山内氏死去:ゲーム産業歴史築く ファミコン「遊び」変え

毎日新聞 2013年09月19日 21時46分(最終更新 09月19日 22時51分)

任天堂の山内溥元社長=懸尾公治撮影
任天堂の山内溥元社長=懸尾公治撮影

 19日に85歳で死去した任天堂前社長の山内溥さんの生涯は、ゲーム産業がたどってきた歴史と重なる。任天堂が発売した携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」や、据え置き型ゲーム機「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」は、子供の遊びやライフスタイルを大きく変えた。くしくも今年はファミコン発売から30年。近年はゲーム人気のお株をスマートフォン(多機能携帯電話)向けゲームに奪われつつあるが、山内さんが育てたゲーム文化の灯は消えることはない。

 1949年に22歳で社長に就任した山内さんは、77年に任天堂初の家庭用ゲーム機「カラーテレビゲーム15」を発売。80年に発売した「ゲーム&ウオッチ」は一大ブームを巻き起こし、その後の任天堂のゲーム路線を決定づける原点となった。

 最大のヒット作は、83年7月に発売したファミコンだ。ゲームセンターでしか遊べなかったテレビゲームが家庭でも楽しめるようになった。ファミコンは発売後2年間で約5000万台が売れ、テレビゲームが一挙に子供の遊びの中心へと躍り出た。山内さんは後に「タイミングが良かった。それまでもテレビゲームはあったが、遊びたいと思える代物ではなかった。そこに格段に楽しく面白いものが現れた。ラッキーだったんでしょう」と語っている。

 次々と有力ソフトも誕生し、85年の「スーパーマリオブラザーズ」は、全世界で4000万本以上を売り上げ、「世界一売れたゲーム」としてギネスブックに登録されている。88年に「ドラゴンクエスト3」が発売されると、ソフトを手に入れるために「子供たちが学校を休んで行列した」とか、「徹夜でゲームに熱中する子供たち」などマスコミをにぎわせ、ファミコン人気は頂点に達した。

 89年には「ゲームボーイ」、90年に「スーパーファミコン」と、ゲーム機を立て続けに発売。96年のゲームボーイ用ソフト「ポケットモンスター赤・緑」の大ヒットで、ゲーム市場の拡大に大きく貢献した。

 ゲーム市場の広がりとともに、会社の業容も拡大した。ファミコン発売前の81年8月期の任天堂の連結売上高は239億円、最終(当期)利益が16億円にとどまっていたが、スーパーファミコン発売後の93年3月期には売上高は26倍の6346億円に、最終利益は55倍の886億円に成長した。

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