2013年09月24日
必要な時に戦う意味(削除予定)
この信心は本当に凄いんですよ。
なぜなら、今ここで、自分が必要としていることが、ズバン! と目の前に現れるからです。
私はたいして勉強してきたわけでもないんですよ。
ですが、真剣に唱題して、その唱題の中で悩みや疑問に直面すると、必ずズバン! と答えが目の前に現れるんですよ。
きょうはこのページかぁ、日々に開いている書籍をなんとなく拝する。
うぎゃ! 「いま・ここ」にピッタリの内容じゃないか!
そんな体験はいとまがありません。
今日も勤行・唱題をしたあといつもの書籍『御書に学ぶ』を開いたらば、まさにその必要なものが現れましたよ。
自らが信じる法の正義を証明する。
実はこれが、この世に生をうけた意味だ。
そういう内容でしたよ。
なぜ同じ信仰をしていながら、信心の姿勢がズレていくのでしょうかね。
おかしなお話ですね。
ようは、信心の姿勢の問題なのですが、これはなかなか奥が深いんですよね。
先生の過去の指導を拝すると「正信」という言葉を散見できるのですね。
「正信」なんのことだろう?
いうまでもありません。正しい姿勢で勤行・唱題をしているか、この1点に尽きます。
こうしたことも、先生はご指導くださっています。
簡単に言えば、「内道」として信心しているかどうか、ということでしょう。
すべては己心の一念に収まっている。そういうことですね。
観念文の中にある言葉で言えば、人間革命・宿命転換ですよね。
人間革命とは一生成仏のことです。ゆえに、徹底した内道の信心です。
宿命転換とは、煩悩即菩提のことでしょう。
煩悩の薪を燃やす、それを題目の功力によって法性として顕現すること。
このふたつがそろえば、自然と生死即涅槃の境涯になれるんじゃないですか。
つまり、御義口伝にある、煩悩即菩提、生死即涅槃が法華の神髄であるのですから、観念文の意味をしっかり理解したうえで読んでいれば、自然と成仏できてしまうということでしょう。
そもそも、ご観念文とか、ちゃんとわかってますか?
ともあれ、一念のお話ですよ。
例えば病気の方のことを祈る場合。
病気の方が頑張らないと無理かもなぁ。
ハイ、もうこれ、外道の信心です。
なにがあっても私の一念であの人の病気を治させてください。
これが正しい信心の姿勢です。内道でのご祈念です。
埃一つ、傷一つ、自分の一念に疑いがあってはなりません。
当然、自分とご本尊の間に他者を入れるなど、もっての他ということです。
つまり、ここでは――「病気の方が頑張らないと無理かもなぁ」という依報への不信があってはいけない。
そういうことですね。
こういう姿勢で勤行・唱題をしてれば、自然、御本尊の前を離れて娑婆世界で活動していても、他者を敬い、承認するようになるのは、理の当然なわけです。自然なことなのです。
いくら題目を送っても、送る先の人がアンテナを立てなければ届かない。
本当にそうでしょうかねぇ。
私は違うと思いますよ。
相手がどんな状態であれ、境遇であれ、状況であれ、こちらの一念さえしっかりしていれば、題目は届くのですよ。
ですがまあ、われわれは凡夫ですから、どうしても、上述したような指導とかされてしまうと、ああ、相手がアンテナ立てないと駄目なのかぁ……と、御本尊の力を侮り、疑っているわけです。
そのうえ果報である結果は、相手の業に阻まれたりして、こちらの祈った通りになるわけではない。
しかし、題目は通じてるんですよ。そういう見方をしないと、凡夫はすぐに不信に陥るんですよ。
ではなぜアンテナ云々の指導があるのか? それはおそらく、相手の方をご本尊に向って唱題へと導くのが最上の指導である。そう捉えれば、これとておかしな指導ではないわけですね。
大聖人、祈りは叶わないなんて言ってますか? そんなこと言ってませんよね。
「大地はささばはずるるとも云々」と仰せです。
無間地獄にさえ届くのが題目の光ですからね。
私はそう捉えていますよ。こっちの一念で全てが決まる、とね。
「叶ひ叶はぬは御信心により候べし」。そういうことですよね。
そういう意味では、誰かのことを祈るということは、相手の可能性を全肯定することが必要なわけです。
つまり、相手の可能性を全て信じ切る、そういうことですね。
前記事にあげた日興上人への南無がそれにあたるわけですよ。
もっと言えば、そのためにかけていく、関わっていく双方向の言葉などの縁は、日目上人への報恩感謝ではないですか。日目上人には南無しませんからね。南無とは「お任せ」する、ということですからね。善悪どちらにもでもなるものはお任せせずに、我が理性と意志の力をもって、善にしていきます。そう朝夕に誓ってるんですよ。
なぜそう誓うのか? なぜかなら、日目上人への報恩感謝は、この娑婆世界での縁であるからでしょう。
繰返しになりますが、関係性によって善にも悪にもなるからです。
しかし、それを善にします、そう誓ってるんじゃないですか。つまり、「声仏事を為す」そういうことでしょう。
ですがこれは自然に善になるわけではありませんよね。それなりの努力や言葉を選ぶ聡明さが必要である。そういうことですよね。
なのに、あなたは罵倒です。愚弄です。善にしようとなど、これっぽっちもしてないじゃないですか。
誓願、破りまくりでしょう、あなたは。
あなたのどこに不軽菩薩としての振る舞いがあるんですか? 教えてくださいよ。
徹底抗戦て何ですか?
