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「かごめかごめ」の真相にせまる

ヘブライ語で古代日本の文献を解読していくにあたり、読者からのリクエストで一番多く見受けられるのが「カゴメの歌」です。この古代童謡にまつわる逸話は枚挙に暇がなく、テレビ等でもその不思議な背景が話題として取り上げられています。確かに「カゴメの歌」の歌詞は不可解であり、「夜明けの晩」「鶴と亀」「後ろの正面」等、奇妙な表現が含まれています。しかし言葉の意味が不透明であるにも関わらず、「カゴメの歌」は昔から日本の学校教育にも取り入れられ、大勢の人に親しまれてきました。このような不可解な歌詞が、長い歴史の中で何ら問題視されずに歌われ続けてきたことに、驚きを隠せません。そこに、この歌の秘められたパワーを感じることができます。

また、「カゴメの歌」と、イスラエルの史実を関連付けた話題にも事欠きません。イスラエル国旗に描かれているダビデの紋とカゴメ印は、双方とも三角形を2重に重ねた六芒星ですが、これは単なる偶然の一致でしょうか。カゴメ印の由来には定説がなく、一説には籠目(カゴメ)が六角形の形であり、さらに亀(カメ)の甲羅模様も六角形であるため、これらが原型となり、最終的に六芒星の形になったと言われています。しかし、特異な形状の印をダビデの紋と共有するだけに、イスラエルにそのルーツがあるという見解も説得力があります。さらに「籠の中の鳥」という表現が、モーセの時代に作られた「契約の箱」、聖櫃を意味しているという説もあります。その箱の中には、聖なる神の息吹によって書かれた十戒の板が保管され、箱の上にはケルビムと呼ばれる鳥の形をした護り神が2羽、向き合って聖なる箱を守護したことが聖書に書かれています。そこに「カゴメの歌」との類似点を見出すことができるというのです。

ところがこれだけ多く、「カゴメの歌」とイスラエルとの関連説が囁かれ、その共通点が指摘される中で、実際に「カゴメの歌」をヘブライ語で解読し、そこに書かれている意味を原語で理解した上で、その真相に迫ろうとする記述を見かけたことがありません。もし、「カゴメの歌」の背景にイスラエルとの関連性があるとするならば、その歌詞をヘブライ語で解釈できる可能性があるはずです。そこで、ヘブライ語の辞書を片手に、日本語の発音を基点として、ヘブライ語で同等、もしくは類似した発音を持つ言葉の繋がりを探り、その根底にあるヘブライ語の文脈を見極めることにしました。こうして、ごく自然な言葉の繋がりに着目しつつ解読作業を進めた結果、確かに「カゴメの歌」の歌詞はヘブライ語で記載され、それをきちんと解読することができることがわかったのです。そこには当初、まったく想像もしてなかった衝撃のメッセージが含まれていたのです。

カゴメとは「囲む」を意味するヘブライ語

「かごめかごめ」と手をつないで歌いながら、目をふさいでしゃがんでいるお友達の周りを歩きまわり、最後に「後ろの正面、だーれ?」と歌って、後ろにいる人の名前を言い当てさせる遊びを覚えているでしょうか。鬼に選ばれた友達を囲むというこの遊びから、「かごめ」の語源は、「囲む」ではないかという説も生まれました。「囲む」の命令形にあたる「かこめ」は中世の時代、「かごむ」と濁音が入ることもあったことから、後に「カゴメ」と発音されるようになったと推測する訳です。

しかし、歌のタイトルでもある「カゴメ」の意味をヘブライ語で見極めると、実際はその逆で、「囲め」という言葉の語源がヘブライ語の「カゴメ」だったことがわかります。まず、歌全体のモチーフとその流れを理解する上で大事です。「カゴメ」は「囲む」、「護衛する」を意味するkhagor、カゴ(khagor、カゴ)、および「誰」「何」を意味するmi、メー(mi、メー)という、二つの言葉から構成されています。発音は合わせて「カゴメー」となり、「カゴメ」とほぼ同一の発音です。すると「カゴメ」の意味は直訳では、「囲むのは誰?」「誰が守るのか?」となります。「カゴメ」という言葉はヘブライ語で、何か大切なものを護衛したり、それを塞いだり、隠蔽する働きに関連するメッセージに結びついていたのです。

