3番目の理由。なぜ今宮崎さんが辞めると言い出してるのか?
“ジブリといっても俺だけじゃん!”というのが絶対にあると思います。
これは作家の自負として。
9月2日 ニコ生岡田斗司夫ゼミ9月号で、岡田が50分をかけて語り倒した「宮崎駿引退問題」を、 動画と文章起こし全文を緊急公開!・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
こんばんは、岡田斗司夫です。
岡田斗司夫ゼミ9月号、今回は世間で話題になっている大ニュース、“宮崎駿引退問題”をやってみたいと思います。 コメントは拾っていく予定ですけど、今回はどうなるかわからないので。余裕がある時はコメント拾えますけど、余裕がなくなると見られなくなるのでですね――
早速コメントで「辞める辞める詐欺」って書いてありますね。
他にも「“長編映画をやめる”っていう表現に、微妙に復帰の可能性が残してあって笑った」なんて意見もありますね。
さて。
なんで辞めたいのか、僕にはわからないです。
宮崎駿が「辞める!」と言っている。でも、辞めると言い出したのは、昨日今日の話じゃないんですよね。ジブリのアニメが好きな人や、宮崎アニメのファンの人ならよく知っているように。
宮崎さんは、もう10年前、15年前から一つ映画を作る毎に「これが最後! これが最後!」と言っている。これは事実なんですよね。
なので、そういうふうでもない段階にもう来てしまったわけですね。
「もののけ姫の頃から言っている」(コメント)
その通りですね。“辞める辞める詐欺”なんて、さっき書かれていましたけど。
まあ、これからこういうふうな話をするんですけど。
なかなか僕も、話をする上での材料、知識の量については、毎回、皆さんとそんなに変わらないわけですね。
『風立ちぬ』を語っている時だろうと、『エヴァ』を語っているときだろうと、何を語っている時だろうと、だいたい、皆さんと僕との間には知識の差があるわけではなくて。
そうではなくて、「でも、僕からはこういうふうに見えるよ」という話をしますので。
もしよろしければ、話を聞いている中で「面白いフレーズがあるな!」とか、「これはいいな!」と思ったら、どんどんTwitterに投稿してみてください。
なんで、ツイートして欲しいかというと。
僕は今、Twitterも一緒に見てるんですけど、自分が話した事がどのように流れて、その結果、どんな人がこの番組を見に来てくれるのか、ちょっと楽しみにしてますので。
これ、“ステマ”って言うのかもわからないんですけども。
別に、「無理やり勧誘して!」って言ってるわけではなくて、番組の中で僕が面白いことを言ったら、そのフレーズをどんどん外に流しちゃうって形で構わないです。
まずですね、宮崎駿さんが「辞める!」っと言った時、僕が最初に思ったのは、「ああ、もう、止めようがなくなったんだなあ」ということです。
つまり、これまでも宮崎さんは「辞める! 辞める!」と言っていて。
鈴木敏夫プロデユーサーは、それを利用して「宮崎駿の最後の作品になるかもしれない! 最後になるかもしれない!」と言って売っていたわけですね。
だから、本来は「辞めたい辞めたい」と言っても、宮崎駿の問題発言を報道するマスコミがほとんどいないのと同じように……宮崎さんって、結構、問題発言が多いんですけど。
本来ならば辞めたがっているというのが広まってもいいはずなんですけど、やっぱり鈴木敏夫が止めているわけですね。
「いや、それは今のジブリにとってためにならないから」って、言ってたんですけども。
しかし、映画が公開される度に、『ハウル』にしても何にしても、公開前は誰でも不安になるので。
それならば「これは宮崎駿の最後の作品になるかもしれません!」といって動員を増やすということをやってきた。
これはもう明らかなんですね。
だた、鈴木さんの中でも、毎回毎回、「これが本当に最後かもな……」という感情があったのも事実だと思うんですよ。
というのは、宮崎駿と鈴木敏夫の関係は、決して“仲の良いツーカーの大親友のプロデューサーと監督”というわけではないんですね。
もう本当に、“戦友”というか“仕事仲間”というか。
「今のところやりたい事が一致しているから、手を組んで出来ている」という関係なんですよ。
なので、その、押井守の陰謀論のようなやつですね。
押井守というアニメ監督さんがですね、「宮崎駿は鈴木敏夫の操り人形だ!」とか、「彼は心を亡くしたロボットとしてジブリアニメを作っている!」とか、酷いことを時々言うんですけどね。
とりあえず俺、押井さんはああいう“負け犬の遠吠え”のような論評はやめたほうがいいと思うんですけれども(笑)
ともかく、押井さんの論評によると、「宮崎さんは鈴木さんにコントロールされている」というんですけど、僕が見るにそうじゃないんですよね。
宮崎駿と鈴木敏夫はいつも大喧嘩しながら、それでもなんとか一致点を見つけてやってきたんだけども、今回ついにそれを超えてしまったなと。
どうしても、宮崎駿に「もう辞めたい!」という意思が固まってしまって、鈴木敏夫にもそれを止めるに止められなくなっている、ということだと思います。
なので、今日の話題は――
「なぜ、こんなことになってしまったのか?」という話。
「宮崎駿にとってアニメとは何だったのか?」という話。
「今後の展開について、どういうふうに事態が推移するのか?」という話。
この3つに分かれます。
・・・・・・・・・・・・・・・
じゃあ、どっから行きましょうかね?
――って、自分で言いながら、既に何を話すのか忘れかけてる。今の3つは、さっき話しながら考えたことなので(笑)
1、なぜこうなってしまったのか?
2、宮崎駿にとってアニメとは?
3、これからどうなる?
(手元のノートにメモを取りながら。しばし無言)
ごめんな(笑)
みんなが物を考える時どうやってるかわからないんだけど、俺の場合、本当に……「フランス人の3つ」って、今コメントにも書かれてるけど。
フランス人の論理的思考法って、まず最初に「理由は3つある!」って言ってから、1つ目の説明をしている間に残りの2つを考えるのであって。
僕もそれと同じなんですよ。
こうやりながら“戦闘思考力”というのを鍛えているわけなんですけども。
じゃあ、最初に「なぜ?」から行きますね。
もう、純粋にね“肉体的に疲れた”っていうのもあるんでしょう。
72才で現役の監督はいますよ。数は少ないけど世界中にいます。
でも、70歳を越えているにもかかわらず、新作を公開する度に大ヒットの記録を更新する世界最先端の映像作家なんて、歴史上に一人もいませんから!
