記者の目:「消えた震災」昭和東南海地震=山本佳孝
毎日新聞 2013年09月24日 00時16分(最終更新 09月24日 00時24分)
「ただただ勝たんのみ 大東亜戦争第四年へ進発(しんぱつ)」。1944年12月8日の毎日新聞1面は、その3年前に始まった太平洋戦争の遂行を掲げる大見出しをトップに、軍服姿の昭和天皇の写真、各地の戦果誇示の記事で埋まった。前日に東海地方を襲い、1223人が犠牲になった「昭和東南海地震」の悲劇を覆い隠すように。
今も公的資料が少ないこの地震をテーマに、静岡面で8月13〜17日、「消えた震災」と題して5回連載した。取材を通じ、戦時下の情報統制と、東日本大震災で「情報隠し」と言われた政府の対応が二重写しに見えた。何より、69年前の体験者は鬼籍に入りつつある。将来の震災に備え、国は改めて被災情報の公開ルールを明確にするとともに、それぞれの地域は、震災体験の証言など「アナログ情報」を体系的にまとめる取り組みを急ぐべきだ。
◇「救護より秩序」 統制された情報
マグニチュード7・9だった昭和東南海地震は、静岡県の他、愛知、三重県を中心に揺れや津波が襲った。特に静岡の中で被害の集中した袋井町(現袋井市)の国民学校は、校舎倒壊などで児童20人が死亡。同町に東京から疎開していた当時6年生の浅場ケイ子さん(81)は、「東京の家族にも地震の話はしてはいけません」と担任から口止めされたのを今も覚えている。
当時、軍部は特攻隊の体当たり攻撃に踏み切り、米軍のB29による東京都内の空襲が始まっていた。敗戦の坂を転げ落ちていた時期、えん戦気分漂う国民に混乱が広がるのを防ぐため、政府にとって被災の実態は蓋(ふた)をしておきたい不都合な情報だった。
「誇大刺激的に報道しない」「軍需工場の被害に触れない」。当日、内務省新聞検閲係が新聞・通信社に緊急通達し、翌日の毎日新聞は、社会面のベタ記事が「きのふの地震 静岡発」「浜松方面で被害が大きく、建物の損壊、人畜の死傷があった」と触れるのみ。各紙も同様だった。
厳しい報道管制を敷く一方、軍需工場が多く集まる東海地方が被災したため、政府は被害の詳細を調査していた。兵庫県立大の木村玲欧(れお)准教授(防災教育学)が政府関係者から入手した帝国議会の秘密会速記録コピーがある。年が明けた45年2月9日の秘密会では、報告する内務官僚が16府県で死者977人、負傷者1917人、工場は3012棟が全半壊したと明かし、「重要軍需工場の被害が非常に多い」と懸念を示した。