挑戦と妨害
そしてパソコンに相当するBTRONを担当したのが、「家電の雄」として、家庭用として使いやすいコンピュータを模索していた松下だったのでした。
元々、BTRONは坂村氏の「納得できるコンピュータを造りたい」という夢そのものでした。それが「今のパソコンは使いにくい」という多くの人達の不満に触れ、まさにパソコンに関わる人達にとっての「誰でも使えるパソコン」という、共通の夢となって、その実現に向けた動きが始まったのでした。
パソコンを解り難くしているファイル操作の不自由を、BTRONが解決する中核システムとして「実身・仮身」があります。同じ夢を追うアメリカの先覚者達がイメージに描いた「ハイパーテキスト」をマックの「ハイパーカード」が世に出る前に実現した、まさに世界の先駆者でした(にも関わらず、アメリカ崇拝者達が「TRONはハイパーカードの真似」などと誹謗しているのは、実に不可解な誤解と言う他はありません)。
これが実現した「ネットワーク型ファイル構造」は、BTRONというOSが「マルチレコードファイル」を前提に設計されたものです。旧来のOSの延長で造られたウィンドゥズやUNIXのツリー構造ファイルシステムで擬似的に真似ようとしても、なかなかBTRONの操作性を実現出来ないのは、基本的なシステムの根が違うのです(逆に旧来型のソフトをBTRONに継承するために、BTRONがツリー型ファイル構造を真似るのは簡単です)。
松下の技術陣は、坂村氏の指導の元で、当時最も普及していた286チップ上のマルチタスクOSとして、1987年3月にプロトタイプを完成し、発表します。マイクロソフトがウィンドゥズで「力不足のために満足なGUIを作れない」と手を焼いた286チップ上で実現した完璧なGUIに、技術を知る人達は驚嘆しました。
これに注目したのが、当時「教育パソコン規格」の選定に悩んでいたCECでした。企業ごとに互換性を欠くDOSパソコンの不統一と、使える教員の少ない「使いにくいパソコン」・・・。到底「学校に持ち込める代物」とは言えない、それまでの規格候補に愛想を尽かしていた彼等が、BTRONに飛びついたのです。
「BTRONを教育パソコン規格に」という案に、パソコンメーカーの中で、唯一抵抗したのが既製市場でデファクトスタンダードを握るNECでしたが、DOSとの「ダブルOS」を認める事で、TRON教育パソコンの実現が決定しました。主要ソフトの移植、ベーシックによる既存教育パソコンとの互換など、技術的な障害が次々とクリアされていく中、別の方面からの障害が闇の中で蠢き始めました。そう、「政治的妨害」です。
それを始めたのが、ソフトバンクの孫正義氏、ソニーの盛田昭夫氏、そして通産省の棚橋祐二氏でした。ソフトバンクはDOSパソコンの流通に根強い利権を握っていましたし、ソニーはβの規格敗戦以来、松下は不倶戴天の敵でした。そして通産省は、強くなり過ぎたメーカーが行政指導に背を向け、地盤沈下の危機にありました。三者の利益は一致したのです。そしてもう一つの「利害が一致する勢力」・・・は、もう言うまでもないでしょう。
1988年の段階で、アメリカは極秘裏に松下が試作したBTRONパソコンを入手し分析しました。そして「B+」の評価を下し、脅威として認定したそうです。その入手ルートは明らかではありませんが、盛田氏のソニーもまた「CECパソコン」の提案企業として名を連ね、松下からソフト開発用のBTRONマシンの供給を受けています。
外圧の嵐の中で
水面下で外交ルートの外圧が始まったのは9月頃からです。USTRが「OS調達を松下に限定するのは政府調達ルール違犯」と攻撃し、それに対して日本側は「BTRONは誰でも開発出来る」と反論しました。そして1989年、TRONはアメリカによって強引に「スーパー301条」に指定され、各方面から「理不尽だ」「理解できない」との疑問の声が起こりました。
スーパー301条による、アメリカの理不尽なやり方に憤る日本国民を前に、通産省は表向きは抵抗のポーズを取りますが、これが実はアメリカ・通産が裏でつるんでの「出来レース」で、最初から屈服の筋書きが出来ていた事は、田原総一郎氏の克明なレポートがあるのです。
