北へ向う渡り鳥料理人
ここ数年、関西は「大型商業施設(百貨店等)」の開業ラッシュです。
2年前、JR大阪駅構内に「ルクア」「JR大阪三越伊勢丹」が開業。
今年は、JR大阪駅に隣接して「グランフロント大阪」、“辻調”がある阿倍野には「あべのハルカス」が開業。
「大型商業施設」が出来ますと、その“売り”となるのが、テナントとして入る有名レストランです。
「グランフロント大阪」には、青柳の小山裕久・ミクニの三国清三・レストラン大宮の大宮勝雄 等々の名前が並んでいます。ただ、その多くは“プロデュース”であり、身銭を切ってまで、大阪に出店される気はないでしょう。
JR大阪駅周辺には、他に、阪神百貨店・阪急百貨店・大丸百貨店があります。
阪神百貨店・阪急百貨店は同じグループであり、グランフロント大阪の、ショップ&レストランは、阪急電鉄が開発を担当しています。
また、ルクアの社長は伊勢丹出身で施設管理はJR西日本SC開発が行っており、JR大阪三越伊勢丹にはJR西日本が出資しています。
各百貨店は、書いていてもややこしくなるほど関係が強く、「囲い込み」と言えば聞こえはいいのですが、結局、同じグループで客を奪い合う事にはならないのでしょうか?。
事実、JR大阪三越伊勢丹は絶不調であり、リニューアルも決定しているようです。
本題です。大阪に来るレストランもあれば、大阪を捨てる料理人もいます。
20世紀から21世紀に変る頃、私が利用していました店から、3名の料理人が消えました。
イデミ・スギノ 杉野英実 日本を代表するパティシエの一人であり、現在は東京で活躍されています。
2001年までは、神戸の異人館近くに店を構えられていましたので、坂を上って買いに行っていました(歩いて行くと不便な場所)。
しかし「放浪の旅に出る」と店を閉め、復帰を願っていましたが・・・・・ 東京へ。
そういえば、同じ年に、「ジャンムーラン」の三木 剛シェフも旅に出ましたが、一緒だったのかな?。三木シェフは、奥様の実家が・・・・・ですから、お金はあるでしょうね。
京都に、お弟子さんの店、「グラン・ヴァニーユ」が出来ています。
http://tabelog.com/kyoto/A2602/A260202/26017389/
リストランテ・カラバジオ 寺島 豊寺島シェフは、イタリアで グアルティエーロ・マルケージに師事し、帰国後、「リストランテ山崎」の初代シェフとなります。
その後、大阪の「リストランテ・カラパジオ」のシェフを務めます。
経歴を考えますと、「何故、大阪のレストランのシェフに」と思われるでしょうが、実は、このレストランのオーナーは、農業機械で有名な「クボタ」ですから、金に糸目は付けなかったのでしょうね。
しかし、寺島シェフは大阪を捨て、再度、「リストランテ山崎」のシェフとなり、その後、福井県のレストランを経て、今は、片山津温泉のホテルです。
http://www.katayamazu-spa.or.jp/hotels/arrowle/
ステップアップ? 都落ち? 大阪に戻ればいいものを。
リストランテ・パラクッキ 鈴木康司鈴木シェフは、イタリア料理界の巨匠アンジェロ・パラックッキに師事し、パラクッキ氏の日本支店となる「リストランテ・パラクッキ(大阪)」の料理長となります。
勿論、この店はパラクッキ氏の出資ではなく、大丸百貨店がスポンサーでした。
しかし、2001年、鈴木シェフも東京へ行きます。
東京では、山田宏巳シェフの「リストランテ・ヒロ青山」の料理長に就任。その後、落合 務シェフが関わる「リビエラ青山」のグランシェフに就任。
有名シェフの店を渡り歩き(ミーハーなのかな?)、ここまでは順風満帆かと思えたのですが・・・・・・・・・。
2012年1月、「リビエラ青山」のシェフを辞められます(理由は知りません)。
その後、「独立」との話もあったようですが、ツイッターでは「仕事を下さい」と発信もされていました。
そして、行きついたところが、軽井沢のレストラン「ピエトリーノ」。
http://tabelog.com/nagano/A2003/A200301/20015828/
この店は、銀座のフランス料理店「レカイヨ」のオーナー 高橋淳一氏のお店と言われていましたが、高橋淳一氏は、ただの“雇われ店長”でした。そのあたりは、本家のメルマガ(タダ読み部分)にも書かれています。
http://chokumaga.com/magazine/?mid=116&vol=6
しかし、高橋淳一氏とオーナーが揉めたのでしょうか、スタッフも変り、鈴木シェフも職場を去る事になりました。
料理人は、サラリーマンとは違い、職場を渡り歩く事は少なくはありません。勿論、低いレベルではダメですが、高いレベルであれば、新店の“お誘い”も少なくはないでしょう。
ただ、昔であれば、誘われる度に給料は上がっていきましたが、そんな時代ではありません。
バブル期の幻想を捨てられない料理人は、理想と現実の狭間で苦しみ、気付いた時には場末のレストランに・・・・・。
鈴木シェフが「リストランテ・パラクッキ(大阪)」に勤務されていた時代、メートル・ド・テルとして宮永久嗣さんが勤められていました。
クロ・ド・ミャン 宮永久嗣宮永久嗣さんは、独立して、大阪の北新地に「クロ・ド・ミャン」を開業します。
門上武司さんが贔屓にしていたせいか、人気店となり、東京(銀座)にも進出。
しかし、門上さんが応援した人の末路は・・・・・。
おだてられて、調子に乗ったのでしょうか?。結果、大阪・東京の店を失う事となりました。
知り合いのライターからの情報によりますと、先月、新店(Amrit)をオープンさせたようです。
http://tabelog.com/tokyo/A1308/A130801/13159872/
そういえば、宮永さんもフランス校出身だったはず。今度は謙虚になって下さいね。
“渡り鳥料理人”のディープな話は、次回書きます。
事実を元に記事にしておりますが、「それは違う」とか、「もっと知っている」などのご意見は、ページの最後にあります日付の横の“コメント”をクリックして、ご意見をお寄せ下さい。
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http://twilog.org/tomosatoyuyabot
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