中村は新潟県の真珠養殖調査員。二人とも島の住民ではなかったのです。私財を投げうって献身的に尽力し、島の農民から深く慕われた2人の姿は、離島と本島、沖縄と本土の友愛・連帯の先駆けともいえ、感動的です。
 ②城間、中村らは島の行政官、さらに琉球王府に廃止を要請しますが、ラチが開きません。そこで彼らがとった戦術は、東京の政府と議会への「直訴」でした。そのための費用は募金と私財で賄いました。今年1月の「オスプレイ反対」東京行動・直訴がよみがえってきました。
 ③中央への直訴が奏功して人頭税は廃止されます。その力になったのは、新聞各紙がそろって中村らを支援する記事を書き、キャンペーンをはったことです。ここが安倍内閣に一蹴された「オスプレイ直訴」との大きな違いです。
 ところが、宮古島から帰って改めて調べてみると、人頭税廃止は単純に喜べることではないと分かりました。請願を受けて帝国議会が廃止を可決したのは1895年。日清戦争開戦の翌年です。明治政府は戦費調達のために税制の刷新を図る必要があったのです。現に人頭税廃止後も宮古の人々は別の重税に苦しみます。そのうえそれまで人頭税があったので免除されていた徴兵制も課せられるようになりました。
 さらにそもそも、人頭税の導入経過・目的自体が「定かでない」(『沖縄大百科事典』)といわれています。また、「人頭税は『過酷』だったとするこれまでの通説は、反省を迫られている」(来間泰男氏『近世琉球の租税制度と人頭税』2003年)との説さえあります。人頭税はまだ研究途上なのです。
 歴史はさまざまな角度から見る必要があると、改めて知らされました。

 <今日の注目記事>(12日付沖縄タイムス1面から)

 ☆<オスプレイ 追加12機 15日出港 米西海岸の基地>
 「米軍普天間飛行場に追加配備予定の海兵隊垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ12機を積載した輸送船が15日(現地時間)に米カリフォルニア州サンディエゴの海軍基地を出港することが分かった。米海兵隊当局は本紙に対し、29日(日本時間)ごろに米軍岩国基地(山口県)に到着し、機体の整備や試験飛行を行った後、8月上旬に普天間に飛来するとの見通しを示し、配備スケジュールは滞りなく進行していると強調した」
 ☆<低周波音 他機種上回る 県も確認「問題ある数値」>
 「米軍普天間飛行場に配備されたオスプレイの低周波音が他の機種を上回ることが、県の調査で分かった。・・・超低周波音による人体への影響に着目して補正する国際基準、G特性の値はオスプレイが最大値110・6デシベル。オスプレイと交代するCH46ヘリは93・5デシベル」

2013/07/11

緊急出版『「慰安婦」バッシング・・・』が教えるもの

PhotoPhoto_2 「参院選挙までになんとしても」という編者の熱い思いで、1冊の本が緊急出版されました。『「慰安婦」バッシングを越えて-「河野談話」と日本の責任』(「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクションセンター・西野留美子さんら編、大月書店・2200円+税)です。
 タイトルに示されている通り、安倍首相が、従軍慰安婦制度を認め「お詫びと反省」を表明した「河野談話」(1993)を見直そうとしたり、橋下日本維新の会共同代表が「慰安婦」必要論を広言するなど、元従軍慰安婦の人々をふたたび攻撃する動きが強まっている状況に対し、あらためて事実を明らかにしたものです(添付資料も充実)。従軍慰安婦の強制性が疑問の余地なく示されています。私にはさらにいくつか初めて知る問題がありました。
 ★「強姦所」・・・中国山西省には日本軍の慰安所が40カ所ほどあったが、それがない所では、廃屋などに女性を連行し強姦を繰り返した。これが「強姦所」(写真右=同書から)。村人はこれを”恥じ”とし、語りたがらず、記録もわずかしか残っていない。<戦時性暴力のなんと忌まわしいことか>
 ★「アジア平和国民基金」の欺瞞に加担した「知識人」・・・日本政府は元慰安婦への「国家補償」をあくまでも拒否する一方、「補償に代わる措置」として官民合同の「国民基金」を作り(1995)、「償い金」を受け取らせる圧力を強めた。多くの元慰安婦はその欺瞞性を見抜いて拒否したが、その人たちや支援団体が逆に攻撃された。政府は今も「国民基金」で賠償責任を果たしたと強弁。そんな「国民基金」の犯罪的な役割に加担したのが、「進歩的知識人」とみられている和田春樹氏や上野千鶴子氏らである。
 ★「植民地責任」の謝罪と補償・・・21世紀に入り、東アジア各地から戦前の植民地宗主国に対して謝罪と補償を求める国際的訴訟が始まった。インドネシアなどですでに成果があがってきている。
 日本は「河野談話」以後、慰安婦制度や植民地政策を否定する歴史観の逆行が進んでいます。しかし他のアジア諸国は違います。アメリカや欧州諸国の「植民地責任」の追及が強まってきているのです。日本の遅れ・逆行、アジア民衆運動とのギャップを改めて思わずにはいられません。
 従軍慰安婦問題は植民地問題にほかならず、その正しい認識と、日本政府の姿勢を正すことは、けっして「過去の償い」の問題ではなく、日本のこれからの進路の問題だと痛感します。日本国憲法をめぐり国の進路が争点になっている参院選。その前にぜひ出版したかったという西野さんらの意図が伝わってきます。