昔から子供達が「カゴメの歌」を歌う時、みんなで手をつないで輪になったのも、もしかして、大切な何かを「囲む」という意識が、芽生えた結果なのかもしれません。そして子供遊戯の要点は、鬼を子供たちが「囲む」ことであり、それが誰であるかを言い当てることです。まさに「カゴメ」とは、「誰が囲むのか?」「誰が守るのか」という意味だったのです。

「カゴメ」遊戯のもう一つの大切なポイントは、囲まれている鬼の姿です。目隠しされて目が見えなくなってしまう鬼は、囲まれて守られているものが、いつしか見えなくなってしまうことを象徴しているとは考えられないでしょうか。また、鬼は神仏に関わる存在ですから、鬼が目隠しされる姿は神格化された大切なものが隠されてしまうという、一種の神隠しのような状態を象徴した演技だったのかもしれません。「カゴメ」の言葉の意味はヘブライ語で明確に理解することができることからしても、この目隠しの遊びの原点は、大切なものが囲まれて隠されてしまう、すなわち、イスラエルの国宝である「契約の箱」が、隠されてしまうことを象徴したものであった可能性があります。

驚くことに、カゴメカゴメをヘブライ語で読み続けると、この解釈が意外と現実味を帯びてくるのです。カゴメの歌詞では、「カゴメ」と繰り返し歌った後、「籠の中の鳥」が「いついつ出会う」と歌われます。この言葉からは、2羽の鳥の存在が浮かびあがり、また「籠の中」という表現からは、何かが「囲まれ」、「封じ込め」られているような気配を察することができます。この2羽の鳥こそ、契約の箱の上に飾られたケルビムと呼ばれる鳥の形をした2体の守護神を指していると考えられます。そして「いついつ出会う」とは、隠された契約の箱の場所が明らかにされ、2羽のケルビムが再び現れる日を待ち遠しく思って歌ったとは考えられないでしょうか。早速、ヘブライ語の力を借りて、歌詞を原語で読み続けてみました。

「籠の中の」は「カゴ・ノ・ナカ・ノ」という4つのヘブライ語で形成された言葉です。まず「籠の」は、「囲まれた」、「守護された」を意味するkhagor、カグ(khagor、カグ)に、「鍵をかけられた」または「閉じ込められた」を意味するnoel、ノェ(noel、ノェ)を合わせた言葉です。合わせて「カグノェ」となり、「封じられ囲まれる」ことを意味します。そして「ナカノ」は、「置かれた」、または「そこにあった」を意味するnakh、ナカ(nakh、ナカ)に、「ノェ」の語尾を足して、「閉ざされて安置された」を意味します。つまり、「籠の中の」はヘブライ語で、「封印して守護され、閉ざされ安置される」と解釈できます。これはまさに、契約の箱の中に封印された神器を指しているのでしょう。

続く「鳥」は、torid、トリー(torid、トリー)というヘブライ語が語源であり、「取り外す」の意味です。この言葉には強い命令形としての意味合いがあり、「取り外せ!」「下ろせ!」という思いが込められています。すると、「籠の中の鳥は」の意味が、ヘブライ語で明確に浮かびあがってきます。それは、「堅固に封じられ、安置されているものを取り出せ!」という意味だったのです。何故、それまで大切に囲まれて安置されてきた大切なもの、聖なる神宝を取り出す必要があったのでしょうか。いよいよカゴメの真相が解明される時がきました。

