2011年 02月 14日
”桑港のチャイナタウン” サンフランシスコ(1) |
はじめて、「サンフランシスコ」という名前を耳にしたのは、いつのことだったか…
小学校の「社会」の授業で、アメリカの都市名のいくつかを覚えたようにも思うし、あるいは、子どものころ、家のラジオから流れていた(はずの)、こんな歌を耳にして、その街の名前が記憶されたのかもしれません。
「桑港のチャイナ街」(歌:渡辺はま子 作詞:佐伯孝夫 作曲:佐々木俊一)
桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン 夜霧に濡れて
夢紅く誰を待つ 柳の小窓
泣いている 泣いている
おぼろな瞳 花やさし霧の街
チャイナタウンの 恋の夜
桑港のチャイナタウン ランタン燃えて
泪顔ほつれ髪 翡翠の篭よ
忘らりょか 忘らりょか
蘭麝(らんじゃ)のかおり 君やさし夢の街
チャイナタウンの 恋の夜
桑港のチャイナタウン 黄金門湾の
君と見る白い船 旅路は遠い
懐しや 懐しや
故郷の夢よ 月やさし 丘の街
チャイナタウンの 恋の夜
渡辺はま子という歌手(1910-1990)には、「支那(シナ)の夜」(1938年)、「蘇州夜曲」(1940年)など、日本が中国を侵略していた時代に、ヒットした歌があります。戦争中に、中国戦線で慰問活動にたずさわっていた渡辺さんは、天津で敗戦をむかえ、その後、一年にわたり、捕虜収容所生活を送ったそうです。
私の父も、敗戦後、中国で2年ちかい捕虜生活を過ごしていました(死後に知ったのです)。いま思えば、父がラジオやテレビで、渡辺さんの歌を聴いていたとき、ただ「懐かしさ」だけではない、そこからこぼれる思いもまたあったことでしょう。遅すぎるとしても、ようやくそんなことも想像できるようになりました。
さて、この「桑港のチャイナ街」が発表されたのは、1950年11月のことです。
1950年に、どうして「サンフランシスコ」だったのでしょうか。
私のたんなる推測にすぎませんが…
1951年に、敗戦国日本は、講和条約を連合国と、サンフランシスコで締結し、ふたたび独立国家として国際社会に復帰します(サンフランシスコ平和条約、沖縄、奄美はのぞく)。
この「一大政治的イベント」へむけた、事前のキャンペーンが、当時、占領軍(GHQ)の対日文化政策として、さまざまに展開されていた。アメリカ合衆国にたいする融和的な感情を、日本社会につくり出していく…そんなキャンペーンのひとつとしてもあったのではないかと、思うのです。
ちょうどこの曲が発表されたころ、「中華人民共和国」が成立し(1949年)、朝鮮半島では激戦がくり返されていました(1950年6月〜)。
そんな時期でもありました。
カリフォルニア北部のサンフランシスコ(周辺)は、日系人の多い地域です。また、横浜や神戸からのアメリカ航路は、ホノルルに寄港したのち、本土のサンフランシスコに入港します。アメリカ上陸の地です(もうひとつの航路は、シアトル航路。シアトルは、私の住む街、神戸の姉妹都市です)。つまり、日本との歴史的な「接点」となってきた街だから、「ニューヨーク」とかも有名だったかもしれませんが、たとえば親戚がカリフォルニアにいるとか、外国航路の船員さんから話を聞いたとか、歌としてのリアリティをもたせるには、「サンフランシスコ」のほうが、その当時は、よかったのかもしれません。カップリング曲が、同じ作詞家作曲家の作品で「ハワイ航空便」となっているのも、おなじ文脈で考えれば、納得できます。
そして、そのサンフランシスコで、講和条約の調印がおこなわれる。
いつもの、長い前置きになってしまいましたが、私は、1978年(ころ?)に、サンフランシスコにいた知り合いのアパートに転がり込んで、ひと月くらい暮らした(遊んでいた)ことがあります。
短い期間でしたが、その街をとても好きになりました。
平凡な言い方ですが、「自由」というものを肌で感じた…そんな話を、次回に、ちょっとしてみたいと思っています。
「桑港のチャイナ街」に、話を戻します。
「桑港」は、サンフランシスコの音訳「桑方西斯哥」の「桑」に、「港」を加えたものらしいです。
一番の歌詞にある、「夜霧」「霧の街」についても、触れておきます。
下の、サンフランシスコの航空写真を見てください。

写真中央に、北へのびた半島が見えますね。
半島の左側が、太平洋、右側がサンフランシスコ湾です。
半島の先端から北へつながっている橋が、ゴールデンゲートブリッジ(金門橋)です。
太平洋をこえてきた船は(堀江謙一さんの小さなヨットも)、この橋の下をくぐって、半島の先端右側部分(湾内側)にあるサンフランシスコ港に入るわけです。
サンフランシスコに霧が多いわけは、開口部が狭くなっている湾の形状のため、つまり太平洋から細い湾口部をとおって湾内へと勢いよく入ってくる冷たい空気の流れがつくり出すものらしいです。
ひと月くらいいると、ちょうど霧のよく出るという夏でもあったし(温度差が生じやすい?)、街があっというまに霧に包まれる、霧のかたまりがむこうからずんずんと近づいてきて、そのなかに包まれる、そんな幻想的な光景をなんども体験しました。
生活者には迷惑なことかもしれませんが、旅行者にはうっとりする、ひとときでした。
昼でも、車がライトをつけて走らないといけないくらいに、霧が深いときもあります。
ちなみに、航空写真にみえる市街地から右上のほう(北東方向)に伸びるもうひとつの橋は、(サンフランシスコ)ベイブリッジ。湾をへだててオークランドにつながっています。オークランドといえば、60年代、「ブラックパンサー党」の本拠があったところです。橋には、車道と電車(地下鉄)軌道が走っています(← この部分の記述はあやまり、電車は海底トンネルを走行しています。すみませんでした)。
さて、歌詞の三番…
「丘の街」。もちろん、ケーブルーカーのある「坂の街」として有名ですね。
「懐かしや 懐かしや 故郷の夢…」の、「故郷」とは、どこのことでしょうか?