 <今日の注目記事>(11日付沖縄タイムス1面トップから)(琉球新報も1面)

 ☆<強制労働 初の賠償命令 ソウル高裁 日本企業に3500万円=共同電>

 「朝鮮半島の植民地時代に日本の製鉄所で徴用工として強制労働させられたとして、韓国人4人が新日鉄住金(旧新日本製鉄)に損害賠償を求めた訴訟の差し戻し控訴審判決で、ソウル高裁は10日、同社に請求通り計4億㌆(約3500万円)の支払いを命じる原告勝訴の判決を言い渡した。/戦後補償問題で韓国の裁判所が日本企業に賠償を命じたのは初めて。/新日鉄住金は、1965年の日韓請求権協定で韓国人の個人請求権は消滅したとの日本政府見解を主張し棄却を求めていた。高裁がこの主張を覆したことで、韓国で同様の訴訟が相次ぎ、歴史問題をめぐり冷え込んだ日韓関係の改善は一層厳しくなる見通しだ」
 上の「日記」はこの記事を読む前に書いたものですが、なんという偶然でしょうか。世界(アジア)は確実に、「植民地責任」を問い直す方向に向かっているのです。問われているのは、日本政府、そして日本国民の私たちです。

2013/07/10

宮古島・もう一つの戦争地獄=飢餓

PhotoPhoto_2 宮古島の「アリランの碑」を訪れた時、もう一つの偶然に驚きました。すぐ隣に別の質素な碑がありました(写真右。説明してくれるのは「アリランの碑」を建てた与那覇博敏さん)。そこには歌が刻まれていました。「補充兵われも飢えつつ 餓死兵の骸焼きし宮古(しま)よ 八月は地獄 高澤義人」。この名前に覚えがあります。まさかと思いましたがやはり同一人物でした。半年前沖縄に来るまで30年以上住んでいた千葉県松戸市で市議も務め平和・民主運動に尽力されたのが高澤さんだったのです。高澤さんは戦時中衛生兵として宮古島へ派遣されました。多くの兵士が手当の施しようもない栄養失調で次々亡くなり、その遺体を焼く毎日でした。1998年5月、宮古歴教協の招きで53年ぶりに宮古島を訪れた高澤さんが詠んだ歌です。碑の後ろにはこんな歌も刻まれていました。「犬猫鳥みな食いつくし 熱帯魚に極限の命つなぎたる島」。飢餓で亡くなった戦友を悼む高澤さんの心を形にと「歌碑建立実行委員会」が2005年8月15日に建てたのがこの碑なのです。
 米軍は宮古島へは上陸せず、陸上戦はありませんでしたが、「10・10空襲」をはじめとする空襲や艦砲射撃は連日激しく行われました。それによって深刻な食糧難に見舞われました。農作業や漁業はまったくできず、補給路が絶たれたうえに、住民6万人のところに日本軍が3万人も駐留し人口が膨れ上がっていたからです。栄養失調とマラリアで次々倒れ、日本軍は民家を荒して住民の食糧を奪いました。逆に軍が開墾した畑から芋ズルを盗んだとして少年が炎天下、電信柱に後ろ手でしばりつけられたという住民の証言もあります。
 沖縄戦は直接の被弾だけでなく、飢餓とマラリアによっても多くの犠牲者を出しました。そしていつも一番犠牲になるのは住民です。飢餓で亡くなった兵士は無念ですが、庶民はさらに悲惨でした。高澤さんの碑は沖縄戦のもう一つのむごい姿を喚起させてくれました。

 <今日の注目記事>(10日付沖縄タイムス社会面から)※全国ニュースですが。

 ☆<吉田昌郎さん死去 58歳 福島第1原発元所長>

 「東京電力福島第1原発事故の収束作業を現場で指揮した元所長で、東電執行役員の吉田昌郎(よしだ・まさお)氏が9日午前11時32分、食道がんのため都内の病院で死去した。58歳。・・・食道がんと診断された11年11月に入院、翌12月1日付で原子力・立地本部に異動した。12年7月に脳出血で倒れた。事故後の被ばく放射線量は約70㍉シーベルトで、食道がん発症の原因になった可能性は極めて低いとされた」
 ついに福島原発事故関係者の死者が表面化しました。被ばくの影響の「可能性は極めて低い」とは到底信じられません。作業に従事した作業員の生死、健康状態はどうなっているのでしょうか。