まあ、このお話はここまで。
ここからが本題です。
必要な時とは――
先にも述べましたが、法の正義を汚されたと感じた時が、そのときです。
もう私の言いたいことは、おわかりですよね?
そう、今がまさにそういう時だということですよ。
私の信心の姿勢がおかしい、まあ現状、そう言いがかりをつけられてるわけですよ。
なぜなら、私は信心を中核に自分というもの、形作っていますからね。
その私を誹謗するということは、私の信受している法を敵視したのと同じです。
ゆえに、反撃したのですよ。
昨日一日中、頭痛がして薬を飲んでさえどうにもならなかった。
御本尊の前にさえ座ることは出来ませんでしたよ。吐き気も腹痛もありましたよ。
でもね、横になって頭痛を抱えながら、ずっと胸中唱題してましたよ。
それでも、頭痛はなくならない。
ああこれは、罪障消滅をちゃんと祈らないと無理だな、そう感じましたね。
そして、それさえ出来る自分になれば、絶対に頭痛は20分あれば治せる。
そうも確信しましたよ。実際、今朝唱題したら、ケロっと治りましたよ。
けどね、そうなれる為には、言うべきことを言わないと無理だと、深夜になって感じたんですよ。
そんな経緯で記事を書きました。
冷静である。そう前の記事に書いたのはそういう点を自省してのお話ですよ。
一日中考えに考えて出した結論だということです。
てことでですよ。
ねえ、世法とか我見でものを言わずにですよ、信心の姿勢で決着をつけようじゃないか。
どうですか?
私は私の信心の姿勢を愚弄されたと感じたんですよ。
おわかりですか?
そもそも、最初の記事で私が、お節介なご意見をしたのは、信心の姿勢の部分なんですよ。
くどいようですが、あなたの信心は外道になっている。そう指摘させて頂いたんですよ。
でもさ、論拠云々よりそこは大事なことじゃないんですか? そこはあなた、完璧にスルーしてるでしょ。
言わせて頂ければ、あなたの信心が完璧に内道であると証明して見せてくださいよ。
そこすら伝わらず、気づいて頂けず、こういうことになった。
これ、ひとえに私の責任ですか? 違いますでしょ。双方に責任はあるんですよ。
まずは、それをお認めになりなさいよ。
ようするに私の責任の部分は、気づいてくださるように、そういう一念の唱題が足りていなかったという部分ですよ。とはいえ、これだって、前述したように、果報はあなたの宿業に阻まれるわけですから、完璧に私の祈り通りになるわけではないんですがね。
あなたは、自分のやっていることが正しい(善)と言いはる。
私は、善悪は一如であるから、関係性によって変わる。ゆえに、私も反省すべきところは反省したとお伝えしたわけですよ。
まずここからいきますか。
もっとも、これはすでに先生のご指導を提示させて頂いて、決着はまるわかりなんですけどね。
あなたが、それを認めない。ようするに、師敵対してるわけですよ。
なぜそうなったんですか?
私ね、思うんですよ。
今のあなた様は、ご自分がどうなっているのか、気づかれていないと。
でもですよ、私から見れば、慢心し、傲慢になり、それに気づいていない「悪鬼入其身」なんですよ。
法華経の行者に、あーでもない、こーでもないと言いがかりをつけては論争に引きこみ、周囲に嫌な空気をまき散らす。
これが魔の働きでなくて何ですか?
だから私は放置しないことに決めたんですよ。
『御書をひもとく』に曰く。
その魔の蠢動に対して、大聖人は、いわば、“諸仏入其身”の信心で臨めと励まされた。諸仏を「動かす」どころか、「我が身に諸仏を入れよ」と仰せなのである。
――とあるんですよ。
ああこれ、私が本当に苦しくなると祈る、御書の御文ではないか!