外国航路の船員である主人公が、チャイナタウンで出会った女性との忘れられない思い出を、現在から回想しているとともに、その昔、ふたりでゴールデンゲートブリッジから外洋へと出てゆく船を見送りながら、その船がめざす先にある、それぞれの「故郷」(故国)を思い浮かべ回想しているように、思えます。
二重の回想(現在の回想、過去の回想)が仕組まれた歌の内容、視点が現在と過去のあいだを往き来している…仮にそうだとしたら、なかなか凝っていますよね。
曲調は、渡辺はま子さんの一連の「中国もの」につながっている点で、「サンフランシスコのチャイナタウン」という言葉のひびきとイメージをなかだちにして、日本社会の戦争期(中国)と戦後期(米国)とを橋渡ししている歌謡のようにも感じました。
*うえの文を書いたあとで、「渡辺はま子」をウィキペディアで検索すると、
1950年(昭和25年)、敗戦後初めての日本人の芸能使節団として、小唄勝太郎、三味線けい子らと共に、祖父の眠るアメリカ各地を公演。移民の日本人らからも好評を得る。帰国後は、古巣のビクターに移籍し、「火の鳥」「桑港のチャイナタウン」など後に代表曲となるヒット曲を出す。
と、出ていました。
うえに書いた私の「推測」は、そんなに大きく外れてはいないかな(だったら、いいんですが)。
小学校の「社会」の授業で、アメリカの都市名のいくつかを覚えたようにも思うし、あるいは、子どものころ、家のラジオから流れていた(はずの)、こんな歌を耳にして、その街の名前が記憶されたのかもしれません。
「桑港のチャイナ街」(歌:渡辺はま子 作詞:佐伯孝夫 作曲:佐々木俊一)
桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン 夜霧に濡れて
夢紅く誰を待つ 柳の小窓
泣いている 泣いている
おぼろな瞳 花やさし霧の街
チャイナタウンの 恋の夜
桑港のチャイナタウン ランタン燃えて
泪顔ほつれ髪 翡翠の篭よ
忘らりょか 忘らりょか
蘭麝(らんじゃ)のかおり 君やさし夢の街
チャイナタウンの 恋の夜
桑港のチャイナタウン 黄金門湾の
君と見る白い船 旅路は遠い
懐しや 懐しや
故郷の夢よ 月やさし 丘の街
チャイナタウンの 恋の夜
渡辺はま子という歌手(1910-1990)には、「支那(シナ)の夜」(1938年)、「蘇州夜曲」(1940年)など、日本が中国を侵略していた時代に、ヒットした歌があります。戦争中に、中国戦線で慰問活動にたずさわっていた渡辺さんは、天津で敗戦をむかえ、その後、一年にわたり、捕虜収容所生活を送ったそうです。
私の父も、敗戦後、中国で2年ちかい捕虜生活を過ごしていました(死後に知ったのです)。いま思えば、父がラジオやテレビで、渡辺さんの歌を聴いていたとき、ただ「懐かしさ」だけではない、そこからこぼれる思いもまたあったことでしょう。遅すぎるとしても、ようやくそんなことも想像できるようになりました。
さて、この「桑港のチャイナ街」が発表されたのは、1950年11月のことです。
1950年に、どうして「サンフランシスコ」だったのでしょうか。
私のたんなる推測にすぎませんが…
1951年に、敗戦国日本は、講和条約を連合国と、サンフランシスコで締結し、ふたたび独立国家として国際社会に復帰します(サンフランシスコ平和条約、沖縄、奄美はのぞく)。
この「一大政治的イベント」へむけた、事前のキャンペーンが、当時、占領軍(GHQ)の対日文化政策として、さまざまに展開されていた。アメリカ合衆国にたいする融和的な感情を、日本社会につくり出していく…そんなキャンペーンのひとつとしてもあったのではないかと、思うのです。
ちょうどこの曲が発表されたころ、「中華人民共和国」が成立し(1949年)、朝鮮半島では激戦がくり返されていました(1950年6月〜)。
そんな時期でもありました。
カリフォルニア北部のサンフランシスコ(周辺)は、日系人の多い地域です。また、横浜や神戸からのアメリカ航路は、ホノルルに寄港したのち、本土のサンフランシスコに入港します。アメリカ上陸の地です(もうひとつの航路は、シアトル航路。シアトルは、私の住む街、神戸の姉妹都市です)。つまり、日本との歴史的な「接点」となってきた街だから、「ニューヨーク」とかも有名だったかもしれませんが、たとえば親戚がカリフォルニアにいるとか、外国航路の船員さんから話を聞いたとか、歌としてのリアリティをもたせるには、「サンフランシスコ」のほうが、その当時は、よかったのかもしれません。カップリング曲が、同じ作詞家作曲家の作品で「ハワイ航空便」となっているのも、おなじ文脈で考えれば、納得できます。
