しばしば言われることなので、書いておきましょう。
エゴサーチで批判を探して絡むのは「変」?
なんでそんなことを言っているのかイケダハヤト君はさっぱり分からないみたいだけど、実はテレビを見てて「イケダハヤトって可笑しいよねぇ」「真似しちゃダメだよ」って、つぶやいているに近い。それを、エゴサーチで自分で探してくるからさ。変になるんだよ。
— 古井広 告屋(公式認定「弱い敵」) (@aged_adman) September 13, 2013
この人は長らくぼくに対する粘着的な批判を展開している人です。興味があれば、彼のタイムラインを見ていただければ、よく理解できるでしょう。
で、ぼくはこういう人に対して積極的に絡んでいくようにしています。すると、彼らはぼくの行動に対して、「変になるんだよ」と違和を唱えます。
さて、ぼくのような立場にある人間は、自分に対する批判的な言及を発見した場合、どのように対処すればいいのでしょうか。「変になるんだよ」という言葉が示唆するように、ぼくらはそういう批判を「スルー」すべきなのでしょうか。
エゴサーチ自体は悪いことではない
まず明らかにしておきたいのは、自分の名前が含まれたツイートを拾うことは、それ自体、無論悪いことではない、ということです。
場合によっては業務上、エゴサーチが必要であることもあるでしょう。ぼくも新刊が出た時などは、積極的にエゴサーチをして販促に利用させていただいております。エゴサーチによって得られる情報は、かなり有益なのです。
とはいえ、「有名人はエゴサーチをするな」という主張を繰り出す人は、さすがにいないでしょう。エゴサーチ自体は悪いものではないし、それを禁止するのもナンセンスだ、ということだけまずクリアにしておきます。
陰口をする人、自分に対する陰口を見つけて抗議する人
つぎに本題。
「有名人は、エゴサーチで発見した自分に対する批判をスルーするべきだ」というのは、倫理的に正しくないようにぼくには思えます。
「有名人はエゴサーチで発見した自分に対する批判をスルーするべきだ」という主張は、要するに「陰口を見つけた場合は、それをスルーすべきだ」と言っているのと、構造的に変わりません。ぼくは実際、毎日のように「陰口」を見つけている気分になっております。
さて、「陰口をする人」と「自分に対する陰口を見つけて、陰口の主に抗議する人」、いったいどちらが倫理的に「悪い」でしょう。
ぼくの善悪感覚ですと、「陰口をする人」が、そもそも悪いように感じられます。また、「陰口を見つけて、陰口の主に抗議する」という行為は、基本的に善いことも思います。
というわけで、ぼくは「有名人について言及するときは、それを本人に見られる可能性があることを十分理解した上で、ツイートするべきだ」というのが、より倫理的に正しい答えだと考えます。
ツイッターはそもそも検索可能な仕組みになっているのです。どうしても見つけてほしくなければ、LINEでグループでも作ればよいでしょう。陰口を見つけた方に罪をなすり付けるのは、それこそ変な話です。
さらに厳しくいえば、「有名人は、エゴサーチで発見した自分に対する批判をスルーするべきだ」と考えている人は、構造的に、自分の思考が「いじめ」を肯定していることに気づくべきです。
陰口を言われるのは仕方がないことだ、それは抗議せずに甘受するべきだ。
…「有名税だから仕方ない」というのは、陰口を肯定する理由にはなりません。陰口は、悪いことですからね。