その意味では、無理に無理を重ねているのは確かなんですね。
だから、円谷幸吉じゃないですけど、僕らが引退を止めたら、一人の爺さんの寿命を更に縮めることになるんですけども。
まあ、最新作の中で、“死後の世界”みたいなものも書いてるんですけど……それでもなあ。
「キューブリックや黒澤レベルのじいさん」って、コメントには書いてあるんですけども。
スタンリー・キューブリックにしても黒澤明にしても、最新作がいつも最高作ではあったわけではないじゃないですか。
『アイズ・ワイド・シャット』のことをキューブリックの最高傑作って言う人はいないんですよ。『まあだだよ』を黒澤明の最高傑作って言う人はほとんどいないんですよ。
70歳を越えた映画を撮っている人はもちろんいるんですけども、今現在の宮崎駿の位置はあまりに特殊なんですね。
なので、本当にアニメ作ること自体が辛くなっている。
あの、手塚治虫が壮絶な死を遂げましたよね? 最期の最期まで、病院でまでペンを取って描いていて。
50歳を越えた頃かな? 歯が全部抜けて、入れ歯になって。これは、歯を食いしばって作画をするからなんですけど。
本当に戦って死ぬような形で手塚治虫は死んだんですけども、宮崎駿もその“限界”に近づいていると。
宮崎駿は一つの作品を作るたびに休みの期間を取っているんですけど、それがだんだん長くなっているんですね。
例えば、今回の『風立ちぬ』でも、「前作の『ポニョ』から5年ぶりの作品ですね?」って言われた時に、宮崎駿が「違います! 5年かかってるんです!」って言ったんですけど。
まあ、嘘ですよね。
『風立ちぬ』の制作は2年しか掛かってなくて、残り3年は“放電期間”というか、「動けない、動けない!」って言って、「もうアニメなんて作るのイヤだ!」と言いながら、ジブリ美術館の短編アニメを作ってたんですね。
前だったら、『ナウシカ』が終わったらすぐに『ラピュタ』をやって、ラピュタ終わったら次の作品の企画をやって~っていうように。汲めども尽きぬほど、やりたい事があって。
「これをやるまでは死ねない! これをやるまではッ!」って言ってたのが、徐々に自分のやりたい事が終わって来てる人になっている。
これが、“疲れたから”の次の理由。“やりたい事をやっちゃったから”です。
でも、やりたい事自体は『天空の城ラピュタ』で、宮崎駿さんはやった人だと思うんですよね。まあ、あとは『隣のトトロ』ぐらいかな?
その次の『魔女の宅急便』ぐらいから後になってくると、宮崎駿の作品というよりも、宮崎駿を国民作家・国際作家にするための鈴木敏夫のプロデュース作品というニュアンスがすごく強いんですね。
なので、やりたい事はとうの昔にやっていて。
それでも、スタジオジブリのために、自分に付いて来てくれてるスタッフのために。あとは、「まだまだ自分は出来るということを見せたい!」みたいな作家のエゴみたいなものも、もちろんあるかも知れないんですけど。
それで作っていたアニメが、そろそろ限界に達してきていると。
で、その“やりたい事をやったアニメ”の頂点が、やっぱり『風立ちぬ』なんですよ。
風立ちぬって本当に……これ、後で話しますけど、子供向けじゃない作品なんですよ。
「その“子供向けじゃない”っていうのを、なんで今まで封印してきたのか?」
「その封印を解いてしまった結果、宮崎駿にどんな光景が見えてしまったのか?」
――ということで。
「もう俺、同じことの繰り返しになる」と。
これから先、作品を作るとしても、もう一度“子供たちのアニメ”を作るか、あるいは『風立ちぬ』の繰り返しみたいになってしまって、新しい可能性がどこにもなくなる。
つまり、新たな可能性が見えなくなってきた、というところだと思います。
あと、3番目の理由。なぜ今宮崎さんが辞めると言い出してるのか?
“ジブリといっても俺だけじゃん!”というのが絶対にあると思います。
これは作家の自負として。
スタジオジブリ作品なんていっても人気があるのは宮崎駿作品だけ。
「~と、言っても過言ではない」と、僕はいつもエクスキューズとして付けるんですけど。
確かに『猫の恩返し』とか、『耳を澄ませば』といったものもあるんですけど、作品としての完成度や格が違いすぎるんですね。
「耳を澄ませばみたいな作品を普通に公開してヒットするのか?」っていうと、“宮崎駿のジブリ”っていうのがあるから、なんとかヒットしているんですね。
『コクリコ坂』にしても、なんとかヒットしている作品なので。
なので、「スタジオ・ジブリっていってるけども、他に監督がいるっていってるけども。俺が抜けたらなんにもなくなるじゃいか!」っていう、この状況ですね。
そして、それを自分で言い出せない。
例えば、「ジブリでも他の人がどんどん育ってきているぞ!」とか、「自分の息子の宮崎吾朗君がアニメ作ったら、ちゃんと興行成績トップの方に入ってくる!」とかに対する“ウソ臭さ”みたいなものが、本人には一番わかってるはずなんですね。
まあ、それがどれくらいの作品なのかっていうのは。
だから、なんでしょうね?