眼から鱗やら汗やら涙やら、どどどどーっとなんか出ましたよ(笑)
「釈迦多宝十方の仏来集して我が身に入りかはり我を助け給へ」
この御文ですよ。
先生の言葉も御書の御文も引用しません。
自分の言葉で語ります。
それは結構ですが、それでは法論になりませんので、反論するのであれば、きちんと「文証」を提示してくだいね。
文証なき議論など、我見と我見のぶつかりあいでしかありません。
もう以前みたいな、「論拠」を示せの一点張りは許しませんぞ。
どっちの信心の姿勢が正しいか、決着をつけましょうや。
まあ、そうであっても、あなたがご自分の状態(つまり悪鬼入其身になっていること)にお気づきにならない限り、文証さえ歪曲して自分の都合のよいようにされることなど、こちらは既に承知のうえですよ。
どこからでもかかっておいでなさいませ。
創価学会とは、正しい信心を学ぶ場所です。
それは、別に現場でなくても出来る部分はあるんですよ。
無論、言葉上のやりとりになりますがね。
しかし、言葉は生命であり心です。
まさかそれを否定はしませんよね?
だって、御本尊の南無妙法蓮華経は文字であり、言葉ですからね。
さあ、かかってらっしゃいな。
なぜなら、今ここで、自分が必要としていることが、ズバン! と目の前に現れるからです。
私はたいして勉強してきたわけでもないんですよ。
ですが、真剣に唱題して、その唱題の中で悩みや疑問に直面すると、必ずズバン! と答えが目の前に現れるんですよ。
きょうはこのページかぁ、日々に開いている書籍をなんとなく拝する。
うぎゃ! 「いま・ここ」にピッタリの内容じゃないか!
そんな体験はいとまがありません。
今日も勤行・唱題をしたあといつもの書籍『御書に学ぶ』を開いたらば、まさにその必要なものが現れましたよ。
自らが信じる法の正義を証明する。
実はこれが、この世に生をうけた意味だ。
そういう内容でしたよ。
なぜ同じ信仰をしていながら、信心の姿勢がズレていくのでしょうかね。
おかしなお話ですね。
ようは、信心の姿勢の問題なのですが、これはなかなか奥が深いんですよね。
先生の過去の指導を拝すると「正信」という言葉を散見できるのですね。
「正信」なんのことだろう?
いうまでもありません。正しい姿勢で勤行・唱題をしているか、この1点に尽きます。
こうしたことも、先生はご指導くださっています。
簡単に言えば、「内道」として信心しているかどうか、ということでしょう。
すべては己心の一念に収まっている。そういうことですね。
観念文の中にある言葉で言えば、人間革命・宿命転換ですよね。
人間革命とは一生成仏のことです。ゆえに、徹底した内道の信心です。
宿命転換とは、煩悩即菩提のことでしょう。
煩悩の薪を燃やす、それを題目の功力によって法性として顕現すること。
このふたつがそろえば、自然と生死即涅槃の境涯になれるんじゃないですか。
つまり、御義口伝にある、煩悩即菩提、生死即涅槃が法華の神髄であるのですから、観念文の意味をしっかり理解したうえで読んでいれば、自然と成仏できてしまうということでしょう。
そもそも、ご観念文とか、ちゃんとわかってますか?
