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【放送芸能】

「話せなくてもいい」支えに TBSラジオ「永六輔の誰かとどこかで」46年で幕

 四十六年続いたTBSラジオ「永六輔の誰かとどこかで」(月−金曜、午前十一時三十五分)が二十七日、一万二千六百二十九回で放送を終える。同一パーソナリティーによる最長寿番組の幕引きを控えた永六輔に感慨を尋ねた。 (浅野宮宏)

 東京・赤坂のTBSラジオで、八十歳の永は車いすに乗ったままマイクに向かっていた。アシスタントの遠藤泰子(69)を相手に、はがきを読み、時折笑顔を見せながら一回十分の放送を収録した。月−金曜の一週間分を一度にとる。

 永が旅先の出来事を語るのが番組のスタイル。「若い時は土曜日に東京に戻っていた。必ずどこかに行って、誰かと会って。それを泰子さんに話すのが本来のあり方。でも体を壊し、できなくなった。車いすでうろうろしていると、本来番組が持っていた旅先のリポートがやりにくくなった」。一昨年十一月に脚を骨折。パーキンソン病と公表している。

 「昨年暮れから今年にかけ、ろれつが回らずひどかった。放送の人間としたら許せないぐらい。ろれつが回らなくて、何言っているのか分からない。やめた方がいいという人がたくさんいた」

 「その中で、小沢昭一さんと毒蝮三太夫が『絶対やめないで』と。小沢さんは『しゃべれなくても、あなたがマイクの前にいることが大事なんだから、いろ』って。今はその支えがなくなったけど、小沢さんとの約束で言えば、この番組だけじゃない」。永は同じTBSラジオの「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」(土曜午前八時三十分、関東ローカル)は続ける。「引退するわけじゃないんで。どうやったら、それが面白くなるか。これからが楽しみ」

 NHKしかラジオがなかった終戦直後、番組への投稿が放送人になるきっかけ。まだ中学生だった。「だからラジオが好きとか嫌いじゃなく、ラジオから僕は生まれた」「子どもの時からラジオの仕事を始めたから、そのまま続けている感じ。学生時代の延長線上。部活と変わらない」

 探求心は強い。「自分の周辺にあるものが、どうしてあるのか知りたくなる。知らないと落ち着かない」。影響を受けたのが民俗学者の宮本常一(つねいち)(一九〇七〜八一年)。「放送の世界に行くんだったら、放送は電波だからどこにでも飛んでいってしまうけど、その先に行け。そこで話をして、聞いて、調べて。それをスタジオに持って帰りなさい。だったら放送の仕事をしていく意味がある」。宮本の教えを胸に生きてきた。

       ◇

 現在フリーの遠藤はTBS入社八カ月後に番組アシスタントに抜てきされ、これまで永を支えてきた。番組終了を「人生の一部で切り離せない。今はすごく寂しいけど、一、二カ月たってから実感がすごく湧いてくるのかも」と受け止める。

 「永さんは言葉の師匠であり、放送の師匠。一つの物事を思いも寄らない側面でとらえ、実に面白く伝える技はすごい。永さんと関われ、アナウンサー冥利(みょうり)に尽きる。幸せだった。その一言」

 「永六輔の誰かとどこかで」 1967年1月に始まった「どこか遠くへ」が前身で、69年10月から現在の番組名に。全国18局ネット。

 

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