09月23日の「今日のダーリン」

・じぶんが、小説とかゲームとかをつくるとします。
 人間たちが出てきて、筋立てのある物語。
 
 そしたら、じぶんも含めて、
 いい人ばっかりが登場して、事故も事件もなく、
 みんな機嫌がよくて、困ったこともなく、
 出てくる人たちの望みは、すべてかなえられて、
 生まれた人は、いつまでも誰も死ななくて、
 食事はうまいし、それぞれ頭もよくて趣味がよくて、
 スポーツやら音楽なんかも楽しんで、
 ああこりゃこりゃランランランみたいなお話は、
 たぶん、つくらないと思うんですよ。
 
 いや、そういう夢想的な物語も、
 じょうずにつくったらありうるとは思うんですよ。
 現実のつらさとか厳しさに疲れている人たちが楽しむ
 甘くてカロリーの高い表現は、それはそれであります。
 ある意味では、ポルノグラフィーなんかは、
 特定のジャンルの夢の物語じゃないでしょうか。
 
 でも、実際に、次はどうなるんだろうとわくわくしたり、
 苦さのあとの甘さをじっくり味わえるような物語には、
 事件だとか事故だとか、悪人やわからずやや、
 卑怯や誤解や、不運や理不尽や無力やらは、
 どうしても欠かせないものです。
 そういうものは、現実のなかでは、
 「いっさい、ないほうがいい」と願うようなものなのに、
 物語をたいくつさせないためには、
 あったほうがおもしろくなるものなんですよね。
 
 「ないほうがいい」という願うものなのに、
 現実にはあるし、物語のなかにもどうやら必要で、
 それがないとたいくつで、のっぺらぼうになっちゃう。
 「ないほうがいい」とずっと考え続けて、
 なくなるわけもなさそうで、ないとねだりたくなる。
 そのどうすることもできない感じを、
 「あはれ」と言うんじゃないかと、ぼくは思ってます。
 
 「人間は、なぜ死ぬんでしょう」なんてことも、そう。
 死ななきゃいいのにと思うけど、死ぬから人間だしなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
から元気とか、かけ声とか、存在理由がちゃんとあるよね。