「ジブリといっても俺だけじゃないか!」っていうような、馬鹿らしさ・虚しさっていうのも、やっぱり頂点に達してきたんじゃないかと思いました。
以上の3つの“疲れた”、“やりたい事やっちゃった”、“ジブリといっても俺だけじゃないか”っていうのは、本当に第三者から見た「宮崎駿は、これで嫌になってるんじゃないか?」ということです。
そして、「真相は別にあるかどうか?」っていうのは、僕はあんまり考えないんですよ。
というのも、「この材料からしたら人間こうなるのは当たり前だ」と思うからですね。
もちろん、後に本人が『rockin'on』の渋谷陽一のしょーもないインタビューとかで、本音っぽい事をボロボロ喋るかもしれませんよ(笑)
でも、それは渋谷陽一の口車に乗せられて出てくるだけのものであって。作家から出てくる「実はこうなんだ」とか、「本当はこうなんだ」とかはあんまり信用してないんですよね、僕は。
「状況からみて、それはこうでしょう」っていうのを考える癖がついてますから。
その辺が「なんで辞めると言い出したのか?」ってことだと思います。
でもね、4つ目の理由として、きっと、“ついに止められなくなった”っていうのがあるんでしょうね。
今まで鈴木敏夫は、本当にありとあらゆる方法で、宮崎駿が辞めるのを留めていた。
例えば、「今、辞めたらジブリはどうなっちゃうの!」とか、「アニメの未来を考えて、今、辞めていいと思うの?」とか。
あと、「まだまだやれること事あるでしょう? 全部やっていないでしょう?」とか、「お前が辞めることはこの俺が許さんッ!」とか。
そういう色んな言い訳を使えなくなっちゃたんですね。
「風立ちぬの興業のためでは?」(コメント)
どうかな?
宮崎駿が、興行成績を上げるために「辞める」と言い出すような素直オッサンだったら、鈴木敏夫は毎回あんなに苦労してないですよ。
押井守は「鈴木敏夫がロボットのように宮崎駿をコントロールしている!」と言うんですけども。
あんなにコントロールしにくいものを“ロボット”とは呼びません。せいぜい“主人の言うことを聞かない犬”ぐらいのもんですよ(笑)
全く思った方向に動いてくれない、アルファ症候群っていう、自分のことをリーダーだと思ってる犬!
なので、興業成績を上げるために辞めると言うような人ではない、と。
これも、誰かがどっかで「実はそうだ」というような話をするかもわかりませんが、ぼくは全然そういうの信じないです。
今までの宮崎駿の発言の状況証拠からして、その一貫性からして、作品の内部から見える人間性からして、そんなことをするような素直な爺さんではないと思います。
話を戻すと、「なんで辞めるのか?」についての4番目の理由は“辞めたいという思いをついに止められなくなった”と。
まず、宮崎駿は、自分の人間性の全てを出した“子供向けでないアニメ”を、自分のタブーを破って作ってしまった。
その結果、これまでだったら「辞る!」と言う宮崎駿に対して、鈴木敏夫が「ダメだ!」と言う際に説得材料となった、「このままじゃジブリが潰れてしまう!」、「このままじゃ日本のアニメがダメになってしまう!」、「まだまだ作りたいものがあるんじゃないか?」という言い分に、宮崎さんが一切説得力を覚えなくなっちゃったんですよね。
だから単に辞めるわけですよ。
よく本能寺の変で、「なんで明智光秀が織田信長に謀反を起こしたのか?」っていう謎みたいなのがよくあるんですけど。
これも状況を見たら明らかで。
織田信長は生涯26回の謀反を受けてるんですよね。ものすごい数の謀反にあってるんですよ。だから、寿命からしたら、平均2年に1回謀反を受けているわけですよね。
なので、「織田信長の一生は謀反の連続であって、その中でたまたま上手くハマった明智光秀のやつに討ち取られた」と考えるのが正しいんですね。
そうじゃなくて、「なんで明智光秀が~」って考えちゃうと、どんどん“陰謀論”のドツボに入っていってしまうので。
同じく、宮崎駿も「なんでこのタイミングで?」って言うよりも、「ついに止められなくなった」と考えるのが、正解に近いと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・
では、ですね。
次に、「宮崎駿にとってアニメはなんだっただろうか?」ですね。
これは、今回、辞めるにあたっての“考察”です。
たぶん、本当に長編アニメは辞めちゃうんだと思います。
“長編”というエクスキューズを残しているのは、ジブリ美術館でやってる短編アニメですね。
あれは本当に楽しいし、作画も一人でも出来るし、これからも続けられると本人は思ってるんでしょう。
つまり、「物を作るという事自体がイヤになった!」という、ドラゴンボールの終わりの時の鳥山明状態ではないんですよ。
鳥山明さんは、ドラゴンボールの完全豪華版が出た時に「マッキントッシュ・コンピューターで絵を描くことが出来たおかげで、ドラゴンボールを辞めた時に、絵を書くことを嫌いにならずに済んだ」と書いてるんですね。
「あの当時は、漫画が嫌い、ドラゴンボールが嫌い、というどころの状態ではなくて、絵を描こうとすると吐き気がするぐらいキツかった」と。
それぐらい、ドラゴンボールを辞めたくても辞めさせてもらえなかった当時の鳥山明は、そういう心境だったそうなんだけれども。
そんな時にマッキントッシュで、パソコン上で絵を書くという“遊び”を覚えてから、徐々に彼はリハビリみたいなものをやるようになってきて。
まあ、「その結果、また大ヒットになった!」という、あんまりおめでたい話じゃあないんですけども、少なくとも“漫画家・鳥山明”という人格は壊れずに済んだんですね。
宮崎駿はそこまで追い込まれてはいないわけです。
「俺はもう辞める!」って言い出したから辞めるんでしょう。
そして、長編アニメ辞めるいうことは、アニメ作るという事が嫌になっちゃったとか、物を作ることがいやになっちゃったという、鳥山明のような悲しい状態ではないということだと思います。
じゃあ、これが何を意味するといるのかというと。
先程も言いました通り、宮崎駿にとってアニメとは“子供のもの”なんですね。
で、その“子供のもの”ということを、僕らは軽く考え過ぎているんですよ。たいした意味なく考えている、と。