2013/07/09

宮古島・「アリランの碑」での出会いと証言

PhotoPhoto_2 先月半ば宮古島に初めて行きました。戦跡めぐりが目的で、ぜひ行きたかったのが「アリランの碑」(写真左)です。沖縄戦当時、宮古島には17カ所の「慰安所」がありました。中でもここは島の中央部、軍司令Photo_13
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部があった所です。碑は素朴な岩のかたまりで、後ろにはこう記してあります。
 「アジア・太平洋戦争当時この近くに日本軍の慰安所があった。朝鮮から連れてこられた女性たちがツガガー(注・井戸)にて洗濯の帰りにここに休んでいたことを記憶している。悲惨な戦争を二度と起こさないため世界の平和共存の想いをこめ、この碑を後世に伝えたい。 2008年9月7日 与那覇博敏」
 「アリランの碑」は公や団体ではなく与那覇さんという個人が造ったものだということを初めて知りました。その後方には、「女たちへ」として、慰安婦にされた女性たちの国の12カ国言語で、「従軍慰安婦」を記憶にとどめ、悼み、平和を願う3基の碑があります(「建てる会」によって設立)。
 周りは畑と空地。人の気配は感じられない静かな所です。帰りかけた時、農作業用の車で訪れた一人の男性に出会いました。あいさつすると、1日1回碑の周りを掃除に来るのだそうです。なんとこの男性こそ与那覇博敏さん(80)その人でした(写真右上)。与那覇さんは初対面の私に、炎天下、当時のようすをていねいに話してくださいました。
 「最低10人以上、20人くらいいたかな。井戸で洗濯した帰りにここで休んでいたのを覚えているよ。洗濯を手伝って石けんをもらったこともある。看護婦や工場の仕事があると言ってだまされて連れてこられたと言っていた。軍旗祭(軍の催し)には舞台の上で5、6人がアリランを歌いながら踊っていたな。畑のニンニクを取って見つかった時は『野生かと思った』と弁解していたよ」
 慰安婦たちの悲しい姿は、少年だった与那覇さんの脳裏にも鮮明に焼き付いています。戦後60年に韓国からこの地に調査団が訪れたのを機に、「言葉で伝えるには限度がある。何か記憶に残したい」と思った与那覇さんは、自分の土地であるこの思い出の地に、大きな岩を置きました。それが「アリランの碑」です。降伏文書に調印して沖縄戦が実質的に終了した「9月7日」にしました。与那覇さんはさらにこれから3年計画で、この周辺を「平和の森」にする構想です。
 温かい風が吹き抜ける静かなこの一画は、慰安婦の女性たちを悼み、世界の平和と共存を願い、戦争の記憶を風化させまいとする与那覇さんと宮古の人たちの誠意と慈愛に満ちた空間です。
 と同時に、ここから200㍍ほど先にあるのは、旧日本軍の跡地に造られた自衛隊基地(写真右下の向こうに見えるのが自衛隊基地)。まさに慰安婦と軍隊は切っても切れない関係にある。皮肉にもここは、そのことを今日に伝えている場所でもあるのです。

2013/07/08

キャサリンさん「大浦湾のサンゴは世界一」

PhotoPhoto_2 世界的なサンゴ学者のキャサリン・ミュージックさん(ハワイ在住)が久しぶりに沖縄を訪れ、辺野古大浦湾を潜水調査、その結果を6日(名護市)と7日(那覇市)の講演会で市民に報告しました。
 地球儀のボールを手にしながら、巧みな日本語とうちなーぐちでユーモアをPhoto_13
Photo_10交えて話すキャサリンさん。子どもの環境教育にも取り組んでいて、参加者と一緒に「水玉の歌」を動作で表現、会場は一体になりました。「心配して来たけれど大浦湾はまだ大丈夫」と言うと大きな拍手に包まれました。「山と海は恋人」というキャサリンさん、大浦湾の環境とやんばるの森は一体だと強調しました。さらに韓国の済州島でも同じように米軍基地建設でサンゴ礁が破壊されようとしていることを紹介。「大浦湾のサンゴは世界一美しく、たいへん価値がある。沖縄のみなさんが頑張ってこれを守っていることが世界中の人たちを元気にしている」と述べ、「サンゴはまだ元気、大丈夫。これがラストチャンス。みなさんの力で、これ以上基地を造らせてはいけない」。
 キャサリンさんは1981年から88年まで沖縄に滞在し、石垣島の白保サンゴを世界に知らせその保護に尽力しました。07年から11年までは本部町に暮らして子どもの環境教育に取り組みました。そのキャサリンさんが今度は辺野古の大浦湾を守るために来沖。9日間、調査、講演、記者会見などでフル回転です。沖縄のサンゴ・自然、そして子どもたちを愛してやまないキャサリンさん。「心に染みる海を子どもたちにたくしたい」。その思いに応えるのは沖縄、そして日本の私たちの責任です。
(写真右上はキャサリンさんが撮影した大浦湾のサンゴ礁。右下は講演後参加者と歓談するキャサリンさん)

 <昨日の注目記事>(7日付琉球新報から)
 ※高江ヘリパッド建設反対の住民運動を弾圧するため、国が訴訟を起こした「スラップ訴訟」について、フリージャーナリストの烏賀陽(うがや)弘道さんのインタビューが掲載されました。要点を紹介します)

 ☆<「反スラップ法」立法急務 住民疲弊で国は目的達成>
 「スラップ訴訟の特徴の一つに、公的に議論すべき大きな問題が法廷内のさまつな問題に矮小化されるという点がある。今回も公的な議題は在日米軍をどうするかだったのに、裁判では通行妨害の有無だけが争われている。訴えた側からすれば勝訴する必要はなく、住民が疲弊すれば目的は達成できてしまう」「米国では1980年代に問題が表面化し、その後、人口や企業の多い26州で反スラップ法律が制定された。基本に『誰にでも提訴する権利がある。しかし、裁判を悪用する権利は誰にもない』という考えがある」「日本の現在の法律は、民事訴訟をどう喝や脅迫の目的で使うことを想定しておらず、スラップを防げない。早急に民事訴訟法の改正か、反スラップ法の立法が必要だ」

