リカードの経済学講座
こんにちは、seijiです。
この「リカードの経済学講座」を今後定期的に読んでみようと思われている貴方! ありがとうございます。そして、同時に、ようこそリカードの世界に、と言いたい。
いきなりですが、皆さんは、どのような気持ちでリカードの「経済学および課税の原理」を読みたい、或いは理解したいと思っているのでしょうか?
比較優位の原理について詳しく知りたいから? それとも農産物の輸入自由化の影響について知りたいから? それとも地代の理論について知りたいから? それともリカードの中立命題について知りたいから?
或いは、そのような具体的な目的があるわけではないが、古典経済学についてじっくりと学びたいと思うからなのでしょうか?
リカードいずれにしても経済学を学ぶには、アダムスミスやリカードの考えを知ることが必要不可欠だ、と思う人が多いのではないでしょうか?
私の場合には、比較優位の原理が「経済学および課税の原理」のなかでどのように記述されているのかを知りたかったから読み始めたのですが、その時期は50歳台になってから。役所を少しばかり早く退職した後に読み始めたのです。本当は学生時代に読むことができたらよかったと思うのですが、当時は、文庫本では出版されていなかったのです。
ということで、50歳台になってから読み始めた「経済学および課税の原理」なのですが、読み始めてみると、非常に共感できる部分と、何を言いたいのか意味がよく分からい部分が混在しているような印象を持ちました。
何度繰り返して読んでもよく分からない箇所がある。そこで、原書を読んでみたらどうかと思ったのです。そして、原書を手に入れて読んでみると、リカードの言いたいことが必ずしも正確に訳されていない箇所が幾つも見つかったのです。これでは分からない筈だ、と。そこで、いっそのこと自家製の改訳版を作ってみてはどうかと思い、実際に作ってしまったのです。
我々の大先輩たちに悪いのですが、こうした分かりにくい翻訳のせいで、どれだけの勉強しない経済学部の学生を生み出してしまったのか、と感じてしまいました。私の学生時代によく言われたものです。経済学部の学生は勉強しない、と。しかし、ひょっとしたら、その理由の一つは、分かりにくい翻訳のせいであったかもしれないのです。
いずれにしても私はリカードが大好きです。
何故か?
それは、言ってはなんなのですが、彼の書く文体と私の書く文体が似ていることが一つ(これは自慢している訳ではありません。というのも、リカードの文章に魅力を感じる人は少ないと思われるからです)と、もう一つは、リカードが、世間の風潮など全く気にすることなく、いつも中立的な立場で持論を述べたからなのです。
どんなに少数派であっても迎合することなく自説を主張する。これこそが、真の学者であり男である、と。
私は、リカードが好きだから、皆さんに一人でも多く、リカードのことを理解してもらいたいのです。しかし、率直に言って、リカードの「経済学および課税の原理」は翻訳が分かりにくいということを別にしても、実際に難解な箇所が多いのです。
何故か?
それは、彼には、普通の、常識的な考え方をしない癖があるからです。最初に定義を考え、それから演繹的に論理を展開していく。従って、常識的な考え方に囚われ、しかも理論的に考える人が苦手な人は、リカードの本に親しみを感じることはないでしょう。逆に、理論的に考えることが好きな人は、リカードが大変好きになるでしょう。
それに彼は非常に大切なことを述べている。そして、後世の学者に多大な影響を与えた。だから、このリカードの理解することなしに経済学を学ぶことはできないと言ってもいい。
私が、この講座を始める趣旨がお分かり頂けたでしょうか?
ということで、この講座は、私の自家製の改訳版を基にして分かりやすく「経済学および課税の原理」を解説していこうというものなのです。1週間に1度、金曜日に解説記事を有料で読んで頂きます。
いずれにしても、リカードの「経済学および課税の原理」を一言で言えば、どうなるのか?
