先ず、西村修平さんがブログを更新されました。(メルマガ受信前の報告です)
慰安婦強制連行の捏造・発信元は朝日新聞
投稿日: 2013年9月16日 作成者: 西村修平
また、私信とともに
力欠く暑さを衝いて店頭に秋を先取るコスモスの花
の短歌を詠んで頂き、私が代表する「八王子五行歌会」の掲示板にも貼って置きました。
関心のある方はご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/gogyouka.html
ついでに、八王子在住の方でネット上だけではなく、リアルな歌会参加者を募っています。5人以上揃えばスタートしたいと思っています。五行歌は子供の歌にも力を入れているので年齢制限はありません。詳しくはurlをご覧下さい。
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ところで医療介護関係者の知り合いから「最近の若者は尾崎豊の歌が理解できないらしい」と教えられた。
私は尾崎は不世出の天才アーチストと評価しているし、芸能界の中ではギリギリの危険思想を歌にした不幸な犠牲者だったと思っている。例えばhttp://www.youtube.com/watch?v=N3NrVuzIlSQ (最近のyoutubeは頭にCMが入り邪魔で仕方ありません。この動画は投稿した人のミスかも知れませんが)、など青春時代に誰でも抱く懊悩で、共感するのは当たり前だと思っていた。が、以前述べた「悟り世代」にとっては、大人社会が作り上げた裏権力に失望しきっているのだろう。尾崎の世代だと真面目な青年は、眠れずに失望や絶望と戦ったものだが、今は白旗を揚げて、ただ生きていけばいい、と世捨て人のようになってしまったようだ。
以前に私は「尾崎の歌は信仰喪失者の匂いがする」と書いたことがある。偶々、尾崎の死を悼む数万人のファンたちの葬列を喫茶店の窓から目撃して以来、その音楽性の高さに驚き、死因に疑問を持って、出版されたあらゆる単行本(尾崎の私小説を含め)を買い、「日刊ゲンダイ」に連載されたドキュメンタリーを読み続け、尾崎は離婚しようと考えていた妻の友人に殺された、と確信した。
そして半年前ぐらいだっただろうか、以下のようなサイトを見つけた。
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ウィキペディアの尾崎豊さんのところを覗いていたら、あるところに目が留まりました。
・
1992(平成4)年4月25日、尾崎は突然この世を去る。早朝の足立区千住河原町の民家の軒先に傷だらけで倒れていたところを住人に発見され、通報で病院に運び込まれる。体が傷だらけだったが診察した医師は深酒のみという診断で尾崎は妻とともに自宅マンションに戻る。しかし、午後になり呼吸が止まっているのに気がついた家族が救急車を通報したが、搬送先の日本医科大学付属病院で死亡した。
葬儀は東京都文京区の護国寺にてファン葬が行われ、参列者は4万人近くに上り、美空ひばり、吉田茂に次ぐ規模であった。密葬は日蓮正宗流にて営まれ、墓所は埼玉県所沢市にある。
(このページより)
葬儀を執り行ったのは、創価学会と敵対的な間柄の日蓮正宗。見れば、尾崎さんの死には自殺とは言い切れない、いくつもの謎があるらしいです。
(同じページより)
尾崎に覚醒剤での逮捕歴があることからしばしば誤解を受けるが、司法解剖時に検死をした支倉逸人によれば、尾崎の死因は、経時的な悪化による薬物中毒死ではなく、致死量の2.64倍以上の覚醒剤服用―オーバードーズ(薬の多量摂取)による急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫と結論付けられている。また、尾崎の遺体には暴行を受けたような傷やあざもあり、亡くなった日の状況がきわめて不自然であることから、他殺とする説もある。ただ警察は、状況捜査や司法解剖を行った結果から「事件性なし」として調査を終結している。そのため、尾崎豊が亡くなってから約2年後に、10万人近くの尾崎ファンの署名を集めた再捜査嘆願書が警察に提出されたが、受理されなかった。7年後の1999年には写真週刊誌『フライデー』に蘇生措置を施している様子の写真が掲載され、当時の捜査員の証言などもあって、その死因の不可解さが深まった。だが、検死をした支倉逸人の著書によれば、擦過傷と打撲傷をじっくり調べた結果、他殺をうかがわせるようなものはなかったとの記述がある。またそれを裏付ける、転倒したり暴れて転げ回っていたという証言がある。だが、はっきりしたことがわからないため、今までに尾崎の生涯を描いた多数の漫画作品やテレビ番組においても、尾崎が死んだ様子は全く触れられていない。
