15

9月

2013

金子隆一氏の思い出

2013年8月30日、サイエンスライター、金子隆一氏は逝去されました。氏の業績は数学を除く科学のあらゆる分野におよび、とうてい想像もつかないこともあります。が、高校入学以来、40年以上のつきあいがある友人として思い出に残るいくつかを綴ってみます。

1994年、新疆ウイグル地区、将軍廟の麺店で

 金子隆一氏と初めて出会ったのは、中央大学杉並高等学校(中杉)の教室。当時の中杉は男女別学で築40年以上の木造校舎。私学にしては学費が安いこと、周囲が閑静な住宅街であることが取り柄というところだった。
 同じクラスとなった彼と、入った部活も同じ。地学部だった。彼は天文班、私は地質班だったが、普段の活動やバカ騒ぎは一緒。ゆうきまさみの究極超人あ~るに登場する光画部によく似た雰囲気といったら理解する方もいるだろう。実験で使ったビーカーでラーメンを煮たり、蒸留水容器を水鉄砲がわりに使って遊んだり、いろいろしたものだ。もちろん研究の方もしていた。地質班では三浦層群の地層から木更津で採集した貝化石を分類する作業が続いていた。また、中杉から2㎞ほど離れた善福寺池から採集した珪藻化石研究の補助として、毎週善福寺池の水質検査をしていた。一方、天文班ではその時々の天文事象に応じて観測をしていた。ウェスト彗星も陣馬山頂に泊まり込んで観測した。ジャコビニ流星群観測のため、修学旅行帰りにそのまま学校に泊まったこともあった。天文好きはその後も続き、就職後も金子氏と陣馬山に行ったり、百武彗星観測に行ったりした。

 文科系クラブの花といえば、文化祭。中杉では緑苑祭という名称だ。緑苑祭前には地学部も6時登校などして準備にかけた。コホーテク彗星だったと思うが、その軌道模型を展示することになり、軌道上の日ごとの彗星の位置を豆球で光らせる仕掛けを作ったことがあった。モーター軸に取り付けた銅板を、円周状に打った釘に触れさせることにより、点滅させる仕掛け。私など、目分量で釘を打っていたが、彼はそれを全部抜き、慎重に角度を測り打ち直すということをやってのけた。このあたり、オタク的緻密さの現れだろうか。

 夏休みには合宿。顧問の教師は海でアワビやサザエを採るのが趣味だった。よって、合宿地は常に海岸。テント持参でキャンプ。いや、当時はチッキという別便で最寄駅まで送った。中には、いざ現地に着いたら灯台があり、天文観測はできなかったこともある。金子隆一氏はスポーツはどちらかといえば嫌っていたが、海で魚介類を採るのは気に入っていて、ポリタンクを浮きがわりに長い時間つかっていた。後年、佐渡の民宿に毎年行くのだが、ここでもサザエ採りが主な目的だった。

 付属校で受験がなかっただけに、のんびりした雰囲気でのびのびできたのが大きかった。彼は当時から神田の古本屋街に出没する一方、ピットインでジャズ演奏を楽しみ、うまいラーメン屋(中杉の最寄駅、荻窪は、当時のラーメン屋の一方の中心地と言われた)めぐりなどグルメぶりを早くも発揮していた。

 高校の友は一生の友となり、ここまで続いたことを感謝しなければならないだろう。

 大学に入ると、彼は商学部、私は法学部で学部は異なったが、神田駿河台の狭いキャンパスのこと。よく顔はあわせた。もっとも彼は商学部というより、中大SF研究会所属という方がいい。
SF研究会での活動について、私はほとんど知らない。ただ、そちらの仲間の友人たちとバロック音楽のコンサートや花火見物に行ったことがある程度だ。思い出した。1冊本をもらった。「宇宙戦艦ヤマト99の謎」だったか…当時アニメ放映され人気だったその科学的側面の誤りを指摘したものだったと思う。もう一つ思い出した。あるSF大会で、大会中、ある参加者が「ゴジラ、ゴジラ、ゴジラとメカゴジラ」と、ゴジラのテーマ曲のメロディで唄いだした。するとそれが周囲に次々に伝染し、遂には会場中これを合唱し、最初に唄った人は前で指揮をとり、最後に「ゴジラとメカゴジラとキングギドラ」で打ち上げたなんて話を聞いた。