実は、この書物は、リカードがアダムスミスの「国富論」を読んで、その感想と言うか批判をしたのがこの「経済学および課税の原理」であると言ってもいいのです。
従って、アダムスミスの「国富論」を読まずにこの「経済学および課税の原理」を読み始めても、リカードが何を言いたいのかがなかなか分からない。逆に、「国富論」を読んだ後で読めば、リカードの言いたいことがよく理解できる上に、さらに国富論の理解が一層深まるのです。
繰り返しになりますが、リカードの文章は難解です。その上、彼が勘違いしているような箇所も見られるのです。従って、彼の言っていることが理屈として正しい筈だと思って本を読み進めると、フラストレーションが溜ることもある訳です。
リカードも人間なのです。勘違いは大目に見て上げましょう。そんなときは、皆さんに代って、私が、「分かりません!」と叫びます。
それでは、早速講座を開始することに致しましょう。
第1回 2013年5月3日(金)
先ず、「リカードの経済学および課税の原理」の目次をご覧頂き、どのような内容が書かれているのか、自由に想像して頂きたいと思います。
目次
序文
お知らせ
第1章 価値について
第2章 地代について
第3章 鉱山の地代について
第4章 自然価格と市場価格について
第5章 賃金について
第6章 利潤について
第7章 海外貿易について
第8章 課税について
第9章 原生産物に対する税
第10章 地代に対する税
第11章 十分の一税
第12章 地租
第13章 金に対する税
第14章 家屋に対する税
第15章 利潤に対する税
第16章 賃金に対する税
第17章 原生産物以外の商品に対する税
第18章 救貧税
第19章 投資先の突然の変化について
第20章 価値と富、その性質の違い
第21章 利潤と利子に及ぼす資本蓄積の効果
第22章 輸出奨励金と輸入制限
第23章 生産奨励金について
第24章 地代に関するアダムスミスの教義
第25章 植民地貿易について
第26章 粗収入と純収入について
第27章 通貨と銀行について
第28章 豊かな国と貧しい国の金、穀物、及び労働の相対価値について
第29章 生産者によって支払われる税
第30章 価格に及ぼす需要と供給の影響について
第31章 機械について
第32章 マルサス氏の地代論
目次を見ても、それほど興味が湧くということはないと思いますが、最初は、価値の話から始まり、その後、地代、賃金、利潤、貿易の話などの後、一転、課税の話になるのです。そして、課税の話が一通り済むと、また、地代や貿易の話が繰り返されるのです。
目次の後に、序文が続きますが、内容はそれほど重要とは思えないので、序文の説明は最後に回したいと思います。
では、第1章の価値について読んでみましょう。以下、普通に記述する文章は、「経済学および課税の原理」の私が作成した改訳版からの抜粋であり、それに対する解説は、枠で囲って表記することにしますので、その旨ご了解ください。
第1章 価値について
第1節
商品の価値、即ち、その商品と交換される他の商品の量は、その生産に必要とされる労働の相対量に依存し、その労働に対し与えられる代価が大きいか小さいかに依存するのではない。
【解説】
いきなり難解な文章から始まります。リカードは一体何を言いたいのでしょうか? でも、この第1節の全体を読むと、リカードが何を言いたいのか次第に分かってきますので、解説は後からすることにしたいと思います。
いずれにしても、意味が分からないながらもこの文章の意味を自分で想像しながら、声に出して何回か読むことをお勧めします。英語に自信のある方は、原書を手に入れ、英文を合わせて読んで頂くと、大変効果があると思います。なお、ネット上でも原文を閲覧することが可能です。
最初から分かりにくい文章に遭遇してしまいました。皆さんの気持ちも代弁して、私が大声を上げます。
リカードさん、何を言いたいのですか。難しくて分かりません!