アメリカ側でTRON外圧を実際に指揮したのは、「戦略的発想」の元での技術独占を使命とするアメリカ国防省でした。彼等は1月にアメリカのコンピュータ関係者を集めて談合を行い、301条指定の話を切り出したのだそうで、その時はあまりに非常識な話に、各企業とも尻込みしたようですが、国防省には外圧貫徹に絶対の自信があったのでしょう。事実、この外圧でCECはTRONによる標準化を断念したのですから。裏を知らない民間人が怒ったのは、アメリカ人も同じでした。あるアメリカ人新聞記者は坂村氏に「抗議の手紙」を書く事を勧め、USTRのヒルズ氏は、坂村氏の抗議に対して「今後はTRONに圧力をかけない」と約束したのです。
その後、TRONを支持する企業は、CECの規格など無くても、市場努力で標準に押し上げようと、BTRONの推進を続けました。三菱やシャープなど四社がBTRONをAXに移植し、松下はBTRONKのワープロとパナコム用単体OSとしての発売計画を発表します。パーソナルメディア社や神津システムなどが組織する「BTRONソフトウェア懇談会」も、TRONへの自社ソフト移植を進めました。TRONに関心を持つ一般ユーザーを集めたBTRONクラブの結成も、この時期です。
そしてUSTRは坂村氏との約束を破り、再び水面下でTRONに対する強引な圧力を展開。業界団体(おそらく半導体工業会)の代表が来日して執拗にBTRON撤退を要求したのです。そして翌90年、再びTRONをスーパー301条に指定すると、多くの企業はBTRONから手を引きました。
なおもBTRONを市場に出そうとする松下に対して、アメリカは「松下製品締め出し」をもって脅しました。結局、松下本社はBTRON事業から撤退。僅かに子会社の松下通信工業が「パナコムET」として、一般市場での販売を諦めて学校市場に限定し、腫れ物に触るような販売活動を始めたに留まりました。
89年6月の教育パソコン規格断念は、対外的にはこの標準化断念は、「現場の教師が反対したから」と説明されました。しかし、実は教師達はBTRONに反対などしていなかった事実が明らかになっています。当時の某県のパソコン教育担当者によると、事実は全く異なるものでした。
当時、毎年各県の担当者が文部省に集められて「説明会」が開かれました。そこで現場から上がった様々な要求や疑問が出されます。そこでは確かに「既存のパソコンで作ったソフトが使えるものを」という要求はありました。しかしそれは、PC98に限らず学校で使われていたMSXなども含めた、様々なパソコンの中での不統一に対する不満で、TRONを導入するとかしないとか・・・というレベルの問題とは無関係な代物だったのです。
だからこそ、そのソフトを書くベーシック言語を共通化して、市販ソフトには「マルチOS」で対応すれば、何の問題も無かったのです。現実の問題は「パソコンを使える教師が少ない」という、今に至るまで現場を悩まし続ける現実への対応でした。多様な教科をパソコンで行うために実身・仮身機能による「切り張り感覚」でのハイパーテキスト教材作成環境は、後に松下通工が小規模に売り出した「パナカルET」採用校において、絶大な威力を発揮します。だからこそ、パソコンを知る教師ほどBTRONに対する期待が大きかったことは、当時のアンケート調査ではっきり現れています。
「毎年の説明会で、TRONを批判する声は一切無かった」と証言した、某県の担当者は、BTRON排除の理由として「現場教師の反対」などという口実が言われた事を一切知らず、純粋に外圧だけで排除されたのだと思っていたのだそうです。教師達は何も知らずに「TRON潰し」の犯人に仕立て上げられていたのです。
結局、この口実は文部省がマスコミ向けにでっち上げた「虚構」に過ぎなかったのです。言うまでもなく、悪名高い「記者クラブ」を使った情報操作は、彼等の十八番です。TRON潰しに暗躍した棚橋氏は、自民党の福田・竹下派に強固な人脈を持つ「実力者」です。彼の政治力なら、自民党の文教族を操って、この程度の工作を行うくらいは朝飯前だったでしょう。
受け継がれた希望
