高校授業料の無償化制度に所得制限が設けられる見通しだ。親の貧富にかかわらず、子どもの学びを社会全体で等しく支えるという基本理念が損なわれてしまう。教育の機会を国が歪(ゆが)めてどうする。
二〇一〇年度に民主党政権下で導入された制度だ。公立高生からは授業料を取らず、私立高生には就学支援金を出す仕組みで、国が年間約十二万円を負担する。私立では低所得の家庭に加算される。
未来を担う子どもの可能性を高め、開花させる機会が親の経済力に左右されないよう国が保障する。大切な制度だ。
それを高所得層まで対象とするのはバラマキ政策だと、自民党は批判してきた。そして、年収が九百十万円に届かない家庭に限ることで公明党と合意した。一四年度から実施する構えだ。
この所得制限によって高校生全体の22%が対象から外れ、約四百九十億円の費用が浮く。それを中低所得層の支援の拡充に回す。私立高生への就学支援金を手厚くしたり、返済義務のない給付型奨学金を創設したりするという。
経済格差の広がりを見れば支援の底上げは喫緊を要する。しかし、その方法には問題が多い。いくら高所得層とはいえ、同じ高校生を抱える家庭にその代価を支払わせるのでは著しく公平を欠く。
だいたい九百十万円で線引きする根拠が分からない。これを境に子ども一人当たり高校三年間で三十五万円余の負担差が生じる。二人で七十万円、三人では百万円を超す格差になる。
大学の費用まで見据えると、子どもの多い家庭は不満が募るだろう。多少年収が高くても、若い夫婦は子どもを産み控えかねない。
教室に授業料を納める生徒と納めない生徒が混在すれば、無用の亀裂を招かないか。親の貧富にまつわる情報がどんな動揺を与えるか想像力を働かせるべきだ。
日本は昨年九月、高校と大学の無償化を徐々に進めると謳(うた)った国際人権A規約の規定を守ると宣言したはずだ。所得制限の設定は時計の針を巻き戻すに等しい。
無償化予算を積み増さず、現行の枠内でやりくりするから角を矯めて牛を殺す結果になる。そもそも日本の教育予算の国内総生産に占める割合は先進国で最低水準だ。「教育再生」を唱える安倍晋三政権の熱意を疑う。
公教育は本来、所得に応じて負担と給付の均衡を図る福祉ではない。子どもへの投資は社会の利益となって還元されるのだから。
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