2013/07/07

「保育所問題は沖縄のキーポイント」

PhotoPhoto_2 保育所不足は全国的課題ですが、沖縄ではとくに切実な問題です。6日夜与那原町で行われた浅井春夫立教大学教授(写真左)の講演でそれが改めて分かりました。主催は与那原町子ども子育てを考える学習会実行委員会(龍野愛さんら=写真右)でした。
 浅井さんは昨年成立した「子ども・子育て支援法」などいわゆる「子ども三法」の問題点を解明。安倍内閣がモデルとする「横浜方式」について、認可保育所の面積基準などを例に「保育の質はむしろ後退している」とし、「営利企業の積極的な参入には多くの問題がある」と指摘しました。さらに「沖縄の保育」について、認可外保育所の利用児童が全保育児童の37・8%(2万2178人)で、全国平均(7・8%)を大きく上回っている実態をあげ、「認可外保育施設の改善は今後の沖縄保育の展望を描くうえで避けて通れない。運動側も行政側も最も本気度が問われる課題だ」と強調しました。
 「子ども三法」にもとづく新制度は15年度から施行され、それに向けて各自治体で「子ども・子育て会議」がもたれます。浅井さんは「行政の提案まちでなく、保育水準・条件をどう確保していくか。地域で行政も含め語り合う場をつくり、子育ての展望を構想することが大切。それは私たちが暮らし続けるこの街をこれからどう描くのかという問題にほかならない」と指摘しました。
 参加した児童館のスタッフは、「成長した子どもたちを見ていると、貧困の連鎖は保育所からはじまっていると実感する。沖縄のすべての問題はここに根源があるのではないかと思うくらい、保育所問題は大事なキーポイント」と発言しました。
 自分の子どもが大きくなると、保育所問題は縁遠く感じることもあります。でも、それは新自由主義とのたたかいの最前線であり、地域づくり、住民自治の焦点でもある。とくに沖縄では戦争や基地、貧困が保育所問題となって子どもたちにのしかかっています。沖縄の将来のためにも、親まかせにせず積極的にかかわっていくことが必要だと痛感しました。

 <今日の注目記事>(7日付琉球新報社会面から)

 ☆<辺野古移設告示・縦覧 名護漁協議事録 県、黒塗りで公開>

 「米軍普天間飛行場の移設先の埋め立て申請書を公開する『告示・縦覧』手続きで、県が過去に共同通信に開示した地元漁協の議事録の大部分を黒く塗りつぶして伏せていたことが6日、分かった。黒塗りの部分には、埋め立てへの同意を決めた際の議論が記されていた。/縦覧期間中に市民は県知事に意見を出すことが可能で、意見は埋め立ての可否を判断する知事の参考材料となる。黒塗りは漁協から要請があったことが理由だが、安易に応じれば市民に必要な情報が届かない恐れがあり、県の対応を問題視する声が出ている」
 県が提出した意見書に国が回答していないままで申請書を受け取り、縦覧したこと自体、県の姿勢が問われていますが、黒塗りは、県の姿勢にさらに疑問を抱かせるものです。

2013/07/06

熱血の人・大西照雄さんから引き継ぐもの

PhotoPhoto_2 「ヘリ基地反対協議会」代表委員の大西照雄さんが6月19日亡くなりました。
 初めて大西さんの名前を知ったのは、沖縄に来て間もない今年はじめ、那覇市真教寺にある石川啄木の碑のいきさつを調べていたときでした。その経過を丹念に調べて本にしていた人がいました。しかも高校の先生です。それが大西さんでした。ぜひ一度お会いしたいと思いながら、すでに体調を崩されていたこともあって、叶いませんでした。
 大西さんの代表的著作は『「沖縄の太陽」物語』(初版1995年、2013年緊急復刊)です。沖縄の実情がまだ本土にほとんど知られていなかった1955年、朝日新聞の記事がきっかけで一人の女子高校生が伊江島に激励の手紙を書き続けます。それは伊江島の人々の心の支えとなり、やがて米軍の土地収奪と闘う「島ぐるみ闘争」の精神的支柱となります。阿波根昌鴻さんと親子のように親しくなった少女は「沖縄の太陽」と言われました。菊川(旧姓黒田)操子さんです。黒田さんは那覇高校はじめ沖縄の高校生にも大きな影響を与えます。大西さんは当時中学生でしたが、その高校運動の流れをくみ、やがて黒田さんとも親交を持ちます。「青春時代の純真な心と行為は、のちになっても人生の節々で再生される。歴史の偶然であろうか、これが私の実感である」「私は、日々の教室の中で、二十一世紀の主人公たちに、沖縄を主体的に見つめる確かな目を育てることが、教師としての私の使命であると思っている」「私にとって過去を学ぶことは、現在と明日への自分自身の実践的な生き方の糧である。権力欲、出世欲で、自分の理念を一日で変える昨今の社会風潮は、教育界でも例外でなく、理想や理念を大切にしたい」。最後に啄木の歌を引いています。「新しき明日の来るを信ずるといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど」。
 それが『啄木と沖縄』(2000年)につながります。大西さんはいち早く沖縄と東北の共通性に着目していたのです。「私は山原の静かな家で社会科教師34年の記録を書き残したいという思いで転勤してきました。しかし、政府の施す黄金に目がくらんで基地を誘致しようとうごめく人々で、山原の地は静けさを与えてくれません。過去を歩むことは現代を生き、明日を描くことであり、山原の動きから逃げることは許されないことなのです」。辺野古のたたかいの始まりです。「今、日本の焦点、名護市のたたかいの中で『啄木と沖縄』を世に問うことができ、忙しいことはいいことだと実感しています」と結んでいます。
 教師を定年退職してからは文字通り辺野古のたたかいに心血を注ぎます。退職金をはたいて海上闘争に必要なボートも買いました。そのたたかいを綴ったのが『愚直-沖縄、非暴力の心』(2005年、写真右は同書から)。教師を退職する時の挨拶で生徒たちにこう述べたと記しています。「私の第二の人生は生きながらえることではなく、太く生きること。国民の税金で38年生活し、多くのことを学んできた。社会という学校で国民に還元すること。名護市に基地移設を進める稲嶺知事、岸本名護市長に勝つ人生に向かいます。私はこの木の腰掛に38年座ってきた。4月1日からは腰掛に座る必要はなく、平和の文化を築く一筋の道を歩み続ける」
 熱血教師、熱血の人。その人生は生徒たちと、沖縄への深い愛に貫かれていました。享年70歳。早すぎる死は、まさに辺野古のたたかいの中での”戦死”でした。