ともあれ、一念のお話ですよ。
例えば病気の方のことを祈る場合。
病気の方が頑張らないと無理かもなぁ。
ハイ、もうこれ、外道の信心です。
なにがあっても私の一念であの人の病気を治させてください。
これが正しい信心の姿勢です。内道でのご祈念です。
埃一つ、傷一つ、自分の一念に疑いがあってはなりません。
当然、自分とご本尊の間に他者を入れるなど、もっての他ということです。
つまり、ここでは――「病気の方が頑張らないと無理かもなぁ」という依報への不信があってはいけない。
そういうことですね。
こういう姿勢で勤行・唱題をしてれば、自然、御本尊の前を離れて娑婆世界で活動していても、他者を敬い、承認するようになるのは、理の当然なわけです。自然なことなのです。
いくら題目を送っても、送る先の人がアンテナを立てなければ届かない。
本当にそうでしょうかねぇ。
私は違うと思いますよ。
相手がどんな状態であれ、境遇であれ、状況であれ、こちらの一念さえしっかりしていれば、題目は届くのですよ。
ですがまあ、われわれは凡夫ですから、どうしても、上述したような指導とかされてしまうと、ああ、相手がアンテナ立てないと駄目なのかぁ……と、御本尊の力を侮り、疑っているわけです。
そのうえ果報である結果は、相手の業に阻まれたりして、こちらの祈った通りになるわけではない。
しかし、題目は通じてるんですよ。そういう見方をしないと、凡夫はすぐに不信に陥るんですよ。
ではなぜアンテナ云々の指導があるのか? それはおそらく、相手の方をご本尊に向って唱題へと導くのが最上の指導である。そう捉えれば、これとておかしな指導ではないわけですね。
大聖人、祈りは叶わないなんて言ってますか? そんなこと言ってませんよね。
「大地はささばはずるるとも云々」と仰せです。
無間地獄にさえ届くのが題目の光ですからね。
私はそう捉えていますよ。こっちの一念で全てが決まる、とね。
「叶ひ叶はぬは御信心により候べし」。そういうことですよね。
そういう意味では、誰かのことを祈るということは、相手の可能性を全肯定することが必要なわけです。
つまり、相手の可能性を全て信じ切る、そういうことですね。
前記事にあげた日興上人への南無がそれにあたるわけですよ。
もっと言えば、そのためにかけていく、関わっていく双方向の言葉などの縁は、日目上人への報恩感謝ではないですか。日目上人には南無しませんからね。南無とは「お任せ」する、ということですからね。善悪どちらにもでもなるものはお任せせずに、我が理性と意志の力をもって、善にしていきます。そう朝夕に誓ってるんですよ。
なぜそう誓うのか? なぜかなら、日目上人への報恩感謝は、この娑婆世界での縁であるからでしょう。
繰返しになりますが、関係性によって善にも悪にもなるからです。
しかし、それを善にします、そう誓ってるんじゃないですか。つまり、「声仏事を為す」そういうことでしょう。
ですがこれは自然に善になるわけではありませんよね。それなりの努力や言葉を選ぶ聡明さが必要である。そういうことですよね。
なのに、あなたは罵倒です。愚弄です。善にしようとなど、これっぽっちもしてないじゃないですか。
誓願、破りまくりでしょう、あなたは。
あなたのどこに不軽菩薩としての振る舞いがあるんですか? 教えてくださいよ。
徹底抗戦て何ですか?
まあ、このお話はここまで。
ここからが本題です。
必要な時とは――
先にも述べましたが、法の正義を汚されたと感じた時が、そのときです。
もう私の言いたいことは、おわかりですよね?
そう、今がまさにそういう時だということですよ。
私の信心の姿勢がおかしい、まあ現状、そう言いがかりをつけられてるわけですよ。
なぜなら、私は信心を中核に自分というもの、形作っていますからね。
その私を誹謗するということは、私の信受している法を敵視したのと同じです。
ゆえに、反撃したのですよ。
昨日一日中、頭痛がして薬を飲んでさえどうにもならなかった。
御本尊の前にさえ座ることは出来ませんでしたよ。吐き気も腹痛もありましたよ。
でもね、横になって頭痛を抱えながら、ずっと胸中唱題してましたよ。
それでも、頭痛はなくならない。
ああこれは、罪障消滅をちゃんと祈らないと無理だな、そう感じましたね。
そして、それさえ出来る自分になれば、絶対に頭痛は20分あれば治せる。
そうも確信しましたよ。実際、今朝唱題したら、ケロっと治りましたよ。
けどね、そうなれる為には、言うべきことを言わないと無理だと、深夜になって感じたんですよ。
そんな経緯で記事を書きました。
冷静である。そう前の記事に書いたのはそういう点を自省してのお話ですよ。
一日中考えに考えて出した結論だということです。
てことでですよ。
ねえ、世法とか我見でものを言わずにですよ、信心の姿勢で決着をつけようじゃないか。
どうですか?
私は私の信心の姿勢を愚弄されたと感じたんですよ。
おわかりですか?
そもそも、最初の記事で私が、お節介なご意見をしたのは、信心の姿勢の部分なんですよ。
くどいようですが、あなたの信心は外道になっている。そう指摘させて頂いたんですよ。
でもさ、論拠云々よりそこは大事なことじゃないんですか? そこはあなた、完璧にスルーしてるでしょ。
言わせて頂ければ、あなたの信心が完璧に内道であると証明して見せてくださいよ。
そこすら伝わらず、気づいて頂けず、こういうことになった。
これ、ひとえに私の責任ですか? 違いますでしょ。双方に責任はあるんですよ。
まずは、それをお認めになりなさいよ。
ようするに私の責任の部分は、気づいてくださるように、そういう一念の唱題が足りていなかったという部分ですよ。とはいえ、これだって、前述したように、果報はあなたの宿業に阻まれるわけですから、完璧に私の祈り通りになるわけではないんですがね。
あなたは、自分のやっていることが正しい(善)と言いはる。
私は、善悪は一如であるから、関係性によって変わる。ゆえに、私も反省すべきところは反省したとお伝えしたわけですよ。
まずここからいきますか。
もっとも、これはすでに先生のご指導を提示させて頂いて、決着はまるわかりなんですけどね。
あなたが、それを認めない。ようするに、師敵対してるわけですよ。
なぜそうなったんですか?