どういうことかというと、宮崎駿にとって「今回の『風立ちぬ』は子供のものじゃなくなった」=「これまでの『もののけ姫』も『ハウル』も、すべて子供向けだった」ということなんですよ。意外なことに。
つまり、日本中のカップルとか、そういう普通の観客が、宮崎駿の映画を見に行くということは、彼にとって、かなり居心地が悪い状態だったんですね。
本来、自分は子供向けのアニメ作家で、「子供にはちょっと難しいかもしれないけれども、ちゃんとわかるよ」というお話を作っていたわけです。
そう。『もののけ姫』もそうですし、『ハウル』もそうだし、『千と千尋』もそうなんですよ。“子供たちへのメッセージ”というのはちゃんと乗っけて作っていたんだけれども。
ところが、僕ら観客は、いつの間にか宮崎駿のアニメを“子供も楽しめる大人向けアニメ”だと思って見ているんですね。
ここに、作り手と観客との差がすごくあるんですよ。
じゃあ、宮崎駿が今回『風立ちぬ』で“子供向け”という枠を外してしまったらどういうふうになるかというと。
今、皆さんも知っての通り、“賛否両論”という状態になっちゃうわけですよ。
それぐらい、本来、宮崎駿が作家として伝えようとすることをやったら……子供向けだったら伝わるんですけども、そうじゃなくて、大人向けに作ってしまったら普通の人にはなかなか理解できない。
そういうようなアニメを作るところまで、宮崎駿の表現が達してしまってるんですね。
例えばですね、僕が『風立ちぬ』を見ていて「うわ、すごいなあ!」と思ったところ。
主人公の堀越二郎くんには、黒川さんという上司の設計部長がいるんですけれど、その人の奥さんとの会話のシーンなんですね。
「自分の彼女が血を吐いた」という電報が来て、もう、すぐにでも東京に帰りたいという時に、二郎くんが黒川さんの奥さんに「今から東京に帰る1番早い方法はなんですか?」と聞くんですよ。
既に映画を見た方は思い出してくださいね。
奥さんを二郎くんが真正面から見ているわけですね。彼女の後ろの背景には時計が見えています。聞かれた彼女が、時計を振り返って、「今だったら12時のバスに間に合います」と言うシーンなんですけど。
聞かれた時、奥さんは二郎くんから目線を逸らさないんですよ。
二郎君があせって聞いた時に、奥さんは「かしこまりました。少々お待ちください」と“断ってから”時計を振り返って見て、そして振り向いて、「12時のバスなら間に合います」と答えます。
そこから、立て板に水のようにザーッと、どういうふうにすればいいのかの指示を出すんですね。
黒川さんの奥さんは、決しておっとりした性格でも、のんびりした性格でもなくて、二郎の切迫した状況はよくわかっているんですよ。
でも、彼女は“女である”という教育を受けていて、そして「育ちが良い家庭の主婦はどのように振る舞うのか?」という行動規範があるんですね。
なので、男性から面と向かわれて尋ねられている時に、相手の顔から「目線を外す」という失礼なことができないんですね。彼女がこれまで受けてきた素養・教養からすると。
つまり、「ちょっと失礼します」というのは何のために言っているのかというと、「今から時計を見るために振り返りますよ」という意味なんですよ。
これ、僕らの普段の行動にはないですよね。
僕らも、人の話を聞いてる時に腕時計を見るのは失礼だとはわかってるんですけど、その時に「ちょっと失礼します」と言って腕時計を見る人は、たぶん、65歳以上のサラリーマンを引退したような、もう、ほんとに品がいい人しかいなくなっているんですよね。
で、これが“演技”なんですよ。アニメにおける演技というのはこれなんですね。
僕は『ハルヒ』のアニメを見た時に、 「演技はほとんどできていないけど、動きはいいよね」と言ったんですけど。
演技とは何かっていうと、その人の内面とか受けてきた教育とかで「こういう動きをするべきだ」っていう“行動規範”がある。その規範と「いまやりたい動き」の間に葛藤があることが演技なんですね。
黒川さんの奥さんはそういう教育受けてきているので、ジロー君が切迫した状況で聞いてきたとしても、時計を見る時に「失礼します」と言ってからでないと顔を動かさない……という動きをする。
これが演技です。
アニメーターがキャラクターに付ける演技とはこれです。
大半のアニメは、驚いた時に両肩を上げて仰け反ったりとか、表情筋をちょっと上げたりとかです。
もちろん、それによって生まれるセンスの良い悪いはありますよ。
でも、それはあくまでも“センスの良い動き/センスが悪い動き”でしかなくて、演技ではないんですよね。
宮崎駿のアニメは、確かにこれまでも演技をしてるんですけども、同時に“動き的な面白さ”も付けて、それが読み取れなくても大丈夫なようにしてるんですよ。
でも、『風立ちぬ』では、そこら辺のプロテクトを一切外してしまっているので、普段からアニメの演技を読む習慣がない人には、黒川さんの奥さんの演技がわからなくなってしまっているんですね。
だから、あそこのシーンを見て「ああ、明治・大正生まれの女って、こういうふうなものなんだ!」っていう、本来だったら映画を観る時にジーンと来るべきものが、僕らの間では作動しないんですね。
他にも、“子供向けじゃない”っていうのには、今、話した“演技”以外の部分もあって。
物語の最後、宮崎駿さんが本来やろうとしたラストシーンていうのが……これはコンテ集にも載ってるし、あと鈴木敏夫プロデューサーもどっかのインタビューで話していたんですけれども。
最後に二郎くんとカプローニおじさんがゼロ戦を見る丘がありますよね。
あれは何かというと、鈴木敏夫さんのインタビューによると、“煉獄”と言っているんですよ。煉獄というのは、『神曲』において主人公のダンテが落とされる地獄の一つなんですね。
その煉獄にいる二郎くんのところに、妻である菜穂子が「あなた、来て」って言うんです。
そしたら、主人公の二郎くんは「うん」と言って、菜穂子と一緒に空に消えていくんです。
これ、何かっていうと、ダンテの神曲における「ヒロイン・ベアトリーチェによる主人公の救済」というのをやろうとしているんですね。
つまり、こういうふうなものを見ている人に要求するんですよ。