 <今日の注目記事>(6日付沖縄タイムス社会面から)

 ☆<表現の自由 最高裁で問う 高江訴訟 住民側が上告>

 「東村高江のヘリパッド建設をめぐり、国が工事に反対する伊佐真次さん(51)に通行妨害の禁止を求めた訴訟で、住民側弁護団は5日、控訴を棄却し通行妨害を認めた福岡高裁那覇支部判決は不服として上告した。住民側弁護士は『国家権力が住民弾圧を目的に訴える「スラップ訴訟」として、正面から上告するのは全国で初めてではないか』と話している」

2013/07/05

「辺野古埋立申請」を閲覧して意見書を出そう

PhotoPhoto_2 米軍と日本政府が普天間飛行場の移設を強行しようとしている名護市辺野古沖の埋立申請書の縦覧が、6月28日から県内8カ所で行われています(7月18日まで)。県庁へ行って見てきました。閲覧テーブルには意見書を入れる箱と用紙も置かれており(写真左)、さっそく意見書を提出しました。もちろん「埋め立てには反対、仲井真知事は許可すべきではない」。
 申請書は全6冊、約8800ページにのぼり、到底すべてに目を通すことはできません。印象的だったことをいくつか。1つは、「埋立に関する工事に要する費用の額 231,087百万円」。米軍基地のために2310億円以上も使おうというのです。財源はもちろんわれわれの税金。このことに鈍感になりたくありません。2つ目は埋立土砂。総量2100万㎥のうち1700万㎥は業者から購入するとしていますが、その具体的内容は明記されていません。もちろん土壌検査も行っていないままでの申請です。枯れ葉剤メーカーのドラム缶も新たに見つかり、ダイオキシンなどの土壌汚染は徹底的に検査する必要があります。3つ目は低周波。オスプレイによる低周波被害は最近とくにわかってきたことです。申請書は低周波には触れながらそれにどう対処するのかまったく書かれていません。4つ目は環境破壊。申請書にも辺野古がいかに自然の宝庫かということが地図付きで書かれています(たとえば写真右のピンクは造礁サンゴ群)。なのにあくまでも埋め立ては強行すると。先に結論ありきの形式的な「調査」にすぎないのです。それで良心は痛まないのか。政府の官僚のやることに改めて腹が立ちます。
 こうして申請書を閲覧すれば、新たな怒りが湧いてきます。ただ、これが辺野古移設強行へ向けて政府が敷いたレールの1コマにすぎないとの思いも消えません。個別問題は多々あっても、とにかく「米軍基地は無条件で撤去せよ」でいいではないか、とも思います。そう考えると、官僚が作った膨大な資料に向かう気になりにくいのも正直なところです。
 そうは思いながら、仲井真知事に「認可するな」との声を集中するのははやり大事なたたかいの一環でしょう。申請書は沖縄県のホームページでも見られます。意見書は全国誰でも出せます。その際、「利害関係の内容」の項目には、①自然環境を保護したい②納税者として税金の使途を監視したい-のどちらかの趣旨が書かれていればOK(桜井国俊沖縄大学教授のアドバイス)。そして肝心なのは、「意見」欄に「知事は認可すべきでない」とはっきり書くことです。

 <今日の注目記事>(5日付琉球新報1面から)

 ☆<防衛省漁業補償 反対説得に報労金 内部で規定 沖縄「実績ない」>

 「公有水面埋め立てなどに関わる漁民への漁業補償に関連し、防衛省が補償に反対する人を説得した『有力者等』に対して、報労金や土産品を渡せる規定になっていることが、4日までに分かった。金品の支払いは防衛省の内部文書で規定されている。沖縄防衛局は『局として、これまでに支払った実績はない』と説明している。一方、専門家は税金の支出や公平性の観点から、同規定を問題視している」
 金で政策を押し通そうとするやり方は、政府・自民党の、そして権力者の常套手段ですが、あまりにも露骨で稚拙。こうしたやり方は、たんなる政治的手法ではなく、人間を冒涜するものです。