古代エジプトのピラミッドにまつわるさまざまな発掘現場を検証すると、当時から墓泥棒が横行していたことがわかります。そして埋葬品だけでなく、ミイラまで盗まれることもありました。その対策として古代ピラミッドの管理者は、ピラミッド内の墓室から離れたまったく別の場所に墓を隔離したりしながら、盗難の危険からミイラと埋蔵品を守ったのです。いつの日でも、高価な宝物や埋葬品は、常に盗難の危機にさらされていたのでしょう。

同様に高価な神宝や貴重な神器も、墓泥棒の標的となったはずです。そのため契約の箱の管理者は、いつの日も大切な神器が盗まれないよう、それを上手に隠すことを急務とし、時には本物と偽物を巧みにすり替えて、神器を密かに温存したと考えられます。こうして、古代日本社会に持ち込まれたイスラエルの神宝は、いつの間にか本物が秘蔵場所から取り出され、それに代わって偽物に置き換えられたと考えられるのです。そして、その後は、あたかも偽物が本物の神器であるかのように取り扱われたのです。このような古代史における、神宝の隠蔽作業について、その事実をほのめかすように歌ったのが「カゴメ」の歌と考えられるのです。

しかし、そこには一つの重大な問題が存在しました。それは、聖なるご神体に一体誰が、手をかけるのかということです。聖書にも書かれている通り、ご神仏に触れることは危険極まりなく、実際に触った人は神の怒りに触れて死去したことが記載されています。その思いが「カゴメ、カゴメ」に込められているのです。誰も触れることができない聖なるご神体を、一体誰が守り、取り出して移動し、再び温存するために隠すのか、ということです。これが「カゴメ」本来の主旨であり、その想いが、原語であるヘブライ語の「誰が守るのか?」「誰が守護するのか?」という意味の言葉に込められていたのです。

次に続く「いついつ出会う」という歌詞からも、確かに「カゴメ」が神器のすり替えや隠ぺいについて語られた歌であり、その神器が「契約の箱」の中に収められていたことを理解することができます。「いつ」は、ヘブライ語で「置かれた」「収められた」を意味するhitsiv、イツィ(hitsiv、イツィ)であり、「出会う」は、収納庫、家を意味するdiyur、ディユゥー(diyur、ディユゥー)です。二つの言葉を合わせると、「箱に収納された」という意味になります。これこそまさに、「カゴメ」が「契約の箱」について歌っていることの証に他ならず、その中には大切な神宝が保管されていたと推測できます。それ故、その神宝を取り出して、別の場所に保存することを伝えんがため、「カゴメ、カゴメ、籠の中の鳥はいついつ出会う」とヘブライ語で歌ったのです。それは、「契約の箱に収められ、封じられてこれまで安置されてきた神器を取り出せ!」という意味だったのです。

さらに驚くことに、神器がその歌詞の通りに確かにすり替えられたことが、その後に続く歌詞に書かれていたのです。「夜明け」は、ya、ヤ(ya、ヤ)、akar、アカ(akar、アカ)、というふたつのヘブライ語が合体した言葉で「ヤ」は神、「アカ」は「取り除く」を意味することから、「神(器)を取り除く」ことを意味します。次に「晩に鶴と亀がすべった」を解読してみましょう。「晩に」は、ヘブライ語で「造る」を意味するbaniti、バニティ(baniti、バニティ)が多少訛った言葉です。では一体、何を造ったのでしょうか。答えが「鶴と亀」です。「鶴と」はヘブライ語のtsurat、ツルト(tsurat、ツルト)であり、「〜の形をした」を意味します。「亀」は「お守りを意味する」kamea、カメ(kamea、カメ)であり、合わせて「お守りの形をした」という意味になります。さらに「すーべった」はsubsidya、スーベシーダ(subsidya、スーベシーダ)が原語であり、このヘブライ語は元来、「補助的」を意味することから、本物を補助する、つまり差し替えるために造ったお守りを指していると考えられます。「夜明けの晩に鶴と亀が滑った」とは、「神器を取り除き、代わりにお守りの形をしたものを造った」という、「ユダヤの秘宝」の行く末に関わる貴重な証言だったのです。ここに、本物の神宝が取り出されて偽物とすり替えられていた、という根拠を見出すことができます。

