増子義久「原爆と原発、そして二つの敗戦」(寄稿)
「焼き場に立つ少年」と題する1枚の写真が目の前にある。まだあどけなさを残す少年に背負われた幼子はすでに死んでいる―。長崎市の上空に原子爆弾がさく裂した約1ヶ月後、米海兵隊の従軍カメラマン、ジョ-・オダネルが爆心地に近い浦上天主堂そばの河原で撮影した写真である。
猛暑が続いた日本列島に今年も68回目の「あの日」がめぐってきた。降り注ぐような蝉しぐれ。あの夏もこうだった。オダネルは撮影した時の光景を生々しく書き記している。
「この少年は弟の亡骸を背負って仮の火葬場にやって来た。そして弟の小さな死体を背中から降ろし、火葬用の熱い灰の上に置いた。幼い肉体が火に溶けるジュ-という音がした。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がった。少年は兵隊のように直立し、顎を引き締め決して下を見ようとはしなかった。ただ、ぎゅっと噛んだ下唇がその心情を物語っていた。下唇には血がにじんでいた」(『トランクの中の日本』などより)。
戦後、核廃絶の運動に身を投じたオダネルは6年前の8月9日、奇しくも原爆投下のその日に85歳で没した。
「少年よ/「立派な日本男児になれ」ときみの父は出兵していったのか/「弟を頼む」ときみの母は息をひきとったのか/きみはけなげにその言葉を守って/弟の遺体を背負って/ここまで歩いてきたというのか…少年よ/歯を食いしばって何をみているのか/戦争の悲惨さか/人間の愚かさか/それともあの青い空なのか」。
映画「おくりびと」の下敷きになったとされる『納棺夫日記』の著者で詩人の青木新門さんは、この写真に絞り出すような激白を添えている。
東日本大震災を経験した今、「8・15」を第1の敗戦、「3・11」を第2の敗戦と位置づける見方が出ている。荒涼と広がる瓦礫(がれき)の荒野に立っていると、その光景が先の大戦後の焼野原や、原爆が投下された広島や長崎の爆心地と重なり合うのを覚える。
この2つの「敗戦」に共通するのはそれ以前の理念や価値観がなべてご破算になったことに加え、いずれも「核(放射能)」の恐怖を帯同していたことである。焼き場に立った少年の視線はその時すでに「3・11」を見据えていたのだろうか。
8月3日、福島第1原発事故の被害から逃れ、南相馬市から花巻市に避難していた男性(69)が病死した。全身ががん細胞に侵されていた。拙速に原発事故との因果を忖度(そんたく)するつもりはない。
「愛犬のコロがね、飼い主の顔を忘れたみたいに近づいてこないの。あの時はショックだった」。
死の報に接した時、私の脳裏にはなぜか亡き男性の妻(69)がある時、ふともらした言葉がよみがえった。
事故から約1ヶ半月後、夫妻は残してきたコロのことが心配になって連れに戻った。白骨化した牛の死骸、骨と皮になってヨロヨロとさ迷う牛の群れ、餓死した犬や猫…。置き去りにされた犬同士の間に生まれた仔犬は人間を恐れるかのようにキバをむいた。
「東京電力を憎みたい気持ちに変わりはない。でもね、あの地獄のような光景を見た時、原発を許してきた自分も含めて人間の罪深さみたいなものを感じた」
とその人はその時、そう語ったのだった。
東日本大震災の1ヶ月後、壊滅的な被害を受けた岩手県陸前高田市の瓦礫の上にトランペットを吹く少女の姿があった。高校3年生のこの少女は祖父母と母親など5人の肉親を津波に奪われた。トランペットは祖母からのプレゼント。ZARD(ザード)の「負けないで」がウソのように静まり返った紺碧の海の彼方に流れた。少女に手向けられた母親の応援歌だった。
私事になるが、私の父親は「第1の敗戦」でソ連に抑留され、極寒の凍土・シベリアの地に散った。享年37歳。私に父親の記憶はない。そして、その倍の人生を生きながらえた結果、今度は私自身が「第2の敗戦」に遭遇することになった。
その列島では今、原発の再稼働が声高に叫ばれ、沖縄・米軍基地の縮小などはどこ吹く風。震災の記憶は株価の動向に一喜一憂する世情の陰に葬り去られようとしている。
戦後68年を迎え、切に思う。少年や少女にあの悲しみを2度と背負わせてはならない。自責の深みに立った原発被災者のこころを裏切ってはならない。「第3の敗戦」を招来するような愚をふたたび、繰り返してはならない。そして、私たち一人ひとりがこのことに責任を持たなければならないと―。
著者の増子義久さんは、鎌田慧の友人で常連寄稿者になります。元朝日新聞記者で、現在は岩手県の花巻市議会議員。主な著書に『賢治の時代』(岩波書店、同時代ライブラリー)、『東京湾の死んだ日』(水曜社)があります。
当ブログでは、7月31日付「新聞記者、故郷でパン焼き園長さん」で紹介しています。
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