メーカーが撤退し、パソコンとして出る見込みの無い中で、BTRONソフトウェア懇談会ではBTRONの活路を個人に求める模索を続けました。その中心になったのがパーソナルメディア社でした。専門雑誌の「トロンウェア」などを出し、また、体験セミナーや開発者の募集、アイディアコンテストなどが企画されました。しかし、90年末頃に坂村氏が怪我で入院する中で、メンバー企業はソフトウェア懇談会を離れていきました。事実上の「切り崩し」に遭ったのだと言われています。
年末のトロンショーでは、パナカルを出展した松下通工も「これはBTRON
ですよね」と聞かれても係員に否定させるような態度を取りました。松下本体で
はTRONはタブーとなり、通産省は文字通りTRONを「目の敵」として扱い
ました。技術者が「TRON用を作りたい」と訴えても、社長が「外圧が怖いか
ら出来ない」と尻込みする始末でした。
こうした中で、唯一TRONから逃げなかったのが、パーソナルメディア社でした。空中分解したソフトウェア懇談会の後を受けて「BTRONソフトウェア
開発機構」を設立。松下が投げ出したBTRONのライセンスを受け、解散した
松下のBTRON技術者の一部も、パーソナルメディアに移りました。そして、
松下からOEMを受けたパナコム機にバンドルして通信販売する事業を始めたの
が、91年8月・・・、これが「1Bノート」です。
当初、松下とのライセンス契約に縛られて他機種への移植を許されず、価格も
高めに設定され、限られた経営ソースの中でソフトもままならぬ中での困難な船
出でしたが、パソコンジャーナリズムから無視された中での限られた情報を嗅ぎ
つけて、多くの支持者が「個人ユーザー」として集まり、ニフティに設置された
「パーソナルメディアフォーラム」で、ユーザー主体のBTRON盛り上げ策を押し進めるようになったのです。
分担してデータウェアを開発したり、ソフト会社へのBTRON移植の署名運
動とか、パーソナルメディアに対する製品の改善要請とか、動作確認情報を出し
合うとか・・・。そうした中から、坂村教授やパーソナルメディア社から独立し
た、ユーザーグループとしての独自のリーダーシップが生まれたのが「TRON
ファンフォーラム」であり、そして「B−FREE」であり、現在まで様々なグ
ループが各々の理想を求めて活動しています。
パーソナルメディア社も、限られた経営リソースの中で、ソフト・周辺機器の
開発を続けました。ワープロ・グラフィック・通信に加え、表計算やデータベー
ス・マクロ言語・・・。当初は高額だったバンドルモデルも、低価格モデルを含
めて様々な機種を出していきましたが、多様な機種を気軽にパソコンショップで
買う人達とは無縁の、苦しい時期が続きました。
やがて、松下のパソコン事業がDOS/Vに転向することで、不自由な販売体
制に転機が訪れます。BTRONをDOS/V用に移植し、ようやく単体OS
「1B/V1ソフトウェアキット」として売り出す事が出来たのです。
ただ、インテル286をターゲットにした教育パソコン時代の16ビットのコ
ードを引きずった事は、開発の面で足を引っ張り続けました。ブラウザやSCSI
の提供が遅れたのも、そのためです。その状況を変えたのがセイコー電子でした。
PDAブームの中でOSにBTRONを選び、「ブレインパッドTipo」として発売し、BTRONの使いやすいインターフェースと高い信頼性が注目されま
す。Tipoは「なみはや国体」の記録用として標準採用されるなど、PDAの
有力機種として大きく注目されました。
これに搭載するために、パーソナルメディアが提携して、V810をMPUに32ビット仕様OSとして改めて開発されたのが、32ビット版BTRONOS「B−right」です。後にそれはDOS/V機に移植され、B−right/Vとして発売されました。独自ブラウザや多色機能、多様な周辺機器など、従来の1Bの欠点は急速に埋まっていきました。
理想を求めて
BTRONが外圧との闘いに苦戦する間にも、TRON全体としては、その先
進的な様々な活動が、日本の未来を信じる人達の期待を集め続けました。分散協