 当時、彼の自宅は西鎌倉だった。プロムジクス神奈川という、バロック、ルネサンスなど古楽を演奏するグループがそちらで活動していて、私もよく鵠沼の教会まで聴きにいった。金子隆一氏はもちろん常連。たまに演奏人数が足りないとタンバリンを任されたりしていた。

 4年になっても彼は就職活動をする気配がない。というより全く世間並みに就職することは考えていなかったようだ。たまたま大学の図書館であった時、氏は原稿を書いていた。こんど住宅新報社から本を出すという。SF雑学クイズの本だった。彼のもつSF知識を動員させれば、そのような本を書くことは簡単だったろう。

 大学卒業後、彼はそのままライターの道を進み、私は普通の公務員になったので、普段のつきあいは薄れた。それでも、毎年2月に行く香港ツアーは楽しみだった。彼のもつあらゆるジャンルから誘った友人・知人が同行するツアーで、お互いの接点は金子隆一のみ。それでも楽しいツアーだった。2月の香港は旧正月の時期で、ビルの壁面にはその年の干支や吉祥画が満艦飾に飾られている。加えて香港芸術祭の開催中で、当時の日本で2万円以上するような公演の席が5~6千円で手に入った。というわけでグルメと芸術のツアーである。
 香港島側、銅鑼湾のホテルに泊まり、朝は飲茶で始まる。2時間近くかけて平らげると、今度はお昼のために移動。お昼のあとはしばらく自由行動を楽しみ、また晩に集合。バレエや京劇を楽しみ、餐庁へ。さらに九竜半島のメキシカンバーでマルガリータを飲む。

 マルガリータを飲みながら酒の肴に出てきたのが、恐竜ばなし。インターネット以前の時代だ。「オヴィラプトルは卵泥棒じゃなかったんだぜ!」などという当時の新知識に興味を惹かれないわけがない。これが後に私が恐竜ホームページを開くきっかけになった。

 

金子氏と筆者。喜望峰で。たぶん中野美鹿氏撮影。
金子氏と筆者。喜望峰で。たぶん中野美鹿氏撮影。

 恐竜学最前線が出版されたときは衝撃だった。恐竜の最新情報に飢えていたファンは当時多かったと思う。私自身は、「恐竜などという趣味は子供時代に卒業」というふつうの大人から、彼の影響でファンになっていった頃。とりあえず発刊されるたびに本屋で買った。最前線で企画した北米恐竜ツアーにも参加したし、遂には投稿もした。その文章は恐竜学最前線に載ったが、残念ながらその号で休刊になってしまった。
 一般に金子隆一氏の本が広く知られるようになったのは、講談社現代新書の「スペースツアー」を除けば、「新恐竜伝説」が初めてだろう。ハヤカワ書房としては大きな広告を新聞に出していた。文章を見ると、やはり彼の文章。新しい情報に限りなく興味をもち、それを皆に伝えたい。同時に紀行文では食の話など、取りつきやすい側面も忘れない。四川料理の「刺」味を評して「凶暴な」と表現したくだりは、私も別の折に使わせてもらった。

取材中の金子氏

 氏が西鎌倉から西麻布に転居したのはいつからだったか、よく覚えていない。ただ、私にとっては、西鎌倉より近くて訪問しやすい場所だった。氏が長尾衣里子、中野美鹿という2人の弟子をかかえたのは、最前線発刊中からだったと思うが、西麻布の住まいには弟子用の机も据えられていた。私が松村しのぶ氏に初めて会ったのも、この住まいでだった。山本聖士のイラストを初めて見たのも、ここだった。廊下までも並ぶ本棚に膨大な文献、さらにボックスファイルに分野別に整理された論文コピー。執筆と飼いネコのための部屋だった。ネコは何匹もいて、「オオカバマダラ」などいずれも蝶の名がついていた。行けば、西麻布の行きつけの飲み屋に繰り出し、そこでバカばなし。氏に言わせると、私はSFの人間ではないのに発想がSF的なのだそうだ。そういう面からも気が合ったのかもしれない。

ディノプレス第2号

 1996年、私はホームページを開設した。金子氏はそれを喜んでくれ、文章を寄せたり、恐竜クイズを作ってくれたりした。彼の誘いにのり、アメリカに行ったこともある。それらの詳しいことはホームページにあるので、ご覧いただきたい。「恐竜学最前線」の後身となる「ディノプレス」が発刊され、氏はそこでも執筆・編集に活躍していた。これはこれで、編集人の井上氏のことをはじめ、私にもいろいろな思いはあるが、割愛する。ディノプレスも結局休刊になり、井上氏が逝去されてから10年以上経つ。

