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米国の放射能汚染 - 福島に勝るとも劣らない汚染の実態
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作成日時 : 2012/11/16 13:47
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米国での放射能汚染(1)
過去1000回近くも原爆実験を繰り返し行った米国では何が起こっているのでしょうか。実験場で有名なのはネバダ。ユタ州在住の医師に聞いてみると実験場周辺や風下の地域の人たちにがん発生が多く、多くの人たちが苦しんでいると話してくれました。核実験についてはまったく知らせずに行なったので周辺住民は何も知らずに、何の防備も施さず普段とまったく同じ格好で実験後に降る死の灰を浴びながら、職場や学校に出かけていったという身の毛もよだつ話を聞きました。住民は生体実験にかけられているのと同じで、風下のネバダ州、ユタ州、アリゾナ州を政府が調べたところ、膨大な被害者を発見し1980年代になってようやく大被害に気付いたのですが手遅れでした。爆心地から200キロ以上も離れたところに住んでいたのに、深刻な被曝を体験したのです。広島や長崎のような熱線被爆でなく、チェルノブイリ型の死の灰被ばくです。ある牧童は1,500頭もの羊を核実験の死の灰によって殺され「羊が死んだのはあのキノコ雲のせいだ」と訴えましたが、それに対して原子力エネルギー委員会AECは、「こんなに弱い放射能で羊が死ぬわけがない」と因果関係を否定しながら、こっそり羊の死体を運んできて、解剖し調べていたことがわかりました。この秘密報告書には「驚くべき高い濃度で、放射性物質の濃縮が起こっている」と書いてありました。つまり羊の体内に、放射性物質が濃縮しているという事実を発見していたのです。その濃度は何万倍にもなっていたそうです。貴重な発見でしたがこれを公表すると被害を受けた広範囲の住人に対して責任を取らなければならないため、極秘にされ、報告書は倉庫にしまわれ、カギをかけられてしまいました。
米国での放射能汚染(2)
アメリカのネバダ砂漠が核実験場として使われはじめたのは1951年からですが、そこから250qも離れたユタ
州ビーバー郡の小学校の女性教師、メリー・ルー・メリングは自分の周辺で白血病や各種のさまざまなガンで死ぬ人が増えてきて、おかしいと感じて53年から記録を取り始めてから79年までの27年間、こつこつと記録を取って残しました。この死者のリストがズラリと並んでいるリストには白血病だけでなく、前立腺ガン、結腸ガン、リンパ系のガン、リンパ肉腫、脳腫瘍、肺ガン、皮膚ガン、肝臓ガン、子宮ガン、卵巣ガンなどありとあらゆるガンがたくさん発生したことが記されています。甲状腺の障害は、ほぼ10年後から12年後にピークを迎えていることがわかります。このメリング先生は、たくさんの流産と重度の障害のある新生児(多くはすぐに死亡)についてはリストに載せていないと、断っています。このように放射能被曝は「時限爆弾」のようで、内部被曝が始まってもそれがガンを発症するまで何年もかかるのです。甲状腺のばあいは10〜12年かかるといわれます。いずれにせよ、メリング先生のような
調査がないと、個々のガン患者の苦しみと悲しみがあっても、それがネバダ砂漠の核実験に原因があるらしい、というふうには結びつかないのです。アメリカにはメリング先生以外に多数の調査レポートがあるそうです。
米国での放射能汚染(3)