【使用価値と交換価値】
アダムスミスによって次のように言われてきた。
アダムスミス「価値という言葉は2つの異なった意味を有し、それは、あるときは特定の対象物の効用を示し、またあるときはその対象物を保有することが伝える他の商品の購買力を示す。一方は使用価値と呼ばれ、他方は交換価値と呼ばれるだろう」
彼は続ける。
「最大の使用価値を有するものがしばしば殆ど或いは全く交換価値を有しない。それとは反対に、最大の交換価値を有するものが殆ど或いは全く使用価値を有しない」
空気と水は大変に有益である。それらは実際生きるために欠かせないものである。それでも通常の場合には、それらと引き換えに何も得ることはできない。それとは反対に、金は空気や水と比べて殆ど役に立たないが、他の商品の多くと交換されるものである。
それでは、効用は交換価値の尺度ではない、もっとも、効用は交換価値にとって絶対に必要なものであるが。もし、ある商品が何の役にも立たなかったならば、他の言い方をすれば、それが我々に有難味を感じさせることができなければ、それがどんなに稀少であっても、またそれを調達するためにどれだけの労働が必要であろうとも、交換価値を有することはないであろう。
【価値の源】
商品は、効用を有すれば2つの源からその交換価値を生みだす。商品が稀少であることと、商品を手に入れるために必要とされる労働量から。
その価値が稀少性によってのみ決定される商品がある。そうした商品は、労働によってその量を増やすことはできない。従って、供給量を増やすことによってそれらの商品の価値を低下させることはできない。珍しい彫像や絵画、稀少な書物や硬貨、そして特殊な土壌で栽培されるぶどうからしか造ることのできない非常に量の限られた特殊なワインが、こうしたものの例である。そうした商品の価値は、それらを当初生産するのに必要とした労働量とは全く無関係であり、そうした商品を手に入れたいと欲する人々の富と好みに応じて変動する。
しかし、こうした商品は、市場で毎日交換される商品全体のなかのほんの一部に過ぎない。欲しいと思う商品の大部分は、労働によって手に入れられる。そして、そうした商品は、もし我々がそれを調達するために必要な労働を幾らでも投入する用意があれば、一つの国だけでなく多くの国において殆ど際限なく増大させることができる。それでは、商品について、或いは商品の交換価値について、或いはまた商品の相対価格を規定する法則について論ずるとき、我々は、人間の勤労の発揮によってどれだけでも量を増やすことのできる商品、そしてその生産に当たって何の制約もなく競争が行われる商品のことだけを常に想定する。
【原文解説】
原書の英文が、過去、どのように翻訳されていたかをご紹介するのがこの「原文解説」のコーナーです。英文に興味のない方は、飛ばして読んでもらって結構です。
「珍しい彫像や絵画、稀少な書物や硬貨、そして、特殊な土壌で栽培されるぶどうからしか造ることのできない非常に量の限られた特殊なワインが、こうしたものの例である」に相当する原文は次のとおり。
Some rare statues and pictures, scarce books and coins, wines of a peculiar quality, which can be made only from grapes grown on a particular soil, of which there is a very limited quantity are all of this description.
この英文は、従来、例えば次のように訳されてきた。
「いくつかの珍しい彫像や絵画、稀観の書物や鋳貨、広さがきわめて限られている特殊な土壌で栽培されるぶどうからだけしか醸造できない特別な品質のぶどう酒、これらの物はすべてこの種類に属している」(羽鳥・吉澤訳、「経済学および課税の原理」岩波文庫。以下「羽鳥・吉澤訳」と言うときにはこの書物を指す)
この訳は、of which以下の文章がa particular soilを修飾すると解釈しているのだが、そうではなくwhichはwines of a peculiar qualityを指すものと理解すべきである。こうした理解が正しいことを裏付けるように、第17章には次のような表現が出てくる。
Those peculiar wines which are produced in very limited quantity, and‥
【投下労働量と価値】
社会の初期の段階では、こうした商品の交換価値、即ち、他の商品と引き換えにある商品がどれだけ与えられなければならないかを決定する規則は、殆んど各商品に費やされた相対的労働量だけに依存する。
「全ての物の真実の価格は」とアダムスミスは言う。
「全ての物が、それを手に入れたいと思う人に本当にかける費用は、それを手に入れるための苦労と面倒なのである。それを手に入れた人、そしてそれを処分したいと思うか他の何かと交換したいと思う人にとって、全ての物が実際に有する価値は、彼が被らなくて済む、そして他の人に押し付けることのできる苦労と面倒なのである」「労働は最初の代価であった。全ての物に対して支払われた最初の購入通貨であった」
もう一度。
「資本の蓄積と土地の私有化の双方に先立つ社会の初期の未開な状態においては、異なった物を手に入れるために必要なそれぞれの労働量の割合が、それぞれの商品を交換する際の何らかの規則を与えることのできる唯一の事情のように見える。例えば、もし狩猟民族の間で、1匹のビーバーを仕留めるのに1頭の鹿を仕留める場合の2倍の労働がかかるのが普通であれば、1匹のビーバーは自然に2頭の鹿と交換されるであろうし、2頭の鹿の価値があることになろう。通常2日間の或いは2時間の労働よって生産されるものが、通常1日の或いは1時間の労働によって生産されるものの2倍の価値があるのは自然なことである」(注)第1巻、第5章
【解説】
「資本の蓄積と土地の私有化の双方に先立つ社会の初期の未開な状態」とはどのような状態を意味するのでしょう? そしてまた、アダムスミスは、それによって何を意味したいのでしょうか?