私ね、思うんですよ。
今のあなた様は、ご自分がどうなっているのか、気づかれていないと。
でもですよ、私から見れば、慢心し、傲慢になり、それに気づいていない「悪鬼入其身」なんですよ。
法華経の行者に、あーでもない、こーでもないと言いがかりをつけては論争に引きこみ、周囲に嫌な空気をまき散らす。
これが魔の働きでなくて何ですか?
だから私は放置しないことに決めたんですよ。
『御書をひもとく』に曰く。
その魔の蠢動に対して、大聖人は、いわば、“諸仏入其身”の信心で臨めと励まされた。諸仏を「動かす」どころか、「我が身に諸仏を入れよ」と仰せなのである。
――とあるんですよ。
ああこれ、私が本当に苦しくなると祈る、御書の御文ではないか!
眼から鱗やら汗やら涙やら、どどどどーっとなんか出ましたよ(笑)
「釈迦多宝十方の仏来集して我が身に入りかはり我を助け給へ」
この御文ですよ。
先生の言葉も御書の御文も引用しません。
自分の言葉で語ります。
それは結構ですが、それでは法論になりませんので、反論するのであれば、きちんと「文証」を提示してくだいね。
文証なき議論など、我見と我見のぶつかりあいでしかありません。
もう以前みたいな、「論拠」を示せの一点張りは許しませんぞ。
どっちの信心の姿勢が正しいか、決着をつけましょうや。
まあ、そうであっても、あなたがご自分の状態(つまり悪鬼入其身になっていること)にお気づきにならない限り、文証さえ歪曲して自分の都合のよいようにされることなど、こちらは既に承知のうえですよ。
どこからでもかかっておいでなさいませ。
創価学会とは、正しい信心を学ぶ場所です。
それは、別に現場でなくても出来る部分はあるんですよ。
無論、言葉上のやりとりになりますがね。
しかし、言葉は生命であり心です。
まさかそれを否定はしませんよね?
だって、御本尊の南無妙法蓮華経は文字であり、言葉ですからね。
さあ、かかってらっしゃいな。
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コメント一覧
1. Posted by レイロウ 2013年09月24日 13:28
こんにちは。
まず初めに
イプシロンさんの心中をお察しいたします。
ですが、私は今日のこのブログの記事に非常に
感銘を受けました。
どうかお願いです、削除しないでくださ!!!
。
私はイプシロンさんを尊敬するのは
必ず題目を上げて記事を書いているからです。
題目の話が全く出ないで文章を書いているのであれば
いくら正論であっても私の心には響きません。
しかし、私の心にガンガン響きます。
ということは本物の信心なのだと思います
まず初めに
イプシロンさんの心中をお察しいたします。
ですが、私は今日のこのブログの記事に非常に
感銘を受けました。
どうかお願いです、削除しないでくださ!!!
。
私はイプシロンさんを尊敬するのは
必ず題目を上げて記事を書いているからです。
題目の話が全く出ないで文章を書いているのであれば
いくら正論であっても私の心には響きません。
しかし、私の心にガンガン響きます。
ということは本物の信心なのだと思います
2. Posted by レイロウ 2013年09月24日 13:29
すんません脱字がありました・・・(苦笑)
3. Posted by ちよ 2013年09月24日 13:29
レイロウ
こんにちわ
まったく同感です
消すなー
こんにちわ
まったく同感です
消すなー
4. Posted by レイロウ 2013年09月24日 14:06
ちよさん
初対面なのに私を呼び捨てしないでください
初対面なのに私を呼び捨てしないでください
5. Posted by ちよ 2013年09月24日 16:57
ごめんなさい
さんが抜けてしまいました
大変申し訳ありませんでした
さんが抜けてしまいました
大変申し訳ありませんでした
6. Posted by レイロウ 2013年09月24日 20:00
ちよさん
もう気にしてないよ〜
(๑≧౪≦)てへぺろ
もう気にしてないよ〜
(๑≧౪≦)てへぺろ
7. Posted by ちよ 2013年09月24日 20:05
レイロウさん
あー よかったー
許してくれて ありがとー
あー よかったー
許してくれて ありがとー