オリンピックがこれから進んでいくべき方向を示してみせる。二十一世紀の五輪大会に新たな息吹を吹き込む。二度目の開催をついに射止めた東京に求めたいのはそのことだ。
規模拡大とビジネス路線の徹底によって急角度の発展を遂げてきた近年のオリンピック。二百を超す国と地域から一万人以上の選手が参加する大会は、いまやすべての分野を通じて並ぶもののないスーパーイベントとなっている。かつてない繁栄の時期と言ってもいいだろう。
ただし、とめどない拡大と巨費を投じて豪華さを競う方向性への疑問は拭い切れない。スポーツが生む純粋な感動や喜びというオリンピック本来の魅力が、こうした「発展」によって、かえってそこなわれているという側面も否定できない。オリンピックはいわば爛熟(らんじゅく)期に入っているように見える。それはすなわち過渡期にも差しかかっているということだ。
そこで、これからオリンピックを開く都市、あるいは開こうとしている都市には大事な使命が課せられていると思う。新時代のオリンピックにふさわしい形とはどういうものか。本来の魅力を取り戻すにはどうすべきか。そうした根本的な問いかけに答えていく責務が開催都市、また立候補都市にはあるのではないか。
東京の開催能力が高いのは間違いない。最先端のテクノロジーを駆使した大会ともなるはずだ。だが、安全、確実で先進技術がふんだんに取り入れられているというだけではこれまでとさして変わらない。華やかさや規模の大きさといった従来の価値観とは違う側面をつけ加えられるのか。オリンピックのあるべき将来像を描くことができるのか。それこそが二〇二〇年夏季オリンピックの歴史的評価を決めるだろう。
「スポーツの力を世界に示す」という東京の主張はオリンピック本来の精神に沿っている。その言葉をどう現実のものとするのか。スポーツとオリンピックが持つかけがえのない魅力をいかんなく引き出し、さらにそのパワーを社会のために生かしていくという壮大な命題をどう具現化するのか。それを実現できれば、二〇年大会はのちのちまで語り継がれることになる。
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