「私は映画を作ります。皆さんは大人向けの映画を見に来るんですから、当然、ダンテの『神曲』ぐらい読んでますよね?」っていう前提でアニメ作っちゃうんですね。
でも、「そんなこと言われても!」ってなるじゃないですか。困っちゃうんですよ、宮崎駿が大人向けに作ったら。
「ああ、わかったよ! てめえは教養があるよな!」って(笑)
そう思うんですけど、僕らは唖然とするしかない。
なので、「あなた、来て」を「生きて」に変えて。
最後の“煉獄感”ですね。地獄に落ちた主人公が少女の清らかな祈りによって救われるっていう神曲のモチーフが薄まってしまっているわけですね。
そう考えると、二郎くんがなんで美しいものにしか興味がないのかというと。
ゲーテの『ファウスト』において、主人公のファウスト博士は悪魔メフィストフェレスに誘惑されるときに、「“時よ止まれ! お前は美しい!”と言った瞬間に、お前は魂を失って地獄に行くぞ」と言われて。
ファウスト博士は「そんなこと言わないぞ!」と言い返すんだけども、それから先、彼は人生における美しいものばかりを見せられて、結果、それが地獄に繋がっていた、というエピソードがあるんですけれども。
「そういうものも知っているよね?」という話になるんです。
つまり、宮崎駿が大人向けにアニメを作ると「もちろん『ファウスト』は知ってるよね? 『神曲』も知ってるよね?」というようにストーリーが組まれることになるわけですね。
これは“クラウド・シティ”というところで、ヒツジさんという方が書いていたことで、僕も気が付かなかったことなんですけれど。
劇中にカストルプというスパイが出てきますよね? 軽井沢のシーンで出てくる、ドイツ人の不思議なオジサンがいるんですけども。
あの人が主人公と最初に会話をした時に、二郎くんが菜穂子さんのお父さんと話すために彼からちょっと目線外して、それから振り返ると、もうそこにカストルプさんはいないんです。
それ自体は別に不思議ではないんですけども。ただ、タバコの煙だけがフワーッと上がっているんですね。
この「タバコの煙だけが上がっている」というのは、“悪魔”を表現する基本の手方ですね。『ファウスト』にも「メフィストがいるところには煙だけが残っている」ってふうに書かれています。
つまり、「そういうことも知っているよね?」と。
ここでね、煙だけ書くよ。
だから、この人は決して、人の良いドイツ人でも、主人公を慰めてくれるオジサンでもなくて。コイツは悪魔“メフィストフェレス”であって。
そのメフィストフェレスの別側面としての天使のような役割をやっているのが、飛行機のことを教えてくれるカプローニおじさんなんだよ。
そういうことがわかってるよね?
――というように。
宮崎駿は“大人向けアニメ”ではそう問いかけてくるんですけれども。
そんなこと言われても、やっぱり僕らは「ええ! そうなんですか?」となってしまう。
この話、なんのことかと言われると。
宮崎駿にとってのアニメとは何かっていうと、「子供向けに作る」=「庶民向けに作る」ということなんですよ。
つまり、劇中で二郎がシベリアケーキを渡そうとしている子供っていうのが、僕ら“庶民”であり、一般の日本の観客なんですよね。
それに対して宮崎駿は、映画のようであって映画ではない“子供向けのアニメ”という、シベリアケーキのような、洋菓子のようで所詮はカステラとアンコでしかないものを手渡すわけですね。
そうじゃなくて、もっと本当のものを見せようとすると、見ている人の半分近く……ってこともないですね。一応、劇場でも大ヒットしているし、かなりの人が感動してるから、ちゃんと“良い作品”として認識されているとは思うんですけども。
だけど、これまでの宮崎アニメとは大違いの賛否両論になってしまったという事は、「宮崎駿が本気で大人向けのアニメを作ってしまったら、押井守も裸足で逃げ出すほどわかりにくい作品になっちゃった!」ってことなんですよ。
その辺が、彼にとって「アニメとは何なのか?」と、考えさせるきっかけになったんだと思うんですね。
宮崎駿は、ずっと「本来、アニメとは子供向けのものであるから、シベリアケーキみたいなものでもいい」と思っていたんですけども、「そうじゃなくてもいいんだ!」と、いろいろ周りの人から言われて。
あとは、『もののけ姫』とか『ハウル』とかを作る度に、評論家とかいろんな人が「あれはどういう意味なんですか?」とか、「今の時代をどういうふうに思いますか?」とか、「原発事故をどういふうに思いますか?」というふうに言われて。
自分の中でも、だんだん子供向けのアニメを作っている時代じゃなくなってきているっていうのがわかってきてて。
「じゃあ、本気で作ってみようか!」と思って作った。
でも、そうすると、作ったもののメッセージの大半は、一般の見ている人には読み飛ばされてしまうんですね。
それと同時に、自分としても庵野秀明という“後継者”を見つけることができたので、もう、なんか、自分の中で「もういいか」って思っちゃったんじゃないかな。アニメに対して。
だから、ここから先は、子供向けアニメを作るんだったら、短編で、ジブリ美術館の中で上映する5分か15分ぐらいのものを作ればいいだろうし。
長編のアニメを作っても……あんまりしょーもない、また同じようなことの繰り返しになるんじゃないかな?
まとめると、「宮崎駿にとってアニメとはどうしても作らなければいけないものでなくなってしまった」というのが現状だと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・
で、3つ目の話ですね。
ここまで、「なぜそうなったのか?」という理由の話と、「宮崎駿にとってアニメとは何だったのか?」という考察の話をしましたが。
ちょっとスイマセン!
これから3つ目の話をする前に、少しコメントを読みます。
今までコメントをほとんど読めていなかったので。ごめんね。
「またリバウンドしてる」と書かれていますけど。
そんなことない!
今、俺が着ているスーツ。これ、7月にも着てたんですが、もう肩が浮いてきて、ダボダボの二郎くんが着ているようなスーツになってるんですよ!
『報道ステーション』に出演した頃はボタンをちゃんと留められなかったけど、今はちゃんと留められて、なおかつ平気で座ってられるから!