ネバダ砂漠の核実験場では、1951年から92年までの間に計925回の核実験が行われ、大気圏内核実験が禁止される1962年まで100回の実験がありました。地下核実験は825回行われましたが、地下実験でも少なくない放射性物質が大気内へ放出されたことが分かっています。この核実験場の南にはラスベガスがあり、東はカリフォルニア州でロサンゼルス(350q)やサンフランシスコ(600q)など大都会があるため、実験はつねに風が西から東へと吹く日を選んで行われ、メリング先生たちユタ州側が風下となったので「風下住民」(Downwind People) という語までできました。ひどい話ですが、風下住民はモルモット扱されたわけです。いいかえれば、実験をする者たちは、“死の灰”が有害であることを重々承知の上で、実験を行っていたのです。ちなみに共和党の大統領候補のトップを走っているロムニーさんはモルモン教徒ですが、風下住民には多くのモルモン教徒が含まれていて、甚大な被害を受けました。昨年、米国立がん研究所は、ネバダ核実験で大気中に放出された放射性のヨウ素131の過剰摂取などから、当時15歳以下の子どもを中心に推定1万人から7万5千人が甲状腺ガンになった可能性がある、と衝撃的な発表をしました。上の図は1997年に同研究所によって作成された「ネバダ核実験のヨウ素-131の甲状腺被曝推定」です。実験をやりたい放題やった後で米国政府は「健康補償法」や「風下法」という補償制度を作りましたが、個別の症例に対する“補償”までも認めざるを得ない状況になってきています。しかし、その“補償”そのものが被曝者に犯罪的な屈服を強いるものになっているのであえて補償に応じない人々も大勢います。
セント・ジョージの悲劇(1)
ネバダの核実験場から200km離れたところに昔モルモン教徒たちが開拓したセント・ジョージという町があります。実験の最中セント・ジョージの町には、放射能の塵が降り注ぎました。にもかかわらず、アメリカ原子力委員会は、それらは全く危険がないと言い続けました。原水爆禁止1997年世界大会・国際会議でセント・ジョージの住民デニス・ネルソン氏は次のように悲痛に満ちた話をしています。「私は、科学者として専門的な話をすることもできますが、そうするつもりはありません。私が話したい問題は、それよりはるかに重要な事だからです。私の話は、愛と命と失ったものについての話です。家族と果たせなかった夢の話です。私は、冷戦のさなか、アメリカ・ユタ州のセント・ジョージ市で育ちました。当時は、冷戦があまりに激しかったため、道徳や正しい行為など問題にもされませんでした。普通の人々の命は、たとえ少しくらい犠牲者を出そうと『国家の安全』や『自由』という作り話を守ることの重要性に比べたら、全く意味のないものと考えられていました。ネバダ核実験場の風下にあるユタ州南部とネバダ地方には『ほどんど人の住んでいない地方』というレッテルがはられ、そうした政府の声明によって、少なくとも2万人の人々が目にみえない、無視してもかまわない存在とされたのです。このなかには私の家族も含まれていました。
セント・ジョージの悲劇(2)
私の子ども時代に、後に「死の灰の町」として知られるようになるセント・ジョージ市の西約200キロの地点で約200発の核爆弾が実験されました。風は私たちの町の方向に向かって吹くことが多く、ある時、特別やっかいな爆弾が、計画していたよりも「激しく爆発」してしまった時には、原子力委員会のある役人は、もし実験の当日に雨が降っていれば、その影響でセント・ジョージ市の住民の半分が死んでいただろうと後になってから言いました。たしかに、あの日、私たちは幸運に恵まれました。速やかに死ぬ代わりに、ゆっくりと死ぬことになったのですから。1950年代になると、あまり大騒ぎにはなりませんでしたが、一人また一人と、死者が出るようになり、それが今日もなお続いています。世界はユタ州の小さな町で何が起きているか知ることはありませんでした。この小さな町の人々は、放射線を浴びてからというもの、放射線実験に組み込まれ、知らないうちに、世界中で用いられることになる放射線の遮蔽基準を設定することに貢献させられていたのです。広島と長崎で何が起きたのかは疑う余地もありません。たとえ医学者や物理学者がその影響を過小評価しようとしても、そこにいた人々は真実を知っています。しかし、ユタをはじめ多くのアメリカの核被害地の人々は、今でもなお、この日本で起きたと同じ事が自分たちに起きたのだと信じようとしません。たしかに私たちは恐ろしい業火に焼かれたことはありません。しかし私たちの飼っている家畜の背中には、ベータ線によるやけどができています。「黒い雨」も降りませんでした。でも何年間も、放射性のほこりを含んだ乾燥した雲が私たちの空にただよっていました。破壊による膨大な被害もありませんでした。