南条あや 実像と偶像を併せ持つネットアイドルの魅力と現在
卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫)
(2004/02)
南条 あや
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(実際は、彼女の日記の後半部を中心に構成されている)
10年以上前にたまたま、南条あやの特集が組まれた番組を目にし、彼女が「ネットアイドル」と注目されたが、死んでしまったという内容が10歳に満たなかったにも関わらず、私の頭に焼きついた。
(扇情的な内容であるが、本人が実際にインタビューをしている貴重な映像でもある)
南条あやの死後10年以上経過するが、今なお、彼女に関するスレッドや南条あやのことを意識した歌が製作されるほど影響を与えている。
南条あやの保護室
(現在でも、ネット上で彼女の日記を閲覧することができる)
没後12年「南条あや」を語ろう
(南条あやに関するスレッドは現在進行形で立っている)
南条あやは、ネットコミュニケーション・精神病の社会現象化黎明期、自殺大国化の90年代後半に登場した人間である。
多くの社会属性を背にする南条あやという人間の影響やネットアイドルという現象について考えていく。
アンビバレントがキャラクターを超える
南条あや本人も抵抗があったようだが、「ネットアイドル」という呼称は非常に不思議な感覚がある。
ただ、私は少数意見だと思うが
・歌がうまい
・容姿端麗
・頭がいい
とは違った次元で彼女には魅力がある。
それが
アンビバレントな人間味
アンビバレントとは、心理学でよく使われる用語で、一つの物事に関し楽観・悲観、一つの人間に対し好き・嫌いといった矛盾した二つの感情を併せ持つ様のことを指す。
ここでは両極端な感情という意味で使う。
さて、題目にある「アンビバレントがキャラクターを超える」であるが、少し話をそらしてフィクションの登場人物に焦点を当てよう。
ベジータ(ドラゴンボール)、蔵馬(幽遊白書)、サスケ(NARUTO)
挙げたキャラクターいずれも、主人公よりも人気のある、支持されるキャラクターである。
彼らの共通点は、アンビバレントな性質にある。(かっこいい、強いという特性をある程度、備えながらも)
例えばベジータは惑星のエリートで普段はいばりっぱなしだが、自分より強い敵に会うと途端に「もうおしまいだ」とヘタレキャラに変わる。
蔵馬は、元々残酷な妖怪盗賊であったが、人間界に逃げ込み、人間の子どもとして育てられたことで人間に恩義を感じるようになる。普段は温厚だが、自分の近親者や人間に危害を与える妖怪などには容赦しない。
さらにこの3つの漫画の主人公は、いずれも一貫性のある…いや一貫性しかない一つの強固な性格を持つ
まさに「キャラクター」である。
ほぼキャラクターのみで構成されている「スラムダンク」や「ワンピース」では、より強い感情や喜怒哀楽を発したキャラが人気を得やすいが、こうした二つの相反する性格を持つキャラがいる漫画では、一定の固定層がつきやすい。
南条あやをアイドルとして仮定すると、これまでのアイドルは、まさに偶像
一つの強烈な性格や特技を売りだして人気を獲得してきた。
南条あやの武器は、不謹慎に聞こえるがいじめ体験、自殺未遂から通ずるリストカット、精神薬依存という、傍から聴くと陰惨な現状を思わせない、明るく脚色された日常である。
二つ例をあげよう
散々、「理解のなさ」を理由に馬頭していた父に、「勝手に生きろ」と言われた際に彼女は
好き勝手生きて、いいんだね。
私じゃ父の心を癒してあげられないんだね。
じゃあ私の存在価値って、何なんだろう。(p267)
今までフリーターになることに抵抗がなく、デイケアやレストランを経営する父の手伝いという青写真を描いていたが
私は焦っているのかも知れません。みんな4月になれば専門学校、短大、大学、就職、それぞれの道を歩んで行くのに、私だけ、一人取り残されたような。ソレも、自分の怠慢のせいで。なんか、精神状態が退院したときと同じような状態になっているような気がします…
「いったい本心はどこにあるんだろう」
「何をいま考えているんだろう?」
同じような境遇に立っている人間はもちろん、全く外野であっても彼女の言葉に注目してしまう。
アンビバレントというのは、その人間を不可思議にすることで興味を持続させる。
飽きが理解の延長線上という考えからなる新しい属性ともいえる。
注目されるという枷
だが、いきなり第三者から注目されることが南条あやにとって必ずしもプラスといえるだろうか。
確かに日記を見る限り、誰かから励まされたり、自分のアドレスを公開して、誰かとつながることに喜びを覚える様子はうかがえるし、読者からも「目立ちたがり屋」と分析されるほど、彼女の日記は「他人に見られることを意識した文」になっている。
「他人に見られることを意識した文」をしっかり実行できることは才能だと思うが、それが彼女の枷になったのではないかと同時に思う。
