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ここですが

言ってもわからないでしょうが。



>唯円房の訴え――念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬ――ではありませんよね。



唯円房が既信なら、祖師聖人と同じ懺悔のお気持ちでしょうね。

「ではありませんよね」というのは懺悔と歓喜は別と思っておられるからですよ。

同時にあるんですが、未信にはわからないことです。


>煩悩具足をご自分の手柄のように

これも同じです。

懺悔なら歓喜ではない、歓喜なら懺悔でないというのは

本願海を知らない人です。

合点では通れないところですから、これ以上お話しても無理でしょう。

歎異抄なんかあなたにちゃんと読めるはずがないじゃないですか。


はやく気付かれることを念じております。



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最後のコメントです

>唯円房が既信なら、祖師聖人と同じ懺悔のお気持ちでしょうね。

では以前管理人さんのおっしゃった

>お念仏となえていても慶べないのは「闇が破れていないから」です。

と、『歎異抄』第9条の唯円房の訴え――念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬ――との整合性はどのように説明されますか。


また、当エントリーにて、

>懺悔と歓喜は別と思っておられるからですよ。
>同時にあるんですが、未信にはわからないことです。

とおっしゃられていますが、一方で管理人さんは「 常歓喜 常懺悔 」(http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-227.html)にて、

>「踊躍歓喜のこころおろそか」とは全然無いということです。
>「これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。」が
>「踊躍歓喜」です。

というふうに、それぞれ別の個所を挙げて歓喜と懺悔とを説明なさいました。「同時にある」のであれば、なぜそのようにわざわざ別の個所を挙げて説明する必要があるのでしょうか。当エントリーのように最初から「同時にある」とした上で、「唯円房の訴えは真実信心を獲た念仏者の懺悔であり、また歓喜である」とすればよかったでしょうに。

そして前回のコメントで私もちゃんと書いているでしょう。

>煩悩を捨てようと思っても捨てきれない、それこそが煩悩具足であるという意味での「罪は 渡さぬ」という悲しい述懐であり、またそのような煩悩具足の凡夫をこそ正客として救い給う阿弥陀仏の慈悲あってこその「喜びのもと」なのですね。そして「こら阿弥陀 助けたいなら 助けさそ」は、「領解文」に示される浄土真宗の安心、即ち「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ」にほかなりません。

と。わかってますよ、歓喜と懺悔は別じゃないって。


>合点では通れないところですから、これ以上お話しても無理でしょう。
>歎異抄なんかあなたにちゃんと読めるはずがないじゃないですか。
>はやく気付かれることを念じております。

どうやら通算3回目?の私との議論打ち切りのお申し出のようです。単なる一読者に過ぎない私が約一年にわたってコメントを書き続けるというのも厚かましい話でしたし、今回を以て私の最後のコメントといたします。ありがとうございました。

(本当は直接お会いしてお話しするのが一番なのでしょうけどね。例えば学校近くのモントレとかで……)
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