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【憲法と、】

第6部 福島の希望<2> また国策で捨てられた

「国策で2度棄民となった」と話す橘柳子=福島県郡山市で

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 終戦直後、台車の上に板を敷いただけのような列車が旧満州の真っ暗な大地を駆け抜けた。当時六歳だった橘柳子(りゅうこ)(72)は「落ちたら死ぬ」とおびえながら日本への逃避行を続けていた。帰国船では、死んだ人がゴザにくるまれ海に捨てられた。一九四五年八月八日に旧ソ連は日ソ中立条約を破棄し、満州に侵攻。在留邦人は大混乱に陥った。

 二〇一一年三月、同じような状況に直面した。東日本大震災翌日の十二日、東京電力福島第一原発で1号機が水素爆発。浪江町の自宅から車で国道に向かったが、大渋滞で動かない。ようやくたどり着いた町内の津島地区で十六日まで過ごした。

 当時、浪江町には国からの情報が途絶え、文部科学省のSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)が放射線が高濃度となることを予測していた津島地区に、人々が殺到した。

 福島県本宮市の仮設住宅で暮らしている橘は「私は国策により二度、棄民となった。一度は戦争、二度目は原発事故で」と怒りを込める。

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「故郷に帰りたい」と話す遠藤昌弘=相模原市で

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 一九七三年、小高町(現南相馬市小高区)は東北電力が計画する浪江・小高原発の誘致を決めた(後に東北電力が計画を撤回)。故郷の町役場に勤め、当時土木課職員だった遠藤昌弘(88)は、原発造成工事に必要な道路の用地買収交渉を担当。毎晩のように地権者と交渉した。

 「放射能の恐ろしさは分かっていますが、原発と原爆は違います。原発は平和産業で、地元に雇用をつくります」と説得した。遠藤は原爆被爆者だった。

 四四年に徴兵され、原爆投下時は、体調を崩して爆心地から約二・五キロの広島市の病院に入院していた。その時に見た地獄絵図。「人が想像できる範疇(はんちゅう)を超えた悲惨な光景だった」。戦後も、思い出すと眠れなかった。髪の毛が抜け、鼻血や下血に苦しんだ。

 平和憲法が公布され「これで戦争はなくなる。まだ生きていける」とほっとした。

 かつて国の言葉を信じ、「戦争に勝つ」と思っていた。戦後、原発は「平和の灯」と宣伝する国の言葉を福島の人たちが信じた。その結果、故郷は放射能に奪われた。「原発が安全かどうかじゃなくて、しょうがなかったんですよ。原発が来れば町の固定資産税も上がり、経済も活性化する」。遠藤はそれ以上語らなかった。

 現在は、相模原市に避難している。「帰りたい」という思いは尽きず、俳句を詠んだ。

 目に見えぬものに逐(お)われて春寒し

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 満州から命からがら帰国した橘は教員となり、八六年には日本教職員組合(日教組)で支部初の女性書記長になった。「四十年前にできた憲法に男女平等が書かれているのに。結局、本物の平等を手に入れるには闘わなきゃいけなかった」

 原発事故で多くの人が故郷を奪われた今の福島も「基本的人権さえ満たされていない」と感じる。避難生活で一時、鬱(うつ)状態になっていたが「今こそ、憲法を本物にしなきゃいけない時期だ」と思い直した。

 原発事故からちょうど一年後の二〇一二年三月十一日、郡山市であった反原発集会でスピーチした。「原発は人の意思と行動で止められます」 (敬称略)

 

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