内田茂氏の話はこう続く。
「世界的な科学者を輩出するためには、当初から進学校になることを目指さなければ意味がないと教育委員会内部の教員たちに力説したんです。ところがこれにはものすごい反対意見が続出しました」
市の教育委員会というのは人数の約半分は教師経験者(主に指導主事を担当)、残りの約半分は公務員という構成になっている。そこでの意思決定はこれまでの市立高校での経験や価値観が基準になることは当然のことだった。しかし、和田東大名誉教授が中心になって作り上げた新設校のコンセプト、つまり世界を変えるような科学者を産み出すという考えとは本質的な部分で異なっていた。
「いい生徒が来なければ科学者を産み出すというゴールは達成できませんよね。でも市立高校は優秀な生徒を集めるだけの競争力がない。それを示すデータを部下の教員たちに示したんです。」
内田氏は教育委員会内部の教員たちに対して、あらためて新設校のコンセプトを説明したうえで、これまでの価値観では、その目的を達成できないということを、具体的なデータを示して力説した。他の政令指定都市では市立高校に優秀な生徒が集まるのは当たり前の状況だ。京都市立堀川高校は京大合格者を毎年30~40人のレベルで輩出しているし、NHKドラマ『中学生日記』に登場する進学校・梅里高校のモデルでもある名古屋市立菊里高校は県内有数の難関高校である。これらの市と比較して横浜市立高校の人気ランクは決して高くはない。
ところが正論を述べたつもりのこのデータは教育者たちの思想論議を誘発した。
“理科が好きな生徒が誰でも入れるのが理想”
“ランクという考え方自体が、学習塾に見られる商業主義”
内田氏はこの状況を前に考えた。
「進学校を作るということについて、アレルギーのあまりの強さを目の当たりにして、これまでのような、自分が正しいと思うことを正面から伝えるやり方では教育委員会における合意形成は困難だと思いました」
そこで内田氏は方法論を変更する。ここからの彼の動き方は、アイデアを現実化するプロデューサーの技術として、われわれビジネスマンにとっても非常に参考になる。
内田氏は教育委員会内部ではないところに味方を形成することにした。最初のターゲットは科学者たち。工学系・理学系の大学関係者を中心に、日本の将来が心配だと考える科学者は多い。インド、中国では国を挙げて欧米の工学系大学での博士号取得者を増やしている。韓国は法律を変えてエリートを育てる中学校を釜山に作ったばかりだ。ところが日本ではエリート教育という言葉はタブーである。
東大を初めとする一流大学や、一流企業で働くトップランクの科学者たちには、日本のエリートの実力レベルが低下しつつある現状に対する危機感は強い。しかし彼らは同時に、自分達ではその現状をどう変えようもないということを認識している。そこで内田氏はこういった科学者たちを応援団として集めていったのだ。
和田東大名誉教授の人脈で、ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏、元東京大学総長で元文部大臣でもある有馬朗人氏、ノーベル化学賞受賞者のハロルド・クロトー教授らが、またナノテク分野での世界的科学者で神奈川科学技術アカデミー理事長でもある藤嶋昭氏らが計画に力を貸すことを確約してくれた。
彼ら5人は現在、横浜サイエンスフロンティア高校のスーパーアドバイザーとして高校教育に貢献してくれている。さらに、彼らに続く形で50人を超える大学・大学院や企業の研究者など外部専門家を「科学技術顧問」として高校教育に参加させることに成功した。
さらに内田氏の味方づくりは市議会へも拡がる。公務員としてのキャリアの中で市議会の担当をした時期が長かったこともあり、内田氏は92人いる市議会議員の多くと何らかのネットワークをもっていた。そういった人々をひとりひとり訪ねて協力を仰いだ。すると同じ問題意識を持つ議員がたくさんいることがわかり、協力者の輪が広がった。
そして議員のひとりにマスコミ出身者がいたことから、横浜サイエンスフロンティア高校の記事が科学技術系の雑誌に掲載される。これがきっかけとなり科学技術高校新設のニュースが全国のマスコミに取り上げられるようになる。
そして内田氏はもうひとつ、重要な応援団の形成に力を入れた。学習塾の関係者たちである。教育委員会の説得を一旦断念した段階で、内田氏は結果として優秀な生徒の集客に成功すれば、科学者を輩出する高校というアイデアは実現できると割り切った。では新設高校の集客に最も影響力のあるのは誰かというと、それは生徒を推薦してくれる学習塾にたどり着いたわけだ。
学習塾の関係者との話し合いを繰り返しながら、内田氏は学習塾が優秀な生徒に新設高校を薦めてくれるためには何が必要なのか、ユーザーニーズを把握し、それをひとつひとつつぶしていく。
まず校長の人事。神奈川県の学習塾関係者には「伝説の数学教師」として知らぬ者はいない佐藤春夫氏を校長に招聘し、その人事を通常よりも早く公表した。佐藤氏とは、設立まもない神奈川県立柏陽高校に着任し、東大・京大などの難関校へつぎつぎと合格者を送り出した実績を持つ名教師である。この人事で新設校に対する神奈川県内の受験産業の見方が変わった。
次に「新設校には伝統と実績がない」という学習塾の意見に耳を傾けた内田氏は、入学してくる生徒に対する「信用保証」の仕組みを作ろうと考えた。
具体的には高校としては珍しい大学や研究機関との「連携協定」である。理化学研究所とは研究者による講義、生徒の理研研究施設訪問、高校教員に対する研修といった協定を結んだ。理化学研究所が大学とは多くの協定を結んでいるが、高校と協定を結ぶのは初めてのことである。
さらに横浜市立大学とは協定を通じて卒業生の推薦枠を10人分確保した。実は横浜市立大の推薦枠は上位進学校でも5人分というのが上限であった。
「他が5人だから、横浜サイエンスフロンティア高校には10人の枠が欲しいとお願いしたんです。これが実現できた。だからこの高校に入学させる親にとっては実績や伝統とは違った安心が手に入ったんです」
内田茂氏の行動をプロデューサーの技術として分析してみよう。ユーザーニーズを把握してそれに応える。そのユーザーが誰なのかという点を内田氏は的確に見抜いた。学習塾の進路指導者であり、その先にいるのは中学校の生徒の親なのだ。彼らと対話し、ニーズを理解したうえでそこに手を打つ。そのことがこの後述べる、集客面での成果につながっていくのだ。
【講師:鈴木 貴博 氏】事業戦略コンサルタント。百年コンサルティング株式会社代表取締役。 東京大学工学部物理工学科卒。ボストンコンサルティンググループ、ネットイヤーグループ(東証マザーズ ...
鈴木 貴博すずき たかひろ
事業戦略コンサルタント。百年コンサルティング株式会社代表取締役。 東京大学工学部物理工学科卒。ボストンコンサルティンググループ、ネットイヤーグループ(東証マザーズ上場)を経て独立。 企 ...
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