でも私たちは放射能で汚染された食物を食べ、汚染された牧草地で草を食べている乳牛のミルクを飲んでいたのです。子どもの頃、私は死の灰がどこに流れていくのだろうと思ったものでした。夏の間、私が木陰で昼寝をした木にも、家の庭に撒いた水にも死の灰は降りました。ネバダから吹いてきた風にも死の灰が含まれていました。しかし、私の両親は、心配しなくても安全だからと言われていました。私たちはそれを信じていました。死の灰がいたるところにあったのを知りませんでした。死の灰は、私の父親の肺や骨の中に、母親の脳の中に、私の弟の血液の中に、私の妹の腸の中に、そして私自身の皮膚にまで入り込んでいました。
セント・ジョージの悲劇(3)
私の母は47歳で亡くなり、妹もわずか40歳で死にました。父はたばこを一度も吸ったことがないのに肺ガンで死に、弟と私は二人とも2回ガンを患いました。私や同世代の人々は、あまり長生きできないだろうと思っています。私の祖父母は元気で長生きしましたし、自分の子供たちも、また再び祖父母の世代と同じように、健康で長生きできるようになることを願っています。あの美しく、聡明で、ウィットに富んだ妹が、ユダヤ人大虐殺の犠牲者のような変わり果てた姿になったことに気づいた時の恐ろしさを忘れることはできません。毒ガスを使ってであれ、アイソトープを使ってであれ、その犯罪性には変わりはありません。そして私の家族はその犠牲者に選ばれたのです。私の家族は、放射線被曝の影響について行われた統計や医学的調査の対象になったことはありません。私たちは利用され、見捨てられたのです。自分たちで医療費を負担し、一度も補償を受けることはありませんでした。社会保障による医療制度のない国では、人を病気にするのは簡単です。犠牲者自身が医療費を全額負担させられるのですから。今世紀のはじめには、科学が、肉体だけでなく、精神も道徳も心も破壊するようになるとは誰も想像すらしませんでした。次の世紀になっても、科学は破壊から私たちを救うことはないでしょう。人類を破壊から救うことができるのは、皆さんや私のように、たとえささやかな方法によってでも、この現実を変えようとしている人々なのです。紀元2000年が間近に迫った今、私たちは原子にまつわる真実を世界中の人々に知らせなければなりません。勇気ある男女の力を借りて、調査によって核兵器の引き起こした被害の実態を明らかにし、過去の犠牲者たちに発言の機会を与え、人間の行なった大虐殺が、極秘文書のなかに隠蔽されることを二度と再び許してはなりません。
ジョン・ウェインと放射能
肺がん、胃がん、腸がんと次から次へと発症し死ぬまで苦しみ抜いたジョン・ウェイン。その原因はネバダの核実験場の近くで何回となく繰り返された長期ロケが原因だといわれています。当時は放射能の危険性が公にされておらず、持っていたガイガーカウンターが激しく鳴って危険を知らせていたにもかかわらず、息子に「この辺に鉱脈があるぞ」と言ったというからその無知に鳥肌が立つ思いです。1954年に「征服者」という映画のロケで、その死の灰がある砂漠に行った俳優やエキストラ、スタッフらは総勢1200人、三ヶ月も屋外、つまり砂漠の上で馬に乗ったりしながら、粉塵を浴びつつ、撮影をしたそうです。内容は、モンゴルのジンギスカンの話でした。主演はジョン・ウェイン、スーザン・ヘイワード。その結果、有名な俳優らは、以後10年から20年の間にガンや白血病を患って、30代、40代の若さで亡くなっています。エキストラの死亡も多く、それまではガンの死亡を見たことのない現地の葬儀社がロケの撮影以来ほとんどの死亡者がガンで亡くなっていることに驚くほどだったそうです。ゲイリー・クーパー、スティーブ・マックイーン、ロック・ハドソン、ロバート・テイラー、ジョン・フォード、スーザン・ヘイワード、ユル・ブリンナーなど名のある俳優女優らが、その映画ではなくとも、砂漠でロケをしたりした結果、ガンになり、亡くなっていきました。1950年、ネバダ州のネバダ核実験場で頻繁に核実験を行なっていました。アメリカ政府は核実験によって恐ろしい死の灰が風に乗って遠くまで運ばれる事についてはその危険性を隠していたのですが、核実験が始まってから死の灰が蓄積したネバダ、アリゾナ、ユタではがん患者の数が急激に増加し始めていました。