調ネットワーク社会実現のための実験として始まった「電脳都市構想」が始まっ
ていました。あらゆる家具をネットワークで結んだ電脳住宅の建築を成し遂げ、マスコミの話題の的となりました。
さらに、オフィス空間としての電脳ビルや交通ネットワークとしての電脳自動車網、
そしてそれらを組み合わせた都市空間を、実際に建設する直前まで行ったのです。
TRONチップも92年前半まで、通信・FA分野を中心にそのオープン性と使い
やすいアーキテクチャーが、供給側・需要側双方にとっての期待の星として、製品開
発や生産拡大の発表が続きました。しかし、そうであるが故に、常に半導体摩擦の毒
牙に晒され続け、ついに92年後半の、アメリカ企業・政府と通産省が一体となった
対民間圧力によって潰されたのです。
MPUという汎用高付加価値製品は「アメリカ企業に手を出せる」限られた製品分
野という事で、「20%」という押し売り目標達成のために、政治的な「部分委譲」を迫られ、多くの市場を失ったのです。電脳都市構想もまた、バブル破綻の中で、主
体となる建築業界の苦境によって、次第に事業は中断に追い込まれていきました。
しかし企業は「制御ソフトの組込みOS」という目立たない所ではITRONや
通信制御用のCTRONをどんどん使用していきました。「TRON使用」を名乗る必要が無く、
それ故に外圧が働かないからです。ソフトの規模の拡大・継承性の必要から、それま
でOSを使わなかった分野に新たにOSを必要とする状況が出てきたためです。
このために、NTTが主体となって開発したCTRONは、アメリカの圧力を撥ね
除けてNTTの標準となり、ISDNユニットやデジタル交換機などの日本のデジタ
ル通信システムにとって、絶大な役割を果たし、ついに93年にはATTなどと「共
通規格」として協定を結んで、その正しさを認めさせました。
これらの「日本独自の通信仕様」を、一部には未だに「グローバルスタンダードに
反する」などと誹謗する人達もいます。特にデジタル携帯電話に関して彼等は「(日
本よりずっと遅れた)アメリカの規格と違うものを採用したから、お先真っ暗」と散
々攻撃しました。もちろん彼等はその直後に大発展した「iモード」によって、予言
が外れて大恥をかく事になります。
NTTが携帯電話需要を爆発させた超小型携帯「ムーバ」は、ITRONの軽さと
信頼性によって初めて可能になった事を、開発を担当したNECの技術者が認めたの
は、つい最近の事です。当初は彼等も「アメリカ標準」という掛け声に踊らされて
TRONに背を向けたが故に、かなりの開発費を無駄にしましたが・・・。
闇を作った人達
ITRONが、人知れず「物作り日本」の基幹を守り続ける中にも、TRONを潰そうとした人達は、より深い所で日本の競争力を蝕んでいました。「日本の産業競争力」を敵視するアメリカと、それに迎合する自民・官僚・マスコミが、日本の技術を潰すべく世論操作に血道を上げていたのです。天谷直弘氏や加藤紘一氏などの高級官僚や政治家を含め、多くの有力者が、あからさまに明言したように、理不尽な日本叩きをマスコミがあたかも破滅の足音のように煽り、日本人を脅して、その向上心を削ぎ落としていきました。
「軍備を持たない町人国家の日本に、経済大国として地位を得る資格は無い」
「日本が繁栄すると、妬まれて世界から潰される」
そしてその理不尽さに対する反発を「軍国主義」呼ばわりのレッテルで抑えつけ、
「自国を考えるのは利己主義」「世界のために犠牲を払え」などと、抑圧への盲従を
強要したのです。
反TRON派の安田寿明氏は「情報処理」1993年4月号において、こんな主張を展開しています。曰く・・・日本がOSを作ると、世界を塗り潰して嫌われる。
アメリカの機嫌を維持するために、日本はソフト分野での弱者であるべきだ・・・と。日本が「ソフト分野」において遅れを取り、今に至る日本の「競争力弱体化」によって、
我々庶民が塗炭の苦しみを舐めているのは、彼等「愚かなリーダー」の、まさに
「明確な意図」によるものだったという事実に、怒りを感じない人がどれだけ居るのでしょうか?
