twitterを読んでたら、「国歌にしろ」というトレンドがあって、思わず読んでしまった。くだらないけど面白かった。
元々は初音ミクの「千本桜」という歌があって、それがいいから国歌にしろとかいうムーブメントになってしまったみたいだが、twitterなのでさっそくそれのパロディーが出てくる。
曰く「国鉄115系を国歌にしろ→サハ115(モーターなし)だったので全員無言」とか「女々しくてを国歌にしろ→全員で『ドゥン!』」とかまあくだらないのだが、くだらないのが好きなので笑ってしまった。
もちろん笑ってる人ばかりではなく「君が代をバカにしとんのか」的な意見もあった。まあtwitterとかは面白くてなんぼなので、あまり真面目な意見は通らないが、せっかくこんな機会なので、ちょっとはまじめに考えようと思う。
私が育った環境は「なんとなく日の丸と君が代がある」ようなものであった。戦中でもなく戦後の学生紛争の時期でもなく、「しらけ世代」とも言われた私は、別に日の丸に火をつけるようなこともなく、かといって愛国心を育む訳ではなく、何となく一緒に育った感がある。
「はだしのゲン」とかを見て、狭窄な愛国心は危険だなとは子供心に思ったが、別に行動に移したりはしなかった。
それが変わったのは大学に入ってからだろうか。内と外で変化があった。内の部分は大学の寮に入ったこと。当時でもまだその寮は学生運動の機運が残っており、右翼と左翼でよなよな議論している環境であった。学生運動というとどうしても左翼が多いが、私もどちらかというと左っぽかったかな。
外の変化は「日の丸・君が代の教育現場への強制」であった。日教組が事実上崩壊し、教育現場は校長の権限強化のもと、思想管制が強化された。子供の頃は「君が代を歌いたくない人は歌わなくてもいい」感じであったが、歌わないとか起立しないことがもう罰則を伴うものになった。
強制される、となると私のようなひねくれものは極端に嫌がるものである。当時の私は日の丸と君が代に強烈なアレルギーを感じた。それ以来日の丸を掲げるような場所にはあまり行かないようになった。大学の卒業式も行かずじまい。けたくそ悪かった。
その後も世の中は右傾化といえばいいのだろうか、思想強制路線をひた走る。日の丸を国旗、君が代を国歌とする法案が可決されると、全国の教育現場で君が代を歌わない教員への処罰が始まった。よく右翼を「保守」とかいうが、何を守っているのか私には分からない。守っていたのは教員の方じゃないか。
そんなこんなで私は今でも日の丸・君が代を愛するには至っていない。学生時代より人間的に少しは丸くなったので、「右は右で、左は左で好きにすれば」的なところであろうか。
まあ私の話はいいや。その後の世の中である。戦中は国を挙げて聖戦に突っ走ったが、敗戦に終わり、その反省と当時のアメリカの思惑をあわせて、平和憲法なるものが出来たはずである。当時の軍部の中心人物はA級戦犯として死刑になり、すべては清算されたようにみえた。
そうならなかったのが、日の丸と君が代、そして天皇制である。あれれ、戦時中は天皇のために殺したり死んだりするのが究極に美化されたのに、なんでそのまま残ってるんだ?
もちろん裏事情としてはポツダム宣言受諾に当たっての、駆け引きがあったのだろう。天皇だけは生かしておいてくれという交換条件がなされたのは想像に難くない。
別に今の世の中で「天皇制を廃止しろ」とか言いはしない。私ももう歳だし、敵も十分作った。今では「天皇陛下が軽井沢に来る」とか聞くと、どこに行くのかな〜と思うくらいである。
だ、が、し、か、し。
この「未清算のつけ」は今を持って日本人の愛国心の育成を阻む最大の要因となっている気がする。戦時中の「天皇を崇めて、どこの国の人でも殺して回る日本」は、外から見る限り何も清算されていない。変わったという証拠が見受けられない。内側から見てもそう。日の丸を掲げろ君が代を歌え天皇を崇めろという思想統制は、日を増すごとに国民に暗い影を落としながらのしかかっていくばかりである。ちょっとこの国を愛するって思ったり、他の国の人々に言うのはリスキーな気さえする。
平和憲法もだいぶ骨抜きにされてきた。橋下某の動き次第では、今の衆院の勢力図でも改憲は可能になるだろう。まあ、その「平和」憲法すらも、人殺し大国のアメリカに下賜されたものに過ぎないのだが。
近隣の他国といざこざが起きるたびに、私の中でゆらぎが生じる。たぶん私の中では一生消えないものだろう。
状況を救うのは「考える」人間の育成だと思う。与えられた、ましてや押し付けられた思想ではなく、自分で考えてその上で身に付いた信念をまとって、歩ける人材作りが必要だと考える。
今の国はそれを一番嫌がっているし、恐れている。円周率は「3」でいいし、君が代は無条件で歌わせる。操られた教育の最後に咲くのは「考えない人間」である。今の日本にぴったり。
何の信念もなく、教科書は鵜呑みにし、日経を読んでは新しい単語に飛びつき、選挙は好きな人間に入れる。右翼でも左翼でもないフォーマット済みの空虚な人間を量産することが、今の世の中という工場の産物であろう。
思想は与えられるものではなく、自分の中で時間をかけて育むものである。既存の思想は自分の思想を育むヒントにはなるが、それ自体は枯れた木であってもう花は咲かない。同じことの繰り返しと笑う奴はいるだろうが、自分で種をまいて水をやって咲かさないと、自分のものにはならない。
自分の子供がどんな思想にたどり着こうが別に構わない。ただそれを自分のものと胸を張って生きられるように、きちんと考えに考え抜いた上で、モノにしてほしい。ただそれだけを望む。