「ちゃんと痩せているんだよ!」っていうのを言っておいて。
そして、この話は関係ないから置いとこう、と。
「庵野さん以外にはいないのか?」(コメント)
あのねえ、“後継者”ということではないんでしょうけども、宮崎駿の後を継げる人っていうのは、ジョン・ラセターと庵野秀明くらいだと思うんですけどね。
ひょっとしたら、そこに宮崎吾郎も入るかもしれないですけども。でも、その理由が「息子だから」っていう考え方は、宮崎駿が1番嫌いな方法だと思いますよ。
で、ジョン・ラセターがピクサーを辞めてジブリに入ることはまずないと思うんですよ。
でも、庵野君がカラーにいながらジブリのアニメを作るというのは、ドワンゴの川上会長がカラーの取締役になることでルートを作ったので、十分にあり得ることですね。
と、いうよりは、そのためにやったんだと俺は思いますよ。
もう、たぶん、庵野秀明は……これ、皆さん、どう思います?
彼はもう、これ以上『エヴァンゲリオン』を作りたいと思っていないように、僕には見えます。
特に、ファンが望んでいる「もっと面白い、もっと難解な、もっと映像表現にエッジが効いたエヴァンゲリオン」っていうのを、彼は、いい意味で“義務感”で作っていると思います。
それは数年前までの宮崎駿のアニメの作り方と同じですよね。
自分自身の問題で作らなければならないアニメっていう意味では、もう、テレビ版と最初の劇場版で、やるべきことの全てをやっているんですね。
じゃあ、彼が今やってることは何かというと、摩砂雪とか、庵野くんの下で育ってきた人たちのために見せ場を作ってあげて。
そして、エヴァで苦労をかけた一緒にアニメを作ってきた人たちに対して、ちゃんと利益を配分して、“立派な作品”という看板=名刺を作るアニメになりつつあると思うんですよ。
だからこそ庵野秀明は、ずーっと前から宮崎駿に「ナウシカ2を作らせてくれ!」と言い続けているわけですね。
ナウシカ2というのは何かというと。
『風の谷のナウシカ』で、主人公のナウシカは、最後、オウムの前で手を広げて、ドーンと跳ね飛ばされて、その後奇跡の復活を遂げた! ……っていうところで映画版は終わってるんですけども。
原作版でのナウシカは、その後、“ドルク”っていう、イスラム部族みたいな戒律の厳しい魔法種族みたいなのに捕らえられて。そして、そこと“科学王国トルメキア”とのものすごい戦争に巻き込まれたりしてるんですね。
これは、元々、スタジオジブリが作られた目的でもあるんです。ジブリ、あるいは鈴木敏夫の人生最大の目的は、“ナウシカ2”を作ることなんです。
『ナウシカ』の時点であそこまで行っているんですけど、原作におけるその先は、宮崎駿の思想的にも表現的にも究極のところまで行っているんですね。
そして、鈴木敏夫はこれをどうにかして映像化したい、と。
でも、宮崎駿は「もう、絶対にやらない」と言っている。じゃあ、高畑勲でいつかやりたいと思ってたんだけど、彼もどんどん違う世界へ行ってしまった。
で、庵野秀明がこれを「やりたい!」と言って来ている。
最初の内は「コイツに出来るのか?」と思っていたかもわかんないんですけども、彼が作っているものを見てきたら……たぶん、鈴木敏夫はかなり早い段階で「コイツはアリだ!」って判断しているはずです。
宮崎駿の中には「でも、本当にコイツか?」っていうのがあったんでしょうけども、ついに『風立ちぬ』で主人公の声を庵野秀明にやらせるという。
アレは完全に、歌舞伎の襲名お披露目みたいなアニメですよ。「俺の跡はコイツに取らせます!」と言っているようなものなので(笑)
まあ、もちろん「そういうふうにも見ることが出来る」って意味ですよ。
なので、これでもう、宮崎駿の反対もなくなったわけですね。本来ならば、ここで「やったー!」っていうのが、鈴木敏夫の考えですよ。
庵野秀明が『ナウシカ2』を作ってくれる。
高畑勲さんは『竹取物語』で、宮崎駿より年齢が上とは思えないような最終の表現をやろうとしている。
宮崎吾朗くんも、2作目においてちゃんと数字を出してきた。
ジブリの後ろの方も育ってきている。
宮崎駿も、『ポニョ』のように妄想みたいな話じゃなくて、『風立ちぬ』のようなまともなアニメを作れるようになった。
「これからがジブリの黄金時代だァーッ!」
――と、思っていた鈴木敏夫にしたら、まさかここで「ああ、庵野、ナウシカ2やっていいよ。でも、その代わり、俺、辞めるね」ってスッと言われて、腰がガクガクガクッと砕けた状態だと思うんですね(笑)
ということで。
僕は、宮崎駿の後継者は、真面目な話、庵野秀明だと思います。
彼に“ナウシカ2”を作らせるために、ここから舵を切っていくのでしょう。
『エヴァンゲリオン』の続編っていうのかな? 完結編に向けてのものは、徐々に徐々に仕事を整理する上でやっていくことと思いますが。
俺は、今もし隣に庵野くんが居たら、マジに言うのは、「エヴァはもう10年間は放っといていいから、その代わりにナウシカ作れ!」ってことです。
それくらい集中してやった方がいいし、ナウシカを作った後でもう一回エヴァが作りたくなってから続きを作らないと、こないだみたいな“本当は作りたくないのに、映像表現だけがものすごくいいアニメ”を作っちゃうことになると思ってる。
さて。
ここから先なんですよ、問題は。
一つは“国民栄誉賞”です。
日テレは今、全力を上げて、国民栄誉賞を取らせようとしているはずです。真面目な話。
絶対にそうです。
というのは、日テレという放送局自体が長嶋茂雄・巨人軍によって大きくなった会社で、彼の引退っていうのを“世紀の事件”として、国民的なセレモニーにすることによって、メディア・コントロールをやってきたような会社なんですね。
なので、宮崎駿が引退するということで……そりゃ、彼らとしても止めたいはずですよ。
全力で止めたいんですけども、これを止められないんだったら、何が何でも国民栄誉賞を取らせたいはずです。あるいは、その向こうには“ノーベル賞”みたいなものも見えているかもしれません。
もちろん、それは、僕らが考えることではないけれど。ただ、宮崎駿というのは、それくらい国民栄誉賞を取るような作家だし、そこから先のノーベル賞をとってもおかしくないような作家なんですね。
でも、きっと本人が、強烈に嫌がる。
だって、『もののけ姫』で彼がアカデミー賞を取った時も、彼は受賞はしたけどもその授賞式には行かなかったんですよ?