通産省では、あのTRON潰しを主導した棚橋氏が、事務次官として、スーパー3
01条外圧への屈伏談合に基づく、全国的な「押し売り貿易受け入れ」の行政指導を推進していました。
「日本の輸出は世界の敵だ。今使ってるのと同じ種類のものを外国が作ってたら、
高かろうが悪かろうが輸入せよ」と、増加目標を掲げて強制したのです。これによっ
て、実用性後回しで買わされた部品を組み込み、不良品を出して莫大な損害と取り返しのつかない信用失墜に見舞われ、多くの企業が血を流して衰退した一方で、失われかけた通産省の「企業支配力」は、見事に蘇り、棚橋氏は「通産省中興の祖」と仰がれました。
まさに「我侭な外国を喜ばす」という、市場経済とは何の関係も無い、あまりに理不尽な論理によって、
日本の市場は致命的に歪められたのです。
一方では、アメリカ的な「社長のトップダウン」「資本家利益の極大化」「金持ち
優遇」が「グローバルスタンダード」として鼓吹されました。「消費税」もまさにその脈絡から産まれた産物です。
それは、ボトムアップ方式で日本の繁栄を支えてきた「ヒラの人達」の意欲を破壊しました。教育でも「アメリカ企業が自国語で売り込める」ようにと、「日米貿易拡大委員会(アメリカ代表ゲッパート・日本側森喜朗)」が決めた英語重視を「グローバル化」の名で推進する一方、理科教育は「ゆとり教育」の名の元に見る影もなく削減されていきました。
そうやってアメリカをつけ上がらせた結果が、92年には「ジョブジョブジョブ」
のブッシュ大統領(父)による押し売り協議でした。これが日本人の憤激の的となっ
て、ようやく「外圧拒否」の気運が産まれていったのです。
そんな状況の中、当然のように情報産業でも日本企業は「外圧が怖い」として、独
自規格の開発を萎ませます。かつて西和彦氏は言いました。
「もしTRONが失敗したら、今後10年、日本で新しい試みは途絶えるだろう」
TRONが失敗したと見なされた後、歴史はまさにその予言の通りの展開になりました。
マスコミが「アメリカが造った規格だから大成功間違いなし」と持ち上げた様々な
規格に、メーカーは大金を出して荷担してその「知的所有権」に縛られる立場に甘ん
じました。3DO・ニュートン・テレスクリプト・ネクスト・イリジウム・・・これらはいず
れも大失敗し、独自のシステム造りも手控えた日本企業は、どんどんじり貧に立たさ
れました。
そしてパソコン市場では、90年頃まで悪評紛々だったウィンドゥズが「次世代パ
ソコン競争」の盛んな、そしてちょうどBTRONが妨害を受けていた80年代末〜
90年代初期、「ウィンドゥズ3」でソフト支配を固め、やがてウィンドウズ95で
決定的な市場支配を確立したのです。
「アメリカの機嫌のために日本は弱体化すべし」
「MSによる統一規格を歓迎すべし」
そう日本人に思考停止強いて、TRONを排除した人達の「理想」の実現は、まさ
に日本と多くの人達にとっての災厄でもあったのです。日本技術衰退による平成不況
の深刻化、情報化の果実の多くはアメリカの独占に帰し、日本人技術者は臍を噛み続けました。
そしてウィンドウズ支配は日本だけでなくアメリカでも、様々な弊害をも
たらした事でようやく、彼等「独占サポーター」の愚かさは白日の元に晒される事になりました。