筆者が最後に撮影した金子隆一氏。2012年8月、幕張の恐竜展会場で。

 金子隆一氏が西鎌倉に戻り、さらに最後の住まいに転居する頃には、彼と私のつきあいも、ごくたまになってしまった。年末に鍋パーティーをするから来ないか?と電話を受けるのだが、スキーの日程とぶつかり、遂に行けずじまいだった。
 最後に会ったのは、2012年夏、幕張の恐竜展会場でだった。偶然だった。体調を聞くと、「透析以外は普通の生活だよ」というので、軽く考えていた。

 2013年8月下旬、白峰集中調査で、リハビリ入院中と聞いた。「えっ、そんな悪かったの?」というのが正直な感想。さらに追い打ちをかける訃報。私にとって、ボディーブローのように衝撃をあたえる事だった。

 後日、ご遺族のもとに焼香に伺った。その席で、入院時にも仕事をするつもりでパソコンと資料を持って行ったこと、入院中でも、あれが食べたい・これが食べたいという話がよく出たこと、転院する車中から蕎麦屋が見え、そばを食べたいと言っていたのだが、病院でそばがでて喜んだこと。最後は脳出血で、駆け付けた時にはイビキ状態で、医師から回復の見込みはないと告げられたことなどを聞いた。

 ご遺族の元では昔の思い出話など、笑顔で聞ける話で終始した。しかし、真面目に思うときには、いまだに悲しいだけでは済まない、重いものに押しつぶされそうになる。

 彼の仕事は広範囲にわたり、私にも想像がつかない。ご遺族も「ちっとも話をしなかったので…」と困惑するほど。この文章でも「恐竜惑星」はじめとするアニメや「アインシュタイン」など科学番組の考証については、触れられなかった。若いころ、バレエ雑誌に執筆していたこと、バレエ好きが嵩じて「天井桟敷通信」という自費のパンフを発行していたこと、さらに筆名を変えて発表していた雑誌もあるようだが、そこまで至ると文章の特定もなかなかできない。私自身、思いだし、考えるほど涙が止まらなくなるので、書き綴ることもできない。

 執筆中の本は、もう10年以上前から裳華房で企画していた海棲爬虫類の本、今年の年賀状に書いてあった、竜脚類の本など、ついに知られることなく終わるものが、いくつもあるだろう。金子氏はメールアドレスを公開していなかったので、年に数回、出版社から執筆依頼が私のアドレスに届いた。それを転送すると、1年後に新しい本が出版された。そんなことが数年続いた。が、最終数年のものは、日の目を見ないのだろう。

 追悼文は、宇宙エレベーター協会をはじめ、ホームページ、ブログ、twitter にあふれている。しかし、長きにわたり付き合った友人として、一文を記すこともまた供養と思う。願わくば中有を経てあちらにたどり着いたら、オストロムはじめ鬼籍の古生物学者にインタビューしたり、井上氏と語り合ったりし、そのレポートを夢で伝えてほしいものだ。

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コメント: 5

  • #1

    伊藤恵夫 (日曜日, 15 9月 2013 20:11)

    心からご冥福をお祈りします。

  • #2

    石水智尚 (日曜日, 15 9月 2013 21:22)

    香港で一緒に海鮮料理の卓を何度も囲んだ事が忘れられません。ご冥福をお祈り致します。

  • #3

    dinopantheon (日曜日, 15 9月 2013 21:49)

    伊藤さま、石水さま、ありがとうございます。
    志をもって恐竜学最前線・ディノプレスを発刊されたことまた、香港でおいしい食卓を囲んだこと、いずれも忘れられません。金子隆一氏のことを思うと、今でも言葉より先に涙が流れますが、彼の志を指針として、これからも続けていきたいと思います。

  • #4

    足立瑛彦 (月曜日, 16 9月 2013 05:58)

     金子先生の古代生物の著書が発売されるたびわくわくしていました。
    先生のご冥福を今一度一人の読者としてお祈り申し上げる次第です。

  • #5

    dinopantheon (月曜日, 16 9月 2013 10:20)

    足立さんのような若い方にとっても、わくわくする本だったのですね。

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