核実験と風下住民の悲劇(1)
先回紹介したユタ州セント・ジョージ市の北にアイアン郡という人口5万人弱の広大な地域があります。1951年、最初のきのこ雲が西の空に立ち上り北東に流されて行ったその時、核実験のことを知っていた者や気にかけていた者はアイアン郡の住民の中にはあまりいませんでした。しかし、そこに住む住民達はいまだ日々、その雲が残した目に見えぬ力に悩まされています。ユタ州南西部地域に住む人は誰も皆、ガンに侵された人、奇形児を出産した人、そして愛する人の死や経済的損失により苦しみ続ける人、といった不幸に見舞われた人を自分のすぐ隣や近所で必ずと言っていいほど見てきています。米・原子力委員会の報道発表は、核実験は「十分な安全性を確保した上で」実施されると保証していました。これは「原発は全く安全だ」と言い続けていたどこかの国の電力会社や政府と似ていますね。ネバダ州南部、ユタ州南部の風下住人達は当初その約束を信じていました。彼らの政府に対する信頼、信用は確たるものであり、万が一にも政府が自分達の健康を危険に晒すようなことをしないと信じ込んでいました。しかし無残にもそのような思い込みは間違っていたことを自らの経験を通して確信するようになります。つまり、大気圏核実験は人間にとっても家畜にとっても全く安全ではなく、原子力委員会はそのことをよく知っていながら安全だと言い続けていたのです。1978 年から1980年に機密扱いから外された文書によると、科学者達はすでに1947年には、核実験により放出された放射性物質にさらされると、それは、人間や動物に死をもたらすことになりうることをはっきり知っていたのです。原子力委員会は、内部の科学者や外部の医療研究者からの警告を無視し、「どんなことがあっても実験を中止してはならぬ」といった方針に基づき実験を続行していたのです。きっと日本の原発政策も国策ということでやめることなど毛頭も考えていなかったのでしょう。ここにきて メディアもあからさまに脱原発に反対するようになってきました。6月17日読売に「原発を止めれば命や未来を守れる、と思うのは幻想だ。」ですって。
核実験と風下住民の悲劇(2)
核実験が開始されてから最初の二年間、アイアン郡の人々は核実験に対して関心はほとんどありませんでした。住民は州規模の日刊紙を読めば核実験の爆発について知ることができましたが、ロシアからの核攻撃からどのように身を守るのかについての記事を載せることの方が多かったので、学校では子供達は核攻撃に備えた避難訓練をし、住民は核シェルターを作って、核戦争の際に汚染されずに済むように食物を蓄えることを始めていました。1977年から1984年までユタ州の知事を務め、その地域に住んでいたマシスン氏は、50年代初頭のアイアン郡での生活をこのように語っています。「ユタ州南部に住む人々の主な関心事はと言えば、どうやって生計を立てていくかということであり、1953年の核実験中に見られた光り輝く閃光や雷のような爆風についてひどく心配している人はほとんどいませんでした。1953年3月から6月まで行われた特殊核実験でひどい被曝が起きました。この実験は、風下であるユタ州南部に爆発に伴う莫大な量の破片くずなどを撒き散らしました。住民はその5月に起きた羊の大量死について心配しましたが、原子力委員会が何も心配いらないと発表すると、皆疑惑を感じながらもさしたる行動は取りませんでした。栄養失調によるものだろうという理由付けを真に受けるものは誰一人としていなかったのですが、我々は政府の言うことをそのまま受け入れていました。」
核実験と風下住民の悲劇(3)