これは何かっていうと、その受賞を巡って、宮崎駿と鈴木敏夫の間でどういうやりとりがあったか、ですよ。
「賞なんかいらない!」と言う宮崎駿。
「頼むから貰ってくれ!」と言う鈴木敏夫。
じゃあどうなったかっていうと、「貰ってもいいけど、俺は行かないぞ!」って言う宮崎駿に対して「なんでそんな子供みたいなこと言うんだ!」ってプンプン怒りながら、鈴木敏夫は“ファーストクラス”でアメリカに行ったはずなんですよ。
これがおそらく実際の風景です。
なので、国民栄誉賞も似たようなことになるはずなんですよ。
国民栄誉賞も、式典に宮崎駿が出席しないまま、天皇陛下が鈴木敏夫に渡すっていう(笑)
でも、そういうわけにも行かないんだろうけどなあ。
なので、この辺りが条件になるんじゃないかと思います。
「宮崎駿が引退してもいいかどうか」の。
たぶんね、ジブリでは今頃、大揉めに揉めてますよ。この瞬間。
宮崎駿と、鈴木敏夫と、カワンゴと。あと、3人ぐらい誰でも知ってるような連中がいて、大喧嘩しているはずです。
宮崎駿を止める勢力の説得内容は、「今、辞めて、ジブリを潰すつもりかッ!?」です。
彼はそれで10年間ガマンしてたんだけど、今頃は「俺が辞めたぐれえで潰れる会社なら、さっさと潰れちまえばいいんだッ!」って、絶対もう言ってます。
そこまで行ってるはずです。
そこに「ナウシカ2はどうするのか?」みたいな問題がワンサカ乗っかっていって――
ですから、今、東小金井近辺にお住まいの方は、是非、スタジオジブリに行ってみて下さい。
たぶん、この時間(夜9時前)でも明かりが煌々と点いているはずですし、そこには、年収1億を超えるヤツらが10人はいるはずです(笑)
では、何故、日テレがこれを国民的なセレモニーにしようとしているかっていうと。
実は、今度の金曜ロードショーで、映画『ウルヴァリン:SAMURAI』の公開記念で『X-MEN』をやるはずだったんですよ。
それを、急遽『紅の豚』に差し替えちゃったんですよね。
つまり、『ウルヴァリン』は散々cmもやってるし、日テレもタイアップに入ってて、そのために金曜ロードショーをやってあげているはずなのに。
それを、いきなり“業界の仁義”からなにから全部すっ飛ばして、『紅の豚』をやって。
そこで何を見せたいのかというと、「宮崎駿が辞めてジブリがおしまいだ!」じゃあないんですよ。
「宮崎駿が辞めることでジブリの知名度を上げて、そして、これを国民的な記念日にするなりセレモニーにするなりに持って行って、なんとかジブリの命脈を保とう!」これが、鈴木敏夫の戦略ですね。
で、それに対して日テレ側が考えるのは「じゃあ、ウルヴァリンの『X-MEN』から『紅の豚』に切り替えるのはわかったけども、今後もちゃんと宮崎駿のアニメが供給されるのかどうか?」ここの保証が欲しいですね。
おそらく、落としどころは。
宮崎駿は「長編映画から引退する」と言っている。ということは、短編映画は作るわけですね。
これはつまり、「これまではジブリ美術館じゃないと見れなかった短編アニメを、ここから先、ジブリアニメの冒頭部に付ける」ということをやるんじゃないかと思うんですよね。
要するに、ピクサーと同じで“2階建て”ですね。
ピクサーのアニメ、例えば『モンスターズ・ユニバーシティー』の前には短編のアニメが付いてますよね?
それと同じようにですね、次に作る宮崎吾朗くんアニメとか、そういうふうな物の前に短編のアニメを付けるんだと思います。
で、みんなはたぶん、宮崎駿の3分とか5分とか10分とかのアニメを目当てに見るんだろうけれども、結果的にその後のジブリの監督のアニメも見る。
――というのが、一番、落としどころとしての平和です。
と、同時に、宮崎駿本人がどんなに嫌がっても、「アニメ界の将来のため!」とか、いろんな説得を受けて、嫌々国民栄誉賞を受ける。
で、その記者会見とかが、おそらくゴールデンタイムとかのものすごくいい時間帯に日テレ主導でやられて。
流石に「24時間ジブリアニメをオンエアする!」というのはないでしょうけれども、 1ヵ月間は何かのキャンペーンを張るぐらいはやるでしょう。
そこで、本当いえば、『ナウシカ2』の発表に持って行きたいところでしょうけども、そこまでは厳しいかもしれない。やっちゃうかもしれない。
だだ、『竹取物語』では力不足ですね、確実に言えるのは。
あとは、宮崎吾朗くんのなんかのアニメでも力不足だと思います。
それぐらいやるんじゃないかと思ったんですね。
「来年の24時間テレビでやるのか?」(コメント)
いや、24時間テレビでアニメを作るのは、みんな手塚治虫のせいでエラい目に遭ってるから、やってないと思いますね。
「竹取物語は見に行きますか?」(コメント)
見に行きますよ!