資本の蓄積と土地の私有化の双方に先立つ状態とは、資本家がおらず、また、地主もいない状態を意味します。つまり、社会の原始的状態においては、全ての人が労働者であり、そのときには資本家と地主がいないのです。だから、人々が生産したものは、全て労働者のものになるのです。
では、経済が発展すると、どうなるのか?
経済が発展して資本の蓄積が進むと、資本家が登場します。そして、土地の私有化が始まると、地主が登場します。従って、そうなると、生産物の全てを労働者が独り占めすることはなくなり、労働者、資本家、地主の三者で分配されるようになるということをアダムスミスは言いたいのです。
これが実際、人間の勤労によって増やすことができない物を除く全ての商品の交換価値の基礎であるということは、政治経済学における最も重要な教義である。
価値という言葉にまつわる漠然とした概念と同じほど、この学問において多くの誤りや多くの意見の相違が発生する原因はない。
もし、商品に現実化された労働量が商品の交換価値を規定するのであれば、労働量が増える度にその労働が投入された商品の価値を高めるに違いない、労働量が減る度に商品の価値を低下させるに違いないように。
【アダムスミスの考え方】
交換価値が発生するそもそもの源についてそれほど正確に明らかにし、そして、全ての物は、それらの生産に投下される労働量が多いか少ないかに比例して価値が大きくなったり小さくなったりすると一貫して主張すべきであったアダムスミスは、彼自らもう一つの価値の標準尺度を樹立した。そして、商品が多くのこの標準尺度と交換されるか、少ない標準尺度と交換されるかに比例してそれらの商品の価値が大きくなったり小さくなったりするかのように話をする。
彼は、時には穀物を標準尺度とし、また時には労働を標準尺度とする。何らかの商品の生産に投入された労働量ではなく、その商品が市場で支配することのできる労働量なのである。あたかもこの2つのものが同じことを表現しているかのように話をし、あたかも人間の労働が2倍効率的になったから、従って人が2倍の量の商品を生産することができるようになったから、人は必ずやそれ(【注】労働)と引き換えに以前の量の2倍の商品を受け取るであろうと、言うのである。
もし、これが本当に真実であったとすれば、そして労働者の報酬は常に彼が生産したものに比例するとすれば、ある商品に投下された労働量とその商品が購入することのできる労働の量は等しくなるであろう。そして、どちらによっても他の品々の価値の変動を正確に計測するかもしれない。しかし、それらは等しくない。最初のものは多くの状況において一つの不変の価値と言える。従って、他の品々の価値の変動を正しく示す。後者は、それと比較される他の商品の価値の変動と同じように変動を被る。
アダムスミスは、金と銀などの価値が変動する仲介物は、他の品々の変動する価値を決定するには十分な資格がないことを見事に解明した後、彼自身、穀物或いは労働に決めることによって、価値が変化しない訳ではないものを仲介物に選んだのである。
【解説】
リカードが何故アダムスミスを批判するのか、その理由がお分かりでしょうか?