1953年3月、国民に民間防衛に対する意識をより高めてもらおうという目的のもと、核実験場の広報プログラムの一環として600名余りの見物人を核爆発実験に招待し、マネキン人形や一般的な家屋、自動車を実験に用いることでその威力を知ってもらおうという試みが行われました。ある人がこのPRイベントに、「アイアン郡レコード」新聞の代表として参加しました。爆発地点から11キロ少し離れた場所で爆発を観察した見学者達は、その後爆発による破片や粉塵などがいったん落ち着いた後になんと実験跡地へ連れて行かれたのです。最初ロロ氏は実験場に招待された事を「ラッキー(運が良かった)」と思っていたが、数週間も経たないうちに「アイアン郡レコード」紙は死の灰についての安全性を問い始めました。同紙はセント・ジョージに住むユタ大学のある学生の書いた長い記事を掲載しました。そこには、被曝により「すでに起こってしまったかもしれない、あるいは先々起こりうるかもしれない身体への修復不能な損傷について、人々に知らせる義務が、道徳的に考えて、私にはある」と感じたと書かれていました。彼はまた、なぜ実験の後でセント・ジョージ入りした車は洗車されているのかという点につき原子力委員会に説明回答を求めました。彼は将来的な問題を予測し、「放射能による人体への影響はしばしば5年から10年、あるいは
一世代、いやもっと時を隔てて表れるものなのだ。」との警告も発していました。
核実験と風下住民の悲劇(4)
アイアン郡の放射能による最初の犠牲者は羊とその飼い主達でした。羊が冬を過ごす放牧場からシーダーシティーにある出産場へ移動の最中、18,000頭から20,000頭にも及ぶ羊が1953年3月と4月に行われた実験による放射性降下物により大量被曝してしまいました。牧場主達は、羊の顔や唇にやけどがあることにまず気付きました。放射能に汚染された牧草を食べていたからです。その後、多くの雌羊が流産し始めました。また、出産場では成長した羊の毛がかたまって抜け落ち、皮膚に生じた水ぶくれが姿を現した。新しく生まれた子羊は死産で、しかもグロテスクな奇形をしているか、たとえ生きて産まれてきても非常に虚弱で育てることは出来ませんでした。それにより牧場主達は3分の1にも及ぶ家畜を失ってしまいました。牧場主と暫定的な獣医学調査を行った調査員らは、放射能症を疑いました。原子力委員会はアイアン郡の農業機関の代表者に持ち運び用の小さなガイガーカウンターを一台与えていました。彼の報告によると、羊のおりで測定したところ検出器の針が振り切れるほどの反応があったとのことです。羊の甲状腺部分や頭のてっぺんでは検出量は高く、口や鼻に病斑やかさぶたがあったそうです。原子力委員会は6月初め、様子のおかしい家畜の調査をするため、シーダーシティへ複数の放射能専門家チームを送り込みましたが、すでに死んだ羊の死骸の処理は済んでしまっていました。原子力委員会は自らの研究者に現地報告書を書き換えさせ、放射能による障害や影響だと推測されるあらゆる事項について削除するよう強制したと報じられています。死んだ羊の数を金銭に換算すると、牧場主達は2千万円以上の損害を被ったことになるのですが、原子力委員会は平然と「動物や人間に対する放射線障害に関する賠償責任が委員会にあるという前例がないので決して認めるわけにはいかない。」 と突っぱねたそうです。ひどい話です。東電も同じようなことを始めています。とてもよく似ていますね。 中国が新疆ウイグル自治区で核実験を行った時は、近隣の羊を実験後買い取ってくれたそうです。実験材料として買い上げたのでしょう。もっともその羊たちの所有者は数年後にがんで死にました。その人は突然太陽よりも光り輝くものを見て「神を見た。」と話していたそうです。核爆発の光を神と思い込んでいたのです。顔反面にやけどを負っていたそうです。きっと放射能でやられたのでしょう。中国でも恐ろしいことをやっています。
核実験と風下住民の悲劇(5)
1956年にアイアン郡の牧場主達は当然の権利として政府に対して5件の訴訟を起こしました。どれも1953年春に実施された大気圏核実験で家畜に損害を被ったというものでした。彼らは、弁護士と共に正義は勝ち公正な裁きがなされるであろうと固く信じていました。しかしふたを開けてみると、政府の汚いやり口で調査の技術データや原子力委員会が集めた政府側の獣医達の放射線障害に関する証言などがすべて提出されず、おまけに証人として立った政府側の専門家達は、羊の死因が放射能であったとは考えられないと証言したのです。弁護士は、政府が核兵器を守るために不都合な資料を隠蔽していると判事に訴えましが、判事を納得させることできませんでした。判事は、政府は実験の際十分な監視・観測を怠ったとの判断を示しましたが、訴訟の要である被害・損失が核実験の結果ではないという政府側に立つ判決を下しました。日本でも以下のようにいくつかの原発反対の裁判が起こされましたが、ことごとく敗訴か控訴棄却。裁判官たちはまるで買収されたかのように政府側に立った不甲斐ない判決を下し原発を容認し続けてきました。主な原発訴訟の判決は次の通りです。