OSの肥大化によって頻繁な「機体買い換え」を強要されて情報化コ
ストが肥大化を辿り、大量の廃棄パソコンが処理場に溢れました。そして「重い・遅
い・落ちる」の三重苦がユーザーを苦しめました。
その一方で、ソフトメーカーはOS支配を活
かしたマイクロソフトのアプリケーション参入に怯えるようになり、その結果が「独
占禁止法」の裁判と、そして、リナックスやJAVAによる新しい動きが産まれる必然性・・・。
そうした新しい動きを実現する「もう一つ」の存在としてTRONは再
び注目されるのです。が、そうした反独占の潮流はまさに、TRONが妨害を受けること無く発展できた
なら、TRONによって逸早く実現していた流れに他ならなかったのです。
復活への道
こうして「技術大国」の地位を失うことによって経済的に行き詰まり、次第にアメ
リカ追従の弊害が粉塗できなくなる中で、新たな技術体系に活路を求める声が高まっ
てきた、その切り札がつまり「デジタル家電」です。マイコンによってデジタル制御
され、あるいは音楽・映像をデジタル化してコントロールする・・・。そうした家電
を、さらにはネットで接続し、家庭にある電気製品全体を単一のコンピュータのよう
に操作し、快適な環境を実現しようと・・・。
それはまさにTRONが予言した「分散協調システム」そのものです。そしてその
実現を模索している企業の先頭にいるのが松下です。
かつてBTRONに「家電バソコン」の理想を見出し、莫大な開発費を投じた松下
もまた、その理想を捨てた90年代前半には、迷走を続けました。グループ内におい
てBTRON放棄を主張したのが、本体の実力者でもあった松下冷機の社長でしたが、
その松下冷機が不良冷蔵庫問題を引き起こし、3DOなどのアメリカ規格に振り回さ
れて血を流し続けました。
そうした過ちに気付いた松下の巻き返しの切り札は、やはりTRONの遺産でした。
BTRON開発部隊のリーダーだった櫛木氏を重役に抜擢し、ITRON規格に基づ
いた「パイOS」をデジタル家電OSの標準に据えたネット家電体系。そのネット家
電をモデルルームに配置してデモンストレーションする「HIIコンセプトハウス」
もまた、かつての電脳住宅とそっくりです。
他にも、車載コンピュータにITRONを選んだトヨタや、JAVAとITRON
を融合させたJTRONで携帯端末をリードするアプリックス、ITRON上に小形
ブラウザを開発してIモードの実現に決定的な役割を果たしたアクセスなど、今や、
多くの企業でTRONは「期待の星」です。
残念ながら、松下も含めて企業が各個に行おうとしている「家庭電脳化」は、その
ままなら企業独自規格の乱立によって、接続性を欠いたものになる恐れがあります。
そこでTRONでは、90年代後半から、JTRONを軸にした協調分散システムの
ための標準ソフトの開発を進めてきました。
その成果の結実として、本格的な分散協調システムを実現するための新たな規格が
「e−TRON」です。機器に組み込んで端末機能を受け持つe−TRONチップや、
その機能を搭載する可搬性メディアのe−TRONカード、そこに組み込むソフトの
Tカーネル、そしてソフト開発・コントロール端末としてのTエンジン・・・。多く
の企業の協力で、まさに実現の手前にあります。
そうした中、パソコンは・・・・?