「かごめかごめ」の歌でも、一番不可解な歌詞が「後ろの正面、誰?」という文言です。誰もが知っている歌詞でありながら、理解に苦しむ表現ではないでしょうか。そのまま読むと、後部と正面とが相まみえた支離滅裂な表現であるようにしか考えられないため、この歌詞の解釈についてはさまざまな憶測が飛び交っています。鬼の真後ろに誰がいるかを言い当てるための児童遊戯の歌詞であるとか、目には見えない現世と神の世界の通り道、もしくは死刑囚の脱獄を助けることを意味する言葉であるとか、お寺の正面の後ろに葬られた人物を指すとか、あげくの果てには遊女の次の相手を意味するだの、その解釈はさまざまでありますが、どれも納得のいくものではありません。

「後ろの正面、誰?」も、これまでと同様にヘブライ語に置き換えて読むことにより、その言葉の意味だけでなく、文脈の全体の流れまでも明確に理解することができます。しかもこの言葉は、この歌のメインテーマであるイスラエルの「神器」の行く末について、明確に語っていたのです。前文の歌詞においては、イスラエルの契約の箱に収納された「神器」が、お守りと差し替えられたことが言及されていますが、その締めくくりとして「後ろの正面、誰?」と歌い、取り去られた「神器」がその後、どこへ持ち運ばれたのか、という謎を解くヒントを、この言葉の中に収めたのです。

まず「後ろの」は、ヘブライ語のhushlat、ウーシラッ(hushlat、ウーシラッ)であり、これは場所や物に対して、主権や統治権が与えられることを意味する言葉です。次に「正面、誰?」の「正面」は、ヘブライ語でshomen、ショーメン(shomen、ショーメン)と書き、人の住まない僻地や荒地を指します。また「誰?」は、ヘブライ語のdalaha、ダラ(dalaha、ダラ)と考えられ、この言葉は「水を引いてくる」ことを意味します。つまり「正面、誰」という言葉は、ヘブライ語で「人が住まない荒地に水を引く」となります。そこに接頭語として「後ろの」を合わせて解釈すると、「誰も住むことのない荒地に十分な水を引いて貯水し、その場所を(聖地として)統治せよ」という意味になります。

契約の箱に安置されていた「神器」がどこに移されたのか、その行方について「かごめかごめ」の歌詞がヘブライ語で物語っていたことがわかりました。大切な「神器」は泥棒に盗まれることのないよう、エジプトのミイラや秘宝と同様に中身がすり替えられ、人気のない荒地へと移動されることになりました。そこは元来、水さえもない、寂れた僻地でしたが、水を引いて貯水池を造ることにより、「神器」を移設して密かに保管する場所の目印としたのでしょう。また、神宝を長年温存するためには、湿気から保護することが大切です。よって、神宝の保存場所は水源からは離れた水はけの良い場所にあり、湿気から神宝を守ると同時に大雨の際でも、水が溜まることなくその場所から流れ出すような構造になっていたに違いありません。そして神宝周辺は、風穴などを駆使して風通しの良い環境を設けたと考えられます。こうして、一見、荒れ果てたように見える土地であっても、そこに神の象徴である「神器」が安置され、聖なる場所となったことが、ヘブライ語で証言されていたのです。

この歌詞の意味は重大です。それは、世界中で多くの人が関心を持ち続けてきた「契約の箱」が日本に持ち込まれたことを示唆しているだけでなく、その中に保管されていた「神の神器」が、外部からの侵略や盗難の被害を受けないように密に持ち出され、日本のどこか、人のよりつかない寂しい場所に隠されてしまったことを物語っています。世界が注目すべきユダヤの象徴である「神の契約の箱」の到達点が日本であり、その中に秘蔵された「神器」が今でも日本のどこかに安置されている事実を歌ったのが、「かごめかごめ」だったのです。