先ず、アダムスミスが、価値に関してどのような考えを持っていたかを整理してみましょう。
<アダムスミスの考え>
・二つの価値
価値には、使用価値と交換価値がある。
・交換価値は、商品の生産に投入された労働量が決定するとともに、商品が購入する(支配する)労働量が決定する。
・交換価値の価値尺度は、労働および穀物の二つである。
リカードは、このアダムスミスの考えのうち、穀物が価値尺度になるという考えを否定します。何故ならば、穀物を1単位生産するのに必要な労働量は変化するから、穀物の価値は変化するものだ、と。これに対して、アダムスミスは、1単位の穀物が養うことのできる労働量は一定だから、穀物の価値が変わることがないという考えです。
さらに、リカードは、商品が購入する(支配する)労働量が商品の価値を決定するというアダムスミスの考えを否定します。
しかし、商品の価値とは、まさにその商品がどれだけの量の他の商品と交換されるかということですから、リカードの主張はおかしく見えるのです。従って、それでもリカードの主張が正しいものだとするならば、そのとき、リカードは商品のあるべき価値について論じているのであって、現実の価値について論じているのではないことになるのです。
またリカードは、「もし、これが本当に真実であったとすれば、そして労働者の報酬は常に彼が生産したものに比例するとすれば、ある商品に投下された労働量とその商品が購入することのできる労働の量は等しくなるであろう」と言います。つまり、リカードは、労働者の賃金が、労働者が生産したものに一致しない、と言いたいのです。
しかし、仮にリカードが言うことが真実だとしても、ある商品に投下された労働量とその商品が購入することのできる労働量が一致する傾向があるのは、彼自身が認めているのです。
リカードは、冒頭で「商品の価値、即ち、その商品と交換される他の商品の量は、その生産に必要とされる労働の相対量に依存し」と言っていたでしょ?
「商品の交換価値」とは、「その商品が支配できる他の商品の量」のことであり、それは「当該商品の生産に投入される労働量」によって決まる、と。
では、リカードは何を言いたいのか? 或いは何か誤解しているのか? リカードが冒頭で言った言葉をもう一度思い出しましょう。
「商品の価値、即ち、その商品と交換される他の商品の量は、その生産に必要とされる労働の相対量に依存し、その労働に対し与えられる代価が大きいか小さいかに依存するのではない」
リカードは、商品の価値が、その商品を生産する労働量によって規定されることは認めるのですが、その一方で、その商品を生産した労働者は、投入した労働量に見合う他の商品を支配することができるかと言えば、それはない、と言いたいのです。
では、当該商品が、その生産に必要な労働量に見合う交換価値を持つ一方で、その生産に労働を投入した労働者が、それに見合った賃金を得ることがなければ、その差額は誰が得るのか?
それは利潤となり、資本家が得るのです。
ところで、そのようにアダムスミスは、投入した労働量に見合う賃金を労働者が得ると言い、その一方で、リカードは、そうではないと言うので、一見、大きな意見の対立があるかに見えるのですが、実はアダムスミスも、そのように労働者が生産した商品の価値を独り占めできるのは、資本家が本格的に登場する前の段階のことであると言っているので、本当は、アダムスミスの考えもリカードの考えも同じであるとも言えるのです。
【価値尺度としての金と穀物】
金と銀は、新しい、より豊かな鉱山の発見から生じる価値の変動を間違いなく受ける。しかし、そうした発見は珍しいことであり、その影響は大きいとはいっても比較的短い期間に限られたことである。それらはまた、鉱山を稼働させる技術や機械の改良によって生ずる価値の変動を被るであろう。というのも、そうした結果、同じ量の労働でより多くの金と銀が手に入るかもしれないからだ。それらはまた、鉱山が永年に亘り世界に金と銀を供給し続けた結果、鉱山の生産量が落ちることによる価値の変動を被るであろう。
しかし、穀物はそうした価値の変動原因のどの影響を免れるのか? 一方では、農業の改良から、また農耕に用いられる機械や道具の改良から価値が変動することはないのか? 他の国ならば耕作に供されるかもしれず、そしてまた、穀物の輸入が自由である全ての市場の穀物の価値に影響を及ぼすような新しい肥沃な地域の発見から価値が変動するのと同じように。他方では、穀物の輸入の禁止から、或いは人口や富が増えることから、さらに質の劣った土地を耕作せざるを得ないために追加の労働が必要になることから、穀物の価値が高くなる影響を受けないのか?
次回に続く