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scene 01 蘇我氏一族の勢いを止めないと…
聖徳太子が亡くなってから、豪族(ごうぞく)の蘇我入鹿(そがのいるか)が力を持ち、天皇さえもしのごうとしていました。入鹿は朝廷(ちょうてい)の政治をほしいままにしていたのです。天皇を父母に持つ中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、この状況(じょうきょう)をどうにかしないと、と考えました。蘇我氏一族の勢いを止めないと…。蘇我入鹿をどうにかしないと…。
scene 02 豪族たちの勝手なふるまい
天皇の息子として生まれた中大兄皇子は、当時最も力のあった豪族(ごうぞく)の蘇我入鹿をたおし、政治の改革を行いました。聖徳太子が亡くなったあと、豪族たちは勢力をのばし、好き勝手にふるまうようになっていました。豪族たちは、天皇から人々をまとめる仕事をあたえられていました。しかし、その仕事を代々受けつぐうちに、天皇にわたるはずの富を自分たちで使うようになっていたのです。
scene 03 蘇我氏をたおす計画
その豪族(ごうぞく)たちの頂点に立っていたのが、蘇我氏です。蘇我氏とは、聖徳太子と力を合わせて政治改革を行った蘇我馬子(そがのうまこ)の一族。その孫の入鹿が、天皇をしのぐほどの富や権力を持つようになっていたのです。当時19歳(さい)だった中大兄皇子は、豪族の一人、中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともに、蘇我氏をたおす計画をくわだてます。それを持ちかけたのは鎌足だといわれています。
scene 04 蹴鞠をきっかけに
皇子と鎌足の出会いは、飛鳥寺(あすかでら)の蹴鞠(けまり)の会のときといわれています。皇子が蹴鞠に夢中になり、鞠をけった皇子のくつが、勢い余ってぬげてしまいました。そのくつを拾って皇子に差し出したのが鎌足でした。自分より低い身分の鎌足に向かってていねいに礼を言う皇子。その態度を見て鎌足は、この人こそ次の天皇にふさわしい人物だと考えるようになったのです。
scene 05 ドキリ★蘇我氏をたおし「大化の改新」を行った
そして、645年6月。飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)でついに事件が起こりました。中大兄皇子自らが剣(けん)をふるい、蘇我入鹿をたおしたのです。これにより、蘇我一族の勢力はおとろえました。その後、中国から帰国した留学生などとともに、すべての土地と人々を天皇が治める新しい政治の仕組みをつくることをめざしました。そしてこの年、中国にならって、初めて、「大化(たいか)」という年号を定めました。この改革を、「大化の改新」といいます。
scene 06 天皇を中心とする国づくり
天皇を中心とする国づくりとは、一体どのようなものだったのでしょう。有力な豪族(ごうぞく)は、「貴族」という位の高い役人となり、政治に参加する仕組みがつくられました。これが、貴族の始まりです。これにより、それまで豪族が支配していた土地や人々は、国が直接支配することになりました。地方は国や郡に分けられ、都から役人を派遣(はけん)しました。中央の政治がすみずみまで行きわたるようにしたのです。
scene 07 ドキリ★土地や人々、税の制度が定められた
さらに、農民が国に納める税の制度も整えました。租(そ)は、イネのとれ高のおよそ3%を納めます。調(ちょう)は、織物や地方の特産物を納めます。庸(よう)は、年に10日間都で働くか、布を納めます。こうしたことが、税として農民の負担となったのです。また、朝鮮半島や中国大陸からの勢力に備えて九州北部を守ったり、都の警備もしたりすることになりました。兵士として国を守る役目も果たさなければならなくなったのです。
scene 08 天智天皇と藤原一族
中大兄皇子は、その後、天智(てんじ)天皇となります。そして中臣鎌足は、大化の改新の功績がみとめられ、「藤原(ふじわら)」という格式のある姓(せい)をもらいます。その子孫は代々貴族として栄えました。
scene 09 年号ごろあわせ
645年は、大化の改新の年。こう覚えてはいかがでしょう。「むかしご(645)うぞくの世。今、天皇の世。大化の改新で政治が変わる」。