2013/07/04

国賠償裁判「子どもを戦争孤児にしたくなかった」

PhotoPhoto_2 大城勲さん(70、左写真中央)は、沖縄戦で両親、祖父母、弟を亡くしました。戦争孤児となった大城さんは21歳上の義兄に引き取られ、朝5時から畑仕事。夕方小・中学校から帰ってまた畑仕事。寝るのは夜11時ごろ。そんな生活が約13年続きました。「両親がいないで幼いころを過ごすのは本当に辛いです。クツもカバンもなく、参観日は特にみじめでした」。
 19歳でやっと自動車整備工場に住み込みで働きはじめ、以後職を転々。「30歳で結婚しましたが、ベトナム戦争のころで、これからまた戦争が始まり巻き込まれるかもしれないと思いました。もしも自分と妻が死んで子どもだけが生き残ったら、自分が経験した孤児としての辛い生活を子どもにも送らせてしまうかもしれない。それで妻と話し合って、子どもはつくらないと決めました。だから妻が他界したあと、私は一人暮らしです。もしも私が戦争孤児になっていなければ、いまごろは子どもや孫に囲まれていたかもしれません」
 大城さんが悲痛な体験を語ったのは、3日の那覇地方裁判所。沖縄戦での一般住民の被害に対し国に謝罪と損害賠償を求める訴訟(原告は野里千恵子さん=写真右ら63名)の原告陳述です。現在の援護法の下で二重の差別を受け、なんの補償もされていない約11万7000人の住民の声を代表した裁判です。大城さんが思い出すのも辛い体験を語らねばならなかったのは、国の「国家無答責論」「戦争被害受忍論」を打ち破るため、沖縄戦の「残虐非道性」を立証する必要があるからです。
 公判後、大城さん、野里さんらと記者会見した瑞慶山茂弁護団長は、「戦争被害者は年々少なくなっている。今やらないと日本の戦争責任を追及する場がなくなってしまう。論文や語り継ぎも大事だが、実際に損害を回復する措置を今国にとらせなければならない。沖縄戦はまだ終わっていない」。野里さんは、「戦争は人間の生き方を変えてしまいます。自分の人生が一生自分の意のままにならない。それをぜひ報道してください」。
 多くの人の68年間はけっして「戦後」ではない。それが沖縄です。

 <今日の注目記事>(4日付から)

 ☆<普天間飛行場 「県外・国外」「返還」70% 「辺野古」は21% 本紙調べ>(沖縄タイムス1面)
 参院選公示にあたり沖縄タイムスが本島5カ所、211人に聞き取り調査した結果、「国外移設」29%、「県外移設」23%、「無条件返還」18%、「辺野古移設」21%、「このまま」5%。
 「国外」と「無条件」合わせると47%が日本のどこにも移してはいけないと考えています。ただ、年代別では、20代が「国外」と「辺野古」が同数だったのが注目されます。

 ☆<ヘリパッド工事再開 高江で2月以来 2日から測量>(琉球新報1面)
 「沖縄防衛局が2日、東村高江にある米軍北部訓練場内でヘリパッド建設工事を再開したことが3日、分かった。ヘリパッド建設に反対する住民らが2日午前10時半ごろ、建設予定地のN4地区の一部で、作業員が測量をする姿を確認した。防衛局は、琉球新報の取材に対し『7月2日、「N-4-2地区」の着陸帯に係る現地作業に着手した』と回答し、工事再開を公表した」