坂村氏の「理想のパソコン」のビジョンは、ハイパーテキスト以外にも、電子ペン
やハの字型のキー配置が特徴的な「TRONキーボード」が知られています。80年
代には、安田寿明氏などが「TRON嫌い」の口実に使ったものでしたが、このタイ
プのキーボードは90年代に入ってから「エルゴキーボード」と称して、アップルや
マイクロソフトなどが思い出したように製品化し、小型電子ペンなどとともにTRO
Nの先進性と、それを非難した人達の愚かさを証明しました。
「全ての人に使えるバソコン」という理想を掲げた「イネーブルウェア」も、大き
な注目を集めました。多様な障害に合わせて、細かい仕様を変更出来るシステムは、
BTRONの標準装備です。さらには盲人用に、GUIが受け持っていた機能を音声
でサポートする「しゃべるBTRON」の研究が行われ、矢崎総業によって障害者施
設向けに商品化されて多くの視覚障害者の光になったのです。
未来はTRONとともに
多様な言語で使うための仕様を設計段階から組み込む「多言語コンピュータ」も、
そうしたTRONの理想の一つでした。そしてISOでは80年代末まで、TRON
が主張していた方向で「文字コードの多国語化」を実現すべく話し合いが進んでいた
のです。ところが90年代初頭、文字コードで理想的な国際規格がまとまりかけてい
たのを、アメリカの企業グループが強引な政治力で覆し、非英語文字の不利を残した
ユニコード規格を、無理矢理押し込むという事態が発生したのです。
こうした状況を危惧する人達の声に押されたのが坂村氏でした。全ての文字を表示
出来るコードの制定を・・・という彼の呼びかけは、多くの人に支持されながらも、
通産省の圧力によって、圧殺されてしまいました。
しかし坂村氏は諦めず、東大の改革の一環として始まった「マルチメディア研究会」
で、同様に文字コード問題を危惧する人文系研究者と協同で、多漢字コード作りのプ
ロジェクトを開始したのです。そして、同じ危惧を持つ作家達と連携して、ユニコー
ドの不備を訴え、大きな時代のうねりを産み出したのです。
こうして多くの期待の基に作られた多漢字コードを「B−right」に搭載した
パソコン用OSが「超漢字」です。漢字だけではなく「あらゆる文字を表示できる」
事を目標に、大きく売り上げを伸ばし、発売以来、多くの注目を集めています。
超漢字はパソコンOSとして、技術的には80年代に松下が開発したBTRONの
延長にあります。しかし、90年代にアメリカのIT企業が独占的地位を築いていた
頃、坂村研究室では、さらに高機能なBTRONのシステムの開発を続けていました。80
年代末に完成したTRONチップ向けに、32ビット版OSとして開発された「BT
RON2」は、B−rightを凌駕する優れた特性を持っていたといいます。そし
てそれを使い、実身・仮身の機能を発展させた「共有対話オブジェクト」という革新
的なアーキテクチャーが開発され、さらにその上で「VACL」というグラフィカル
なプログラム言語が実装されました。
残念ながらそれは製品化には至っていませんが、そうした研究の流れは現在「ネッ
トBTRON」という、実身・仮身のネットワーク型ファイル形式とインターネット
とを融合させる研究へと進んでいます。
そして既にその、実身・仮身とブラウザとの融合・・・という命題は一部「超漢字
サーバー」によって製品化されているのです。個人が持っているBTRONパソコン
の実身・仮身のリンクを使ったデスクトップ画面が、そのままHTML画面になって、
サーバーとして自由にデータを発信できる・・・。まさに「革命」です。
そうした革命の種は、まだTRONに多く眠っています。それをこの日本社会が、
いかに有効に活用できるか・・・。それこそが、この破壊された日本経済を再生する
大きな鍵を握っている事は、間違い無いのです。