きっかけはこの日記2月12日の覚醒失敗から
この頃安定しているから今ひとつ話題に欠けます。(笑)日常生活のことを話して、状態を聞かれて。そんなカンジで終わりですもの。まぁ先生はこのような状態の方が診察楽でお金が取れていいんでしょうけど、同k社の皆様はもっと荒廃した私の精神状態を期待なさってる方もいらっしゃるんじゃないかと思います。
やーん、また静脈切断ぶっしゅー、とかエヘヘ、援助交際始めて理想の父親像を探しに来ます、とか
トラックに突っ込んでみました♪とか。思っていませんか?微塵も?ハハン。(p249)
年が変わる1999年の1月から、日記の冒頭に「これはフィクションです」と前置きをつけて、違法な話(作り話かは定かではないが…)を語ったり、父親に「勝手に生きろ」を言われ、言い争ったエピソードを誇張的に書くといった内容が見られる。
ここで考えたのは、南条あやは、周りから
「悲惨な過去や精神状態をを売りにしている女子高校生」
と強固に思い込んでいる点ではないかと思う。
中には、そうした彼女の生活環境に共感して読んでいるファンもいただろう。だが重ねて言いたいのは南条あやは陰惨な日常を明るく脚色するわずかな光明に共鳴したファンが多いということ。
日常であった些細なトラブルや喜びを誇張して描くという行為は、リアリティから逸脱している。しかし、それが南条あやの紛れもない「文才」であり
絶望にうちひしがられ傷つく心と、現実を見つめ自分なりの生き方を見つめるアンビバレントな魅力を生んでいる。
南条あやは、「南条あや」としてどう立ち回ればいいかという考えにやや振り回され、人生を変える、明るく生きる(そんな簡単なことではないが)ことをどうしても許容できなかったのではないかと考えてしまう。
注目されたことが、彼女の生きる活力であったことは事実だと思うが、同時に生き方を束縛されているという考え方ができるのは、現在のアイドルへの見方とそれほど差異がない。
カウンターカルチャーの必要性
ここが一番の本題かも知れないが、この本についてアマゾンレビューをぼーっと眺めるとあるひとつのレビューに惹かれた。
水谷 修さんが書き込んだレビュー
夜回り先生と呼ばれる水谷です。
この本のために多くの子どもたちを失いました。
哀しい。哀しいです。
本を出版する人間には、責任があります。
人の幸せのために、人の明日のために、本は作るべきものです。
私は、そのために、本を書いています。
人を死に追い込む可能性が、すこしでもあれば、そんな本は出してはいけない本です。
哀しい本です。
哀しい、哀しい本です。
まず、これが本当に夜回り先生、水谷修本人が書き込んだレビューか判別できない。
私は、水谷修氏の著書や講演を実際に聞いたことがあるが、確かに彼の思想は常にポジティブであり、そこに人を惹きつける魅力はあると感じたし、このレビューは本人が書いたのではないかと思わせるような説得力を持っている。
実際、南条あやは中学一年に「完全自殺マニュアル」を購入し、服薬自殺という概念を知った。
完全自殺マニュアル
(1993/07)
鶴見 済
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(1993年発行以来、120万部を突破する大ベストセラーを記録するが、現在では18禁図書に指定されるなど多くの物議も醸している。著者本人は、自殺をさせることを目的ではなく、いつでも自殺できるという安心感を持つことで逆に生きることに前向きになってほしいという想いで書いている)
社会学者が90年代、バブル崩壊と自殺者年3万突破という絶望を象徴する際に紹介する一冊である。もちろん、この本を手にして自殺を選んだ読者はいるだろう。しかし、この本は、自殺のきっかけになりえただろうか?この本を読んで自殺したいとわくようになるか?
こういった本に関する批判は暴力ゲームや映画が犯罪行為に結びつくという主張と酷似している。しかし、それは本来の人間性が関係したり、その人の生活環境に起因する問題で、こうしたカルチャーが人を直接、暴力的にするといった証明はされていない。
むしろその逆は考えないのだろうかと常日頃思う。
「努力や希望」ではなく「絶望や鬱積」という相反する主張を織り交ぜたカウンターカルチャーを求める層は絶対的にいる。
人生に光明が見出せず、挫折した人間に「がんばろう」は最大の毒であり、ただの努力の押し売りともいえる。
そういう時にコミットできるカルチャーがあるとすれば、それは「カウンターカルチャー」というのが私の主張。
ただ、カウンターカルチャーは、生産性を喚起するメインカルチャーがあるから成り立つのも事実。
南条あやの本を読んで、リストカットやオーバードーズを起こす人もいるだろうし、それらを経験した人が傷つくこともある。しかし、それと同数ほどこの本を読むことで同じ苦しみを経験した人が共感によって癒され、立ち直る契機にもなりうる。少なくともそういう希望の芽がある本は、残してもらいたいというのが私の考えだ。