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22 Sep 2013 17:24

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<山内氏死去>ゲーム産業歴史築く ファミコン「遊び」変え

毎日新聞 9月19日(木)21時46分配信

<山内氏死去>ゲーム産業歴史築く ファミコン「遊び」変え

任天堂の山内溥元社長=懸尾公治撮影

 19日に85歳で死去した任天堂前社長の山内溥さんの生涯は、ゲーム産業がたどってきた歴史と重なる。任天堂が発売した携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」や、据え置き型ゲーム機「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」は、子供の遊びやライフスタイルを大きく変えた。くしくも今年はファミコン発売から30年。近年はゲーム人気のお株をスマートフォン(多機能携帯電話)向けゲームに奪われつつあるが、山内さんが育てたゲーム文化の灯は消えることはない。

【写真特集】ファミコン発売30年 操作している子供だけでなく、他の子供たちも真剣な表情(1986年撮影)

 1949年に22歳で社長に就任した山内さんは、77年に任天堂初の家庭用ゲーム機「カラーテレビゲーム15」を発売。80年に発売した「ゲーム&ウオッチ」は一大ブームを巻き起こし、その後の任天堂のゲーム路線を決定づける原点となった。

 最大のヒット作は、83年7月に発売したファミコンだ。ゲームセンターでしか遊べなかったテレビゲームが家庭でも楽しめるようになった。ファミコンは発売後2年間で約5000万台が売れ、テレビゲームが一挙に子供の遊びの中心へと躍り出た。山内さんは後に「タイミングが良かった。それまでもテレビゲームはあったが、遊びたいと思える代物ではなかった。そこに格段に楽しく面白いものが現れた。ラッキーだったんでしょう」と語っている。

 次々と有力ソフトも誕生し、85年の「スーパーマリオブラザーズ」は、全世界で4000万本以上を売り上げ、「世界一売れたゲーム」としてギネスブックに登録されている。88年に「ドラゴンクエスト3」が発売されると、ソフトを手に入れるために「子供たちが学校を休んで行列した」とか、「徹夜でゲームに熱中する子供たち」などマスコミをにぎわせ、ファミコン人気は頂点に達した。

 89年には「ゲームボーイ」、90年に「スーパーファミコン」と、ゲーム機を立て続けに発売。96年のゲームボーイ用ソフト「ポケットモンスター赤・緑」の大ヒットで、ゲーム市場の拡大に大きく貢献した。

 ゲーム市場の広がりとともに、会社の業容も拡大した。ファミコン発売前の81年8月期の任天堂の連結売上高は239億円、最終(当期)利益が16億円にとどまっていたが、スーパーファミコン発売後の93年3月期には売上高は26倍の6346億円に、最終利益は55倍の886億円に成長した。

 しかし、このころからライバルメーカーが台頭。94年には、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)が家庭用ゲーム機「プレイステーション(PS)」でゲーム市場に参入。CD−ROMと3Dグラフィックスで業界に革命を起こし、任天堂から業界首位の座を奪い取った。松下電器産業(現パナソニック)も94年に「3DO REAL」で参入。セガも「メガドライブ」や「セガサターン」を発売した。

 「コンピューターはソフトがなければただの箱。ユーザーはより面白いソフトを求める。決め手はソフトなんです」。それでも山内さんはソフト重視の姿勢を貫き、盟主の座を奪い返す。

 01年に「ゲームキューブ」を発売。02年に社長に岩田聡氏を抜てきし、自らは経営の一線から退いたが、04年に「ニンテンドーDS」、06年に「Wii(ウィー)」と、ともに1億台以上を売り上げた大ヒット商品を発売。岩田社長は、最近も発売する商品名などを山内氏に相談していることを明らかにしたうえで、「私が商品の名付け親だとすると、相談役は商品のおじいさんのような関係。おじいさんにも名前は祝福してほしい」と述べていた。【宮崎泰宏、鈴木一也】

 ◇試行錯誤繰り返し、「ゲームの任天堂」へ

 19日死去した前任天堂社長の山内溥さん(85)は、老舗の花札メーカーだった任天堂を世界的なハイテク優良企業「ニンテンドー」に育て上げた立役者だ。しかし、その成長の過程は試行錯誤の連続だった。

 わずか22歳の若さで家業を継いだ山内さんは、「いつまでも花札とトランプに頼っていてはいけない」と、新事業参入を決意。しかし、最初に手がけた乾燥米に湯をかけて食べるインスタントライスは失敗。エレクトロニクス玩具の光線銃(1970年)も不良品続出だった。ボウリング場を転用するレーザークレー射撃システム(73年)も、オイルショックのあおりで成功しなかった。

 試行錯誤の果てにたどり着いたのが、家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」(83年)だった。市場には既にゲーム機が出回っていたが、「いかにハード本体の機能が高くても、ソフトが面白くなくては売れない」と考えた。ファミコンは、子供でも買えるように徹底的にコストを下げ、カセット交換でさまざまなソフトが動くようにした。ここから一世を風靡(ふうび)した「スーパーマリオブラザーズ」などのヒットソフトが登場し、「ゲームの任天堂」への脱皮に成功した。

 その後、参入企業が相次ぎ、ゲーム市場は年々拡大していった。しかし、山内さんは「面白くないソフトが増え、ゲーム市場は危機に瀕(ひん)している。任天堂は面白くないソフトは売らない」と警鐘を鳴らし続けてきた。その姿勢が、時には業界の“孤高の人”と映ることもあった。しかし、「消費者に楽しんでもらいたい」という原点にこだわり、自分が切り開いたゲームという新市場に、最後まで熱いまなざしを持ち続けた。

 74歳だった2002年には社長職を、当時42歳の若さの岩田聡さん(現社長)に譲り、世間を驚かせた。岩田さんは山内さんの期待に応え、任天堂をさらに発展させた。

 財界活動から距離を置き、独自の経営哲学を貫いたことから、村田製作所の創業者、村田昭さん(故人)やロームの創業者、佐藤研一郎さんとともに「京都の3大奇人」と呼ばれたことも。その一方で、京都大病院に私財の75億円を寄付し、10年に新病棟「積貞(せきてい)棟」を完成させた。元京大病院長の中村孝志・国立病院機構京都医療センター院長は「最先端の建物で、今後のがん研究の宝物になるだろう」と感謝を示した。

 また、任天堂の筆頭株主だったことから、米経済誌フォーブスで日本の富豪ランキングの上位に毎年選出された。【小林理】

最終更新:9月19日(木)22時51分

毎日新聞

 
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