2013/07/03

「琉球共和社会憲法試案」から学ぶもの

PhotoPhoto_2 「九死に一生を得て廃墟に立ったとき、われわれは戦争が国内の民を殺りくするからくりであることを知らされた。だが、米軍はその廃墟にまたしても巨大な軍事基地をつくった。われわれは非武装の抵抗を続け、そして、ひとしく国民的反省に立って『戦争放棄』『非戦、非軍備』を冒頭に掲げた『日本国憲法』と、それを遵守する国民に連帯を求め、最後の期待をかけた。結果は無残な裏切りとなって返ってきた。日本国民の反省はあまりにも底浅く、淡雪となって消えた。われわれはもう、ホトホトに愛想がつきた。好戦国日本よ、好戦的日本国民と権力者共よ、好むところの道を行くがよい。もはやわれわれは人類廃絶への無理心中の道行きをこれ以上共にはできない」
 この痛烈な「前文」で始まる「憲法」試案があります。「琉球共和社会憲法試案」です。「共和国」ではありません。「共和社会」です。起草されたのは1981年5月15日。「復帰」からちょうど9年目です。掲載されたのは「新沖縄文学」(沖縄タイムス社発行、93年廃刊)。起草者は当時同誌の編集長だった川満信一氏(写真右)です。その存在を教えてくれたのは新城郁夫さん(琉球大学=写真左)。30日のシンポ(「連動する東アジア)です。新城さんは「日本の崩壊が急速に進み、多くの人が『難民』化していく」中で、この憲法試案は「極めて重要な指標となる」と強調しました。
 同憲法試案(全56条)は、「貧困と災害を克服し、共生のため力を合らさなければならない。ただし貧しさを怖れず、不平等のつくりだすこころの貧賤のみを怖れ忌避しなければならない」(7条)、「武力その他の手段をもって侵略行為がなされた場合でも、武力をもって対抗し、解決をはかってはならない」(13条)、「核物資および核エネルギーの移入、使用、実験および核廃棄物の貯蔵、廃棄はこんご最低限五十年間は一切禁止する」(15条)、「人種、民族、身分、門中、出身地などで絶対に差別をしてはならない」(18条)、「基本的生産手段は共有とする」(19条)、「各々に適した労働の機会を保障されなければならない。労働は自発的、主体的でなければならない」(23条)などなど。その先見性、先取性、ヒューマニズムは目を見張るばかりです。
 でも最も注目されるのは、第1条で、「ここに国家を廃絶することを高らかに宣言する」としていることです。だから「琉球共和社会の人民」は今の沖縄県に住んでいる人には限られません。「この憲法の基本理念に賛同し、遵守する意志のあるものは人種、民族、性別、国籍のいかんを問わず、その所在地において資格を認められる」のです。「復帰」に失望し、沖縄は日本から離別し独自の道を進むと宣言しながら、目指すのは「独立国」ではなく「共和社会」なのです。川満さん自身がシンポに参加されており、ちょうど私の席の後ろに座っておられました。私は川満さんに今沖縄で進んでいる「独立学会」などの動きについて意見をうかがいました。川満さんは、「”国民国家”を解体して社会をリフォームするのでなければ、漂流するだけ」だと言われました。
 「琉球共和社会」構想を幻想、空想と決めつけるか、それともその理念、精神を活かす道を探り、実現を目指すか。これからの沖縄にとって、大きな分かれ目です。
 それにしても起草されて32年。このかんこの憲法試案はどう受け止められ、どう検討・研究されてきたのでしょうか。
 

 <今日の注目記事>(3日付から)

 ☆<ドラム缶新たに7本 枯れ葉剤入りか調査へ>(沖縄タイムス社会面)
   (琉球新報第2社会面にも同様記事)
 「沖縄市のサッカー場からドラム缶が見つかった問題で2日、沖縄市と沖縄防衛局が現場調査を始めたところ、新たに7本のドラム缶が発見された。うち1本は周囲には帯状に白く線が塗られているが、枯れ葉剤入りの缶かどうかは不明。これでサッカー場から見つかったドラム缶は合計26本となった。・・・枯葉剤に詳しいフォトジャーナリストの中村梧郎さんはドラム缶の写真を確認し、『枯れ葉剤の可能性は低いのではないか』とみる。・・・沖縄・生物多様性市民ネットワークの河村雅美ディレクターは『徹底的で透明性のある調査が求められる。作業員の安全のためにも、土地の使用履歴を米軍に提出させる必要がある』と強調した」

 ☆<米アカデミー賞2度受賞 オリバー・ストーン監督 基地の島 OKINAWAを語る 8月 14日沖縄コンベンション劇場>(琉球新報1面社告)
 講演者・パネリストは、ストーン監督のほか、ピーター・カズニック氏(米アメリカン大学教授)、大田昌秀氏(元沖縄県知事)、乗松聡子氏(ピースフィロソフィーセンター代表)。
 乗松さんがコーディネートした企画です。楽しみです。

2013/07/02

沖縄の中の朝鮮人・・・「元慰安婦」裵奉奇さんの”夢”

PhotoPhoto_2 「沖縄のなかの朝鮮人」-6月30日のシンポ「連動する東アジア」(沖縄大学)で、金美恵さん(文化センター・アリラン=写真右)がこのテーマで報告しました。副題は「裵奉奇(ペポンギ)さんを通じて見る南北分断と在日朝鮮人の現代史」。
 裵奉奇さん(1914~1991)はだまされて沖縄に連れてこられた元従軍慰安婦の朝鮮人(写真左。『軍隊は女性を守らない』から)。戦後は、言葉もわからず知人もいない沖縄で、極貧と差別と孤独の中、水商売、空き缶拾いなどをしながら、さとうきび畑の中の掘っ立て小屋でひっそり、想像を絶する苦難の人生を送りました。
 従軍慰安婦の存在が明らかになったのは1991年の金学順さんの告発が最初だといわれることがありますが、裵奉奇さんの告白はそれより16年前の1975年。しかしそれは金さんの自発的な告発とは違い、やむを得ない告白でした。沖縄の「本土復帰」(72年)にともない、在留資格を得るためです。ところが当時もその後も、韓国では裵奉奇さんの存在は事実上無視されてきました。なぜか。裵奉奇さんが初めて告発したのが、北朝鮮を支持する朝鮮総連の機関紙「朝鮮新報」だったからです。裵奉奇さんの人生は、戦前・戦中は日本植民地主義、軍国主義、戦後は日米安保体制、そしてさらに南北分断体制という何重もの被害・犠牲の中にあったのです。
 金美恵さんは、これまであまり注意が払われてこなかった「沖縄現代史の中の朝鮮人問題」を追究していくことの必要性を強調するとともに、こう述べました。「私も含め在日はいまも”難民”状態に置かれている。一度も国家を持ったことがない”難民”は国家を持ちたい。早く統一国家がほしい」。
 孤独で悲惨な裵奉奇さんの沖縄生活に支援の手を差し伸べ親子のように交流していたのは、朝鮮総連沖縄県本部の金賢玉さんと夫の金洙燮さんでした。その金洙燮さんが会場に来ていました。金洙燮さは挙手して発言し、裵奉奇さんが生前、「朝鮮半島が平和になったら(祖国に)帰って一緒に住もう」と言っていたことを紹介。「ここ(シンポ)に北の代表がいないのは残念。いつか北の代表もこの場に加われるように」と「統一」への願いを示しました。
 「国家主義の緩和と克服」が一つのテーマだったシンポで目の当たりにした「祖国」への憧憬と「統一国家」への願望。「国家」とは何なのか。あらためて考えさせられました。