●伊方原発1号機訴訟 1973提訴/
●東海第2原発訴訟 1973 /
●福島第二原発1号機訴訟 1975/
●柏崎刈羽原発1号機 訴訟1979/
●女川原発1、2号機訴訟 1981/
●もんじゅ訴訟1985/
●滋賀原発1号機訴訟/
●福島第二原発3号機訴訟/
●滋賀原発2号機訴訟/
●浜岡原発3,4号機訴訟 審理中
核実験と風下住民の悲劇(6)
大気圏核実験が行われてから3年〜5年後、死の灰が降った地域に住んでいたユタ州、アリゾナ州、ネバダ州の住民の間で白血病や放射能に起因するがんを発症する住民が多く出てきました。子供が白血病にかかるなどほとんど見たことも聞いたこともない地域で、50年代後半から60年代前半にかけて次々と白血病にかかる子供達が出てきたのです。90年代になるとアイアン郡の住民達は、50年代に死んでしまった羊と同様にモルモットにされた犠牲者である、と信じていました。住民達は核実験場の「風下」に住んでいたと言う意味で、「風下住民」という呼び名を使うようになりました。実験はたいてい風が東か北東に吹いている時に行われました。と言うのは、ラスベガスや南カリフォルニアを含む人口密度のより高い南西部に死の灰が降る事を避けたかったからです。アイアン郡は死の灰の降り注ぐちょうどど真ん中に位置していたのです。死の灰により誰かが亡くなっても、がんにかかったとしても、それを証明することは不可能ですが、そこに住む人達の間で一般的に認識されていることは、がんの続出は核実験によるものであるということでした。しかし統計的に見れば、放射線被曝と腫瘍の関連性を立証することは可能なはずです。また地元の住民達は不妊、流産、奇形児についても核実験場の風下に住んでいたことによる負の遺産であると考えています。ユタ州の南西に古くから住んでいる住民達は、様々な身体の問題・不調を核実験のせいであるとはばかることなく非難しているし、またこの先何世代先までこの影響が及ぶのかについて懸念しています。
核実験と風下住民の悲劇(7)
1979年、米議会の公聴会において、原子力委員会が1956年の裁判で証拠隠しを していたという重大な証拠が発覚し、判事は訴訟を再開。判決文では、新たに示された情報により政府の弁護士団と役人達が「故意に虚偽」の行為を行い、「詐欺行為の一種」を法廷に対して犯していたことが明らかになったと述べられています。判事はまた、彼らが証人に不道徳にも圧力をかけることで証言させないようにし、極めて重要な報告書を意図的に提出せず、「原告達の羊に対して放射線が及ぼした可能性のある影響に関する重要な事実を意図的に隠した」ということについても言及し前回の判決を破棄し、原告の再審請求を認めました。原子力委員会の記録が公開されることを過去20年以上もの間待ち望んでいた弁護士はこれでようやく公平な裁きがなされると思ったのですが、第十控訴裁判所は、判事の事実認定を拒否。議会公聴会の資料を一切受け入れず「新たな証拠」は提出されなかったということにして、25年前の判決を覆す理由はどこにもないと嘘で固められた決定を下しました。1986年、最高裁は控訴裁判所の決定に関する上告の審議を拒否してすべてが終わりました。その時点では、すでに高齢世代の元原告者達はすでに他界していたり、死の淵にあったりという状態でまだ羊の飼育業を続けていたのはほんの二家族だけで、皆、経済的損失という大きな痛手を被っていたのですが、その希望はこの時完全に潰えたのでした。福島の場合も酪農家の人たちや農家の人たちが大きな被害を受けましたが、訴訟に踏み切っても裁判は長く続き、国寄りの司法の判決には失望させられることになるでしょう。
核実験と風下住民の悲劇(8)
