したがって「メルツェルの将棋差し」とバベェジ氏の計算器との間にはどんな類推(アナロジイ)も成立しないのであって、もし前者を本物の機械と呼ぶ以上、これこそ人類の生んだもっともすばらしい、他の追随を許さぬ発明であるというほかはないのである。ところがその「将棋差し」の考案者、ケムプレン男爵は平気で次のように言明しているのである。
「実に平凡な機械で、まことにたあいない代物です。ただ思いつきの大胆さと、幻覚を生み出す手のうまい結合が見つかったので、みなさんがびっくりなさるような効果が出ているんです」
だがこんなことをいくら強調してもだめの皮である。この自動人形の動作を規制しているのが人智であり、それ以外ではありえぬことは確実である。これは数学的に、先験的(アプリオリ)な証明可能な問題にすぎない。したがって唯一の問題は、いかにして人の手を引き入れているのかということである。
1836年、エドガー・アラン・ポオ
小林秀雄・大岡昇平訳『メルツェルの将棋差し』
(創元推理文庫『ポオ小説全集』(1)
「だめの皮」って、面白い言い回しですね。
だめの革(かわ)
無益であるということをあざけっていう語。
*歌舞伎・今文覚助命刺繍(不動文次)[1883]序幕「べらぼうめ、後でいくら威張っても駄目(ダメ)の革(カハ)だ」
*門三味線[1895]〈斎藤緑雨〉二二「又ちと遊びに入来(いらしっ)てと言へば、其ことづては駄目(ダメ)の皮(カハ)」
[方言]
だめのかあ 静岡県520
だめなかあ 静岡県榛原郡541
だめのがん 栃木県上都賀郡198
だめのかすっちょ 静岡県榛原郡541
(小学館『日本国語大辞典』第二版(8)1132p)
語源についても調べてみたが、そちらはよくわからなかった。
へちまが何の役にも立たないことから、という説をネットで読んだが、本当かどうかはわからない。
へちまの皮ならば、体をこするぐらいはできるような。