 <今日の注目記事>(2日付沖縄タイムス社会面から)

 ☆<資料館入館者が低迷 ひめゆり 県平和祈念 両館に危機感>

 「沖縄戦時の記録や証言などを展示している糸満市内のひめゆり平和祈念資料館と県平和祈念資料館の入館者数がここ数年減少している。ひめゆり平和祈念資料館では2000年から年間80万人以上を維持してきたが、10年度から3年連続で60万人台に低迷。県平和祈念資料館は、06年度の44万9730人に比べ、12年度は36万7555人と7年間で約18%減少した。両館とも危機感を募らせ今後の対策を模索している。・・・(ひめゆりの)島袋淑子館長は『入館者数が減っているのはとても心配。平和の尊さ、戦争の悲惨さをあらためて確認する場所として、子どもだけでなく県内の大人の方々も、来館をお願いしたい』と、声を落とした」

2013/07/01

「連動する東アジア」・・・連帯の道すじは?

PhotoPhoto_2 「連動する東アジア-真の地域の平和を目指して」というシンポが6月29、30両日沖縄大学でありました。日本、韓国、中国、台湾など東アジアの「批判的雑誌」の編集者・研究者らが毎年開いているもので、今回が5回目。日本の「けーし風」(新崎盛暉さんら)創刊20周年を記念して今年は沖縄で開かれました。2日間で延べ16時間にもおよぶ討論はさすがに疲れましたが、大変刺激的でした。とても全体像は紹介できないので、基調講演を行った白楽晴さん(ソウル大学名誉教授=写真右)の話を中心に印象に残ったキーワードをいくつか挙げます。
 〇「核心現場」・・・国家主義の問題点が集中的に表れている地域。沖縄、朝鮮半島などがまさにそう。それは相互に関連・連動する。「中心」よりも「周辺」に表れる。「核心現場であるほど国家主義の最も深刻な弊害を除去する作業が、国家の画期的な改造と直結し、新たな世界体制の建設に多大な貢献となる」。
 〇「生活圏」・・・「国家主義の緩和と克服」は東アジア地域の特に切実な課題。その方向は、「住民の生活上の利益を国家権力より重視する方向で国家を改造する」こと。与那国町の「自立・自治宣言」(2005)などの試みだが、その八重山がいま国家主義のターゲットになっている。
 〇「難民」化・・・経済破綻と環境破壊(原発危機)によって日本の崩壊は急速に進み、多くの人が「難民」化する。加えて沖縄では政治的暴力によって「難民」が増える。それは私たち自身の日常の変容として現れる。求められているのは、「難民」たちのネットワークによる共同の生の場所の構築。
 〇「共苦」・・・民衆の生活は即物的・多義的・屈折的。だからこそ民衆の生活と遊離しない、「差異を前提としたデリケートな連帯の工夫が必要」。「共生」は生活の苦しさを共感し合う「共苦」から。
 〇「真の中道」・・・「現実に足を踏みしめて立っても、目前の現実に埋没しない姿勢」「近代的思考自体の限界を突破し、新たな考えの境地を開拓する作業」「個人的修行と社会的実践を、現場で、今から同時に進めよう」
 東アジアはほんとうに共通の課題に直面しています。だから連帯しなければならない。その理論と方法を真剣に模索している研究者・編集者が、それぞれの国で奮闘していることを実感しました。壇上での発言だけでなく、通訳をはじめ裏方で多くの若者たちが国境を越えて協力し合っていた姿は感動的でした。こうした討論・研究が、どうすれば日々の生活に苦しむ庶民のものになるだろうか、と思いながら帰途につきました。

 <今日の注目記事>(1日付沖縄タイムス社会面から。琉球新報社会面にも同様記事)

 ☆<高江「勝つまで闘う」 座り込み6年 500人気勢>

 「米軍北部訓練場の一部返還に伴う東村高江へのヘリパッド建設に抗議する『ヘリパッドはいらない住民の会』の座り込み6周年報告会が30日、村農民研修施設であり、建設に反対する住民や弁護士らがこれまでの活動を振り返った。6年間でヘリパッドは一つしか建設できていないとし『県内外に広がったわれわれの運動は間違っていない』と確認。村内外から参加した約500人が引き続き建設を阻止していこうと気勢を上げた。/国に訴えられ、25日の控訴審判決で通行妨害とされた同会の伊佐真次さんの弁護団は、国が示した証拠映像や書類を紹介。『ただ立ったり、前を横切ったりするだけの行為が通行妨害とされた。明らかに伊佐さんや高江住民を選別したスラップ訴訟』とし、『国の行為を許してはいけない。勝つまで頑張ろう』と呼び掛けた」