「かごめかごめ」をヘブライ語で訳すと、その全容は、「誰が守るのか? 誰が契約の箱に安置されている神器を取り出すのか? それを取り除き、お守りと差し替えよ。そして誰もいない荒地に水を引き、そこを聖地として支配せよ」となります。この歌のメインテーマは「神器を守ること」です。そのために、「荒地に水を引いて」新たなる聖地を造るのですが、この一見不可解な文脈に、作者の真相を解き明かす重大な鍵が秘められています。

「荒地に水を引く」という表現は、旧約聖書において、神の祝福が再び訪れることを意味します。さらにイザヤ書には「城壁の間に水溜めを造り、古い池の水を入れた」という記述だけでなく、「高い丘の上に水路が造られて水を運ぶ」ことや、「水のない地を流れる水路」、「不毛の高原に大河を開く」という表現等、山の上に水路を造成して貯水する記述が、見受けられます。これらに共通するキーポイントは、不毛の山地に水を引くことによって「荒れ野が園」になり、「花が咲く」聖地となることです。イスラエルの首都エルサレムも元来、水源の乏しい山の上に築かれた街ですが、ヘゼキヤ王の時代に、城の中心部に向かって水路のトンネルが掘られ、街に水が供給されるようになり、神の都として栄えました。また、イザヤ書には「東の海の島々」において神を拝するという記述もあることから、その聖なる山が日本列島のどこかに存在しても不思議ではありません。

これらの文献に着眼したのが空海です。ヘブライ語を熟知して旧約聖書に精通し、しかも灌漑土木技術を学び、実際に水路を造る技量を持っていた偉人は、古代日本社会において空海以外には、和気清麻呂しか考えられません。この2人は朝廷を介して出会いが有ったと考えられ、平安京の遷都も含め、双方が協力関係にあったことから、さまざまな情報を共有していたと考えられます。そして荒れ野の山に水が沸いて花が咲き、病人が癒され、主の栄光が訪れるという聖書の言葉どおり、空海もまた、聖なる山に水路を造り、そこに神の栄光が宿ることを願ったのです。その史実を歌ったのが「かごめかごめ」であり、作者は紛れもなく空海だったのです。

遣唐使として中国に渡り、聖書の教えに触れた空海は、帰国して15年後の821年、今日の香川県にある日本最大の灌漑用溜池として知られる満濃池の改修を3ヶ月で完了させ、多くの農民を救済しました。その他、空海が工事に関わった日本全国に見られる多くの井戸や溜池の存在から、空海の灌漑事情に対する情熱を垣間見ることができます。空海は海外の文化人らも驚嘆させたほどの偉大なる宗教家、詩文家、書道家でありながら、その天分のみならず、土木灌漑建築というまったく異なる分野においても、当時の最先端技術と情報を唐より持ち帰り、即座に活用して多くの結果を残しました。空海弘法大師が灌漑治水を学んだ理由は、単に庶民の救済だけでなく、聖なる神器を移し替えて秘蔵するための新たなる聖地を見出し、そこに水路を作るという天命を悟ったからに他なりません。そして全国をくまなく行脚して水路を造り続けながら、神宝を温存するための聖なる場所を見出した空海は、聖書の教えの通りに水路を造成し、神宝を安心して長年、保存できる環境を確保した上で、そこに埋蔵したと考えられます。それ故、イスラエルの神器が日本に運ばれて秘蔵されているという風説は、あながち作り話ではなく、しかもそれが本来埋蔵されていた場所から移設されていることまで記されていることから、これらのストーリーは事実として古代から伝承されてきた可能性が高いのです。