ここで1999年週刊誌に載せられた、心肺蘇生をしている時の尾崎さんの写真を見てください。
(尾崎豊さんが好きな人は、お気をつけて)
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1992(平成4)年4月25日、尾崎は突然この世を去る。早朝の足立区千住河原町の民家の軒先に傷だらけで倒れていたところを住人に発見され、通報で病院に運び込まれる。体が傷だらけだったが診察した医師は深酒のみという診断で尾崎は妻とともに自宅マンションに戻る。しかし、午後になり呼吸が止まっているのに気がついた家族が救急車を通報したが、搬送先の日本医科大学付属病院で死亡した。
葬儀は東京都文京区の護国寺にてファン葬が行われ、参列者は4万人近くに上り、美空ひばり、吉田茂に次ぐ規模であった。密葬は日蓮正宗流にて営まれ、墓所は埼玉県所沢市にある。
(このページより)
葬儀を執り行ったのは、創価学会と敵対的な間柄の日蓮正宗。見れば、尾崎さんの死には自殺とは言い切れない、いくつもの謎があるらしいです。
(同じページより)
尾崎に覚醒剤での逮捕歴があることからしばしば誤解を受けるが、司法解剖時に検死をした支倉逸人によれば、尾崎の死因は、経時的な悪化による薬物中毒死ではなく、致死量の2.64倍以上の覚醒剤服用―オーバードーズ(薬の多量摂取)による急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫と結論付けられている。また、尾崎の遺体には暴行を受けたような傷やあざもあり、亡くなった日の状況がきわめて不自然であることから、他殺とする説もある。ただ警察は、状況捜査や司法解剖を行った結果から「事件性なし」として調査を終結している。そのため、尾崎豊が亡くなってから約2年後に、10万人近くの尾崎ファンの署名を集めた再捜査嘆願書が警察に提出されたが、受理されなかった。7年後の1999年には写真週刊誌『フライデー』に蘇生措置を施している様子の写真が掲載され、当時の捜査員の証言などもあって、その死因の不可解さが深まった。だが、検死をした支倉逸人の著書によれば、擦過傷と打撲傷をじっくり調べた結果、他殺をうかがわせるようなものはなかったとの記述がある。またそれを裏付ける、転倒したり暴れて転げ回っていたという証言がある。だが、はっきりしたことがわからないため、今までに尾崎の生涯を描いた多数の漫画作品やテレビ番組においても、尾崎が死んだ様子は全く触れられていない。
ここで1999年週刊誌に載せられた、心肺蘇生をしている時の尾崎さんの写真を見てください。
(尾崎豊さんが好きな人は、お気をつけて)
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続きはhttp://asayuumeron.jugem.jp/?eid=301 で読んで欲しい。
余りにも長いコメントの遣り取りが続くので、私自身最後まで読んでいない。圧倒的に他殺説を支持するコメントが多いが、中にはそれを否定する創価学会員のコメントもあり、非常に客観的な議論が続いている。
繰返すが、私は原理主義、教条主義を否定する立場だから、絶対に○○だ、という考え方はしないことにしている。
創価学会員の中には2世3世になって、本人は親や祖父母の影響で脱会はしないが活動もしていない人々が大勢いるし、単に就職に有利と割り切って会員になっている人もいる。
私の郷里・愛媛の幼馴染には、九州の大学に入り、合気道部のキツイ練習に嫌気が差し、孤独に陥っているときに創価学会のサークルに声をかけられた友人もいる。彼は私がある悩みで苦しんでいるときに、大森から中野までやってきて励ましてくれた。
私が批判するのは、集団ストーカーら特殊工作員たち、池田本仏論を未だに信じている狂信者、総体革命推進者に限定される。
私が代表を務めている「微笑禅の会」を敢えて、非宗教、としているのは、あらゆる宗教には盲信、狂信の要素があり、批判者に激しい憎悪を抱く(本来、宗教にあってはならない)感情が自然に生まれてくるからだ。自意識を持ち、老病死の恐怖から逃げることが出来ない人間にとって宗教は必然的に生まれた文化だが、猫も犬も草木も宗教なしに従容として生きている。
ともかく尾崎の歌を聞いた後で、上記のサイトの議論をお読み下さい。お奨めします。