『竹取物語』は、明らかに高畑勲がやっと本気になった作品ですよ。
僕らはもう、『平成狸合戦ぽんぽこ』みたいな悪夢のような作品を見なくていいんですよ。
高畑勲も間違いなく天才なんです。
俺、この間、BSで昔の『狼少年ケン』って作品の中で、高畑勲が演出をしている回を見ていたんですけど。
あまりに面白くてですね。
これが50年近く前のTVアニメだとは思えないくらい、メチャクチャ面白いんですね。
なんだけど、高畑勲も高畑勲なりに「庶民のためのアニメを作ります!」というプロテクトをかけているもんだから、『ホーホケキョ山田くん』とか『ぽんぽこ』を作ったりするんです。
もう、明らかな、“レーダーなしでの夜間飛行”みたいな。「そろそろインドかと思ったら、アメリカに着いちゃった!」みたいな。そんな無茶なことをやってたんですけども。
だから、「やっと、高畑勲も本気になってくれたなあ」と思ったんです。
いいんじゃないかと思います。
これからのジブリについての話でしたよね。
長島以上の国民記念日にしようというのが日テレの願望です。
というのも、これまでも、例えば“長嶋茂雄の引退した日”みたいなものを国民的なコンセンサスにしようとしるんですけれども。
もう野球中継自体がゴールデンタイムに放送されなくなってしまって、もう、普通の人が野球選手の名前をほとんど言えなくなってしまっている今の時代に、「読売巨人軍の中継の日本テレビです!」じゃ持っていけないんです。
なので、もう今や「ジブリの日テレです!」になっているから。
ここで「長嶋茂雄で成功したパターンをもう一度!」って、絶対にオッサン達は考えます。
オッサンたちは、昔、自分が成功した方法をもう一度やる事しか考えませんから。
なので、何が何でも、どこをどう説得してでも、宮崎駿に国民栄誉賞を取らせようとするはずです。
だから、年末は宮崎駿の国民栄誉賞がらみのニュースで僕は楽しめると思います。
“がらみ”ってのは何かというと、「国民栄誉賞を受けた」という話もあり得るし、「結局、国民栄誉賞を拒否して、こんな大揉めにになった」という可能性もあるから(笑)
俺が個人的に一番あって欲しいのはね、これで宮崎駿が鈴木敏夫とかジブリのことをとことん嫌になって、「俺は辞める!」と言って。
「ジブリでアニメを作るのは辞めたとは言ったけれども」って、京都アニメかどっか行って、そこで新作をやるっていうのが、一番めでたいんですけども(笑)
まあ、なかなかそこまで面白いことというのはないと思うんですけれど。
「拒否した場合、情報は出ないんじゃないの?」とコメントに書いてあるけれど。
いや、このレベルになってくると、もう揉め事が隠せなくなってくるので。
なので、ここから先の国民栄誉賞がらみのニュースは、たぶん、ウォッチングしているとすごく面白いと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・
以上が、僕が皆さんと同じような状態で、昨日の夜に「宮崎駿が引退する」と聞いて、「ああ!」と思ったことですね。
「なんで辞めるのか?」というと、“疲れたから”というのもあるし、“やりたいことをやったから”というのもあるし、“ジブリっていっても俺だけじゃないか!”というのもあるし。
あと、「アニメというのは“子供向け”というプロテクトを外した瞬間に、こんなに受け取ってもらえないものなのか」というのもちょっとわかってしまった。
でも、何より一番の原因は、もう「辞める!」と言っている宮崎駿の大声を、誰も止められなくなってしまったということです。
で、ここから先は。
まあ、僕はもう、今から東小金井に行って、ジブリの前に行きたいですよ。
本当に! 今この瞬間も、絶対に揉めてるから!
たぶん、明日も明後日も明々後日も揉めてると思いますけど。どこで宮崎駿が根負けするかですよね(笑)
もう本当にね「ジブリ前オフ会」って、今、コメントに書いてあったんですけど。
本当にオフ会やりたいですよね。
だって、出口から出てくる車のナンバーを控えるだけで、面白いこと解りますから(笑)
「そこなら自転車で行ける」(コメント)
いいですねえ。
「通報される?」(コメント)
いやあ、ジブリの前でオフ会しても通報はされないと思いますよ。
もし通報されそうになったら、「ジブリさん、原子力の電気を使わずにアニメを作ってください! 応援してます!」みたいな、宮崎さんがデモで持っていたようなプラカードみたいなものを持っていたら手も出しようがないかな?
あとは、もっと良いのは「宮崎さん引退しないで!」っていうプラカード持って行くとか、「鈴木さん頑張って説得してください!」とか、「ドワンゴ川上さん手を振ってください!」とかですね。
そういうプラカード持っていると、なんか応援してるっぽく見えていいんじゃないのかなあと思うんですけども。
以上が、宮崎駿の引退に関してですね。
たぶん、こういう話は、民法とかテレビ局では一切流れないまま、落ち着き先を探していると思います。
つまり、宮崎駿が「引退する」ということ。これはもうニュースで流れちゃったから……“海外で発言された”これも宮崎さん考え抜いていますよね。
国内で発言したら鈴木敏夫が潰すんですよ。だから、海外で発言するわけですね。
で、これをやったから、もう後戻りが効かない。
今、「じゃあ、結局どうなのか?」っていう、ものすごい取材攻撃を、鈴木敏夫がたった一人でジブリの玄関で止めているわけですね。
止めながら、宮崎駿と大喧嘩している。
そこに、正直言って頼りない川上会長が間に入ってですね(笑)
どんなやりとりしてるのかな?
あと、その場に居そうなのは誰かな?
今、角川の社長になっている、元ニュータイプ編集長の井上慎一郎さんとかは居そうだ。居てもおかしくない。
庵野とかは、呼ばれてくるような人間じゃないけども、ナウシカがらみなら来るかもわかんないしなあ。
あとは、誰だろうな?
「徳間の人は?」(コメント)か。
徳間の元会長の遺族みたいな人らに頭を下げられると宮崎さん弱いかもなあ。
「日テレのお偉いさん」(コメント)
日テレのどんなお偉いさんが来ても、宮崎駿の方が偉いから、それは違いますね。
「電通」(コメント)
電通じゃないな。
あるとしたら、博報堂にいる宮崎駿の弟は来ているかわからないけれど。
でも、あの人、早い内に外れましたよね、ジブリの一連のプロジェクトから。
なので、そこら辺のことは、現場に行った人が次々と報告を上げてくれれば、僕は合法的にそれを楽しみますから。
よろしくお願いします(笑)
************************************