1979年、下院の小委員会の公聴会が、核実験下における政府の監視体制がいい加減であったこと、そして風下住民の身体への悪影響や1953年の羊の死についても死の灰がおそらく原因だっただろうと言うことを明らかにしましたが、その報告書「低レベル放射線による健康への影響」は、低レベル放射線被曝とがんやその他の病気との因果関係については認められないと述べています。何年も、あるいは数十年も経ってから初めてこういった身体への影響が現れる場合もあるため、連邦不正行為請求法の適用は不可能で、賠償金を受け取るためには新たな法律の制定が必要になりました。 しかし、それでも、ナバホのウラン鉱山労働者、核実験場労働者、実験の監視を余儀なくされた軍人、そして放射線被曝によるがんで苦しむ風下住民達による政府に対する訴訟は続きました。しかしどれも敗訴。ある一つの核実験をめぐる訴訟では、24名の原告が1200名もの犠牲者を代表して闘いました。彼らは皆、白血病やがん、また放射線被曝により引き起こされた他の病気に苦しむ犠牲者、あるいはすでに亡くなってしまった犠牲者達でした。この24名の内11名が、大気圏実験が行われていた期間アイアン郡に住んでいました。その内2名は子供でしたが白血病で亡くなってしまい、8名はその他種々のがんで亡くなり、1984年の時点ではたった一人しか生存していませんでした。日本でも同じようなことが繰り返されることが予想されます。このようにして被曝した市民たちはどこでも最後は政府から認められずに時だけが空しく流れていくのです。
核実験と風下住民の悲劇(9)
その後も政府は抵抗しましたが、ついに1990年に「放射線被曝補償法」が議会を通過、ジョージ・ブッシュ大統領の署名のもと新たな法令として誕生しました。この法令により、健康に影響を及ぼすおそれがあるという警告が発される以前に地上核実験の行われた場所より風下に住んでおり、後に放射線被曝による病気にかかったとされる住民達に賠償金を支払うために1億ドル(約1000億円)の「信託基金」が設立されました。その後、この法律は、修正されて1億ドルという上限が取り払われ、賠償の対象者としてウラン鉱山労働者や核実験場労働者も含まれることになりました。この法律には、次のようにあります。「アメリカ合衆国はこれらの個人に及んでしまった被害の責任を認め、またその責任をとるべきである。また議会は、不本意にも合衆国の安全保障を優先させるに当たり、ウラン鉱山労働者、そしてネバダ核実験場より風下に住む何の罪も無い住民の命と健康を危険にさらしてしまったことを認識し・・・議会は国を代表して犠牲者の一人一人に・・・そして困難をしいられた家族にも陳謝するものある。」その後、アイアン郡の住民、また一部の犠牲者の遺族にこの基金より賠償金が支払われましたが、1994年までに約2000名の申請がありましたが、その半数近くの人たちには賠償金支給が却下されてしまいました。この法律には制約があることから、自分たちの病気の原因が死の灰によるものだと信じながらも申請することができない者も多くいます。その結果、住民は、政府を信用しなくなってきています。
核実験と風下住民の悲劇(10)
ユタ州のマシスン知事はユタ州の住民が核実験の結果直面することとなった様々な問題を世間一般の人々に大いに知らしめました。1979年の公聴会において、彼は原子力委員会の証拠隠しや他の研究に関する1100ページにも及ぶ証言を提出したのです。これは彼自身が末期がんに侵される以前のことでした。1986年の彼の個人的結論は次のようなものでした。「私は連邦政府がこの問題に対して取ってきた態度にいまだ憤りを感じている。政府のやり方は、各州の知事が、守るべき自州の人々が連邦政府の下す決断により受ける影響に関し、たとえその影響が短期的なものであれ長期的なものであれ、絶えず注意を怠たるべきではないということを示している。また万一「国益」の為にある州の市民が犠牲にならなければならない場合は、最低限、市民には十分に情報を提供し、できるだけ彼らを守るようにしなければならない。」
福島で発生した恐ろしい放射能災害はすでにアメリカで起こっていました。被害を受けた住民たちの苦しい闘いが今でも続いています。日本でも保障問題でこれから苦しい闘いが長期間にわたって続くと思われますが、これらのアメリカでの住民と政府の闘いが少しでも参考になればと願っています。
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