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東京五輪で料理人の男性、「貴重な機会」若者へエール/横浜

2013年9月14日

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「練習用メニュー」を広げて東京五輪選手村での調理を思い出す鈴木勇さん=横浜市磯子区のセンターグリル洋光台店

「練習用メニュー」を広げて東京五輪選手村での調理を思い出す鈴木勇さん=横浜市磯子区のセンターグリル洋光台店

 2度目の東京五輪決定に、選手村の調理場に立った若き日を振り返る料理人がいる。横浜市磯子区の洋食店「センターグリル洋光台店」のオーナー鈴木勇さん(73)は、1964年の東京五輪選手村で料理人を務めた一人。日本中の一流シェフらとともに調理した経験は、現在にも影響を与えたといい、「若い世代はチャンスがあれば東京五輪に参加して、腕を磨いてほしい」と期待を寄せている。

 鈴木さんは川崎市立中学校を卒業後、横浜市中区の洋食店「センターグリル」に住み込みで働いていた時、東京五輪選手村の料理人として派遣された。全国のホテルのシェフ約300人が担当する予定だったが集めきれず、各県のレストランから応援に出すことになったためだ。

 当時24歳。勤務先の社長から「いい勉強になるから」と送り出された鈴木さんだが、「期待半分、不安半分だった」と振り返る。

 現在の代々木公園(東京都渋谷区)にあった選手村には三つの食堂が設けられ、後に帝国ホテル料理長となる故・村上信夫さんが率いる「富士食堂」に配属された。

 東京五輪を成功させようという熱意は、調理場にも漂っていた。開会前から調理人には「オリンピック・メニュー」と題した27枚の練習用メニューが配られ、鈴木さんも洋食店の勤務を終えた後、インド料理のピタパンや、フィリピン風ピラフなどのメニューを練習してから本番に臨んだという。

 選手村が開かれると、近くの宿舎に1カ月間泊まり込み、朝4時から朝食の仕込みなどにいそしむ日々。現地観戦はおろかテレビを見る暇も全くなかった。

 しかし、料理をともに担ったホテルのシェフたちからは、手際のよさや、調理技術の高さなど学ぶことばかりだった。「レストランで9年働き、てんぐになりかけていたが、五輪で一流の仕事に触れ、謙虚に努力を続けなければと痛感させられた」と鈴木さん。

 アジア初の五輪だったこともあり、日本での食事に不安を抱いて、自国から料理人を同行させた参加国もあった。しかし、鈴木さんらの仕事ぶりを見て安心し、途中で帰国しようとする料理人もいたという。

 食堂での選手との会話は禁止されていたが、重量挙げで優勝した三宅義信さん(73)が、調理場まで「おかげさまで金メダルが取れました」とあいさつに来てくれたのも、忘れられない思い出だ。

 「五輪の調理場に立った経験は自分の人生の大きなプラスになった」と話す鈴木さんは、その後も料理の腕を磨き続け、五輪から10年後の74年にのれん分けして独立。現在も調理場に立つ。「若い人たちには、競技以外でもなるべく東京五輪に関わって、その後の人生に生かしてほしい」。2度目の東京五輪の担い手となる現役世代にエールを送っている。


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