ヘブライ語と日本語を巧みにブレンドした「かごめかごめ」の作者は、語学の達人、弘法大師空海である可能性が極めて高いと言えます。空海は四国に生まれ育ち、遣唐使として中国へ渡った際、ネストリウス派のキリスト教(景教)を学び、ヘブライ語を習得しました。また空海が行脚した四国の巡礼場所は、後に四国をほぼ一周する遍路で結ばれた「四国八十八箇所」となりました。これら空海ゆかりの聖地も、ユダヤ、および「かごめかごめ」の歌と不思議な繋がりがあるようです。

まず注目すべきは88という数字です。一般的に「八十八箇所」は、88の煩悩を消し去り、88の徳を成就するという意味に捉えられているようです。しかし「8」の音読みである「ヤ」はヘブライ語で神を意味し、その8を重ねることにより、八重(ヤエ)、つまりヘブライ語での「神」となります。しかも日本語では幾重にも覆われて隠れてしまう、というニュアンスが含まれているため、「八十八」は「神を隠す」と解釈できます。それをさらに明確に表現した言葉が「八重桜」であり、この言葉の読みはヘブライ語で「神隠し」を意味します。おそらく空海は、密かに安置された神器を、八十八箇所の霊場を結ぶ動線上に定め、その歩く旅路を遍路と定めることにより、多くの信望者が秘宝の隠し場所を知らずの内に、参拝することができるように工夫したのです。無論、遍路の大半は、人気のない僻地を通りすぎていくため、そのどこにでも、新しい聖地は存在する可能性があります。

剣山の宝蔵石
剣山の宝蔵石
剣山頂上のしめ縄
剣山頂上のしめ縄
 では、その場所が四国の霊山とも言える剣山なのでしょうか。西日本で2番目に高い剣山の周辺地域では、ユダヤの秘宝が隠されているという噂が遠い昔から村々で語り告がれています。剣山の麓は「日本のチベット」と呼ばれるほどの交通の難所であり、そこには今もってなかなか開発が進まない東祖谷山村(ひがしいややまそん/現・三好市)が存在します。四国の真ん中に位置する人口2600人余りの小さい村で、その地域は高山に道を阻まれており、まさに秘境。その東祖谷村でも、ソロモンの秘宝と言われる契約の箱が、この剣山下に隠されていると言い伝えられてきました。村の観光案内でも公式に認知されていることもあり、単なる伝説ではすまされないようです。   しかも剣山には元来、鶴石、亀石、そして宝蔵石と呼ばれる3つの大きな岩石が頂上に存在し、山自体が「鶴亀山」とも呼ばれていたのです。さらに、「かごめかごめ」のヘブライ語訳と旧約聖書のイザヤ書から、秘宝が隠された場所は、人為的に水を引いた溜池のある、人里離れた山地であると推測できますが、剣山の周辺からは水が沸き出でており、山の頂上がおよそ平坦になっているという不自然な地形から、剣山には人の手が加えられ、そのどこかに人工の溜池が潜んでいる可能性が高いのです。

西アジアにおいて、大切なものを温存する場所の下に水を引くことは、めずらしいことではなかったようです。エジプトの三大ピラミッドには参道の地下へ繋がるオシリス・シャフトと呼ばれる墓の縦穴があり、最下層には大きな水貯めのある広いスペースがあります。同様にユダヤの秘宝も、人工的に水が引かれた山上付近の地下室に隠されていた可能性があり、そこに「お守りの形」にすり替えられた石像が目印として置かれたことを、「かごめかごめ」はヘブライ語で歌ったのではないでしょうか。つまり、四国の剣山こそ、イスラエルの民が当初、祖国から持ち込んだ神宝を保存した場所であったと考えられるのです。そしてその聖地から神宝は持ち出され、違う場所に移設されたと考えると、「かごめかごめ」の歌の主旨とぴったり合います。それ故、空海の故郷に聳え立つ剣山は、神隠しの象徴であり、鶴と亀という「お守り」の岩によって、今でも古代の聖地を守護しているのです。しかしながら、本物の神宝は、既に聖人らの手によって、別の場所に移設されていたのです。