そして、そのサンフランシスコで、講和条約の調印がおこなわれる。
いつもの、長い前置きになってしまいましたが、私は、1978年(ころ?)に、サンフランシスコにいた知り合いのアパートに転がり込んで、ひと月くらい暮らした(遊んでいた)ことがあります。
短い期間でしたが、その街をとても好きになりました。
平凡な言い方ですが、「自由」というものを肌で感じた…そんな話を、次回に、ちょっとしてみたいと思っています。
「桑港のチャイナ街」に、話を戻します。
「桑港」は、サンフランシスコの音訳「桑方西斯哥」の「桑」に、「港」を加えたものらしいです。
一番の歌詞にある、「夜霧」「霧の街」についても、触れておきます。
下の、サンフランシスコの航空写真を見てください。
写真中央に、北へのびた半島が見えますね。
半島の左側が、太平洋、右側がサンフランシスコ湾です。
半島の先端から北へつながっている橋が、ゴールデンゲートブリッジ(金門橋)です。
太平洋をこえてきた船は(堀江謙一さんの小さなヨットも)、この橋の下をくぐって、半島の先端右側部分(湾内側)にあるサンフランシスコ港に入るわけです。
サンフランシスコに霧が多いわけは、開口部が狭くなっている湾の形状のため、つまり太平洋から細い湾口部をとおって湾内へと勢いよく入ってくる冷たい空気の流れがつくり出すものらしいです。
ひと月くらいいると、ちょうど霧のよく出るという夏でもあったし(温度差が生じやすい?)、街があっというまに霧に包まれる、霧のかたまりがむこうからずんずんと近づいてきて、そのなかに包まれる、そんな幻想的な光景をなんども体験しました。
生活者には迷惑なことかもしれませんが、旅行者にはうっとりする、ひとときでした。
昼でも、車がライトをつけて走らないといけないくらいに、霧が深いときもあります。
ちなみに、航空写真にみえる市街地から右上のほう(北東方向)に伸びるもうひとつの橋は、(サンフランシスコ)ベイブリッジ。湾をへだててオークランドにつながっています。オークランドといえば、60年代、「ブラックパンサー党」の本拠があったところです。橋には、車道と電車(地下鉄)軌道が走っています(← この部分の記述はあやまり、電車は海底トンネルを走行しています。すみませんでした)。
さて、歌詞の三番…
「丘の街」。もちろん、ケーブルーカーのある「坂の街」として有名ですね。
「懐かしや 懐かしや 故郷の夢…」の、「故郷」とは、どこのことでしょうか?
外国航路の船員である主人公が、チャイナタウンで出会った女性との忘れられない思い出を、現在から回想しているとともに、その昔、ふたりでゴールデンゲートブリッジから外洋へと出てゆく船を見送りながら、その船がめざす先にある、それぞれの「故郷」(故国)を思い浮かべ回想しているように、思えます。
二重の回想(現在の回想、過去の回想)が仕組まれた歌の内容、視点が現在と過去のあいだを往き来している…仮にそうだとしたら、なかなか凝っていますよね。
曲調は、渡辺はま子さんの一連の「中国もの」につながっている点で、「サンフランシスコのチャイナタウン」という言葉のひびきとイメージをなかだちにして、日本社会の戦争期(中国)と戦後期(米国)とを橋渡ししている歌謡のようにも感じました。
*うえの文を書いたあとで、「渡辺はま子」をウィキペディアで検索すると、
1950年(昭和25年)、敗戦後初めての日本人の芸能使節団として、小唄勝太郎、三味線けい子らと共に、祖父の眠るアメリカ各地を公演。移民の日本人らからも好評を得る。帰国後は、古巣のビクターに移籍し、「火の鳥」「桑港のチャイナタウン」など後に代表曲となるヒット曲を出す。
と、出ていました。
うえに書いた私の「推測」は、そんなに大きく外れてはいないかな(だったら、いいんですが)。
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