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大越健介の現代をみる

怒りをマグマに ~西田敏行さん~

2011年10月17日 (月)

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インタビュー場所のホテルの一室に現れた西田敏行さんは、テレビや映画で見る、あの西田さんそのものだった。ドアからちょっと顔を出すようにして、「あ、大越さんだ」とおどけて見せる。ユーモアたっぷりで、相手に気をつかわせない。
その西田さんが、激しい怒りをあらわにしたのが福島第一原発の事故だった。春、あるイベントで「ふるさとをけがしたやつは誰だ!」と叫んだ西田さんをご記憶の方も多いだろう。西田さんは、こみ上げる怒りを説明できる言葉を探そうとするように、その後しばらく、原発事故について口にすることを遠慮していたかに見える。しかし、表現者として、世の中に語りかける使命を改めて肝に銘じたのか、郡山で開かれた9月のライブで「あの街に生まれて」を絶唱、そしてこの日、私たちのインタビューに答えてくれた。

(以下インタビュー全文)

西田)
ああっ、大越さんだ。

大越)
はじめまして。

西田)
初めてという感じがしないです、いつも。

大越)
私も初めてという感じがしないです。

西田)
よろしくおねがいします。

大越)
私は初めて被災地に入ったのが南相馬でしたが、津波の後は突然何も無くなったようになりますね。

西田)
小学校中学校の歴史の時間で、日本史をやっているとき、広島長崎が被爆した写真、光景とかなりダブりました。津波は全て持って行くんだな、すごい力だなと思いました。生活の痕跡なんかを全て海の底に持って行ったと思うと、なんだかこの地球の計り知れない力というか自然の力というか、恐ろしいなと顕著に思いました。

大越)
初めて津波の跡に立ったときに、驚きとともにですね、やはりふるさとであるだけに特別な感情を抱かれたんじゃないかと思うんですが。

西田)
そうですね、なんでこんな目に遭わなければならないんだろうという思いと、それから伝えられる中で、原発事故の深刻さがだんだん増してきて、これはただ事じゃないぞという気持ちになってきて。岩手宮城の被害も甚大ですが、それに加えて福島はこの放射性物質の問題がもう一つ我々に覆い被さってきたと思っていて。ちょっと複雑な思いで南相馬に立ったんですけど。もうなんか手が付けられてないという状態ですかね、ただ放置されているという感じでね、それが風に揺られて、いろんな思いがサワサワ揺れているような感じがして、とてもいたたまれない気持ちになりました。

大越)
特に福島の津波の被害地は、岩手宮城とは違い、いろんな心理的な影響もあってか、なかなか重機が入らないし、人の手が入らない状態が続きましたよね。私も同じような感じを抱いたんですけども。

西田)
つち音が聞こえてこないですよね、復興、復旧に対するベクトルが、一生懸命復興に向かおうという気持ちみたいなものが、まだ宮城とか岩手の人たちからは聞こえてくるのですが、福島からは東京にいてもなかなか聞こえてこないところがあって、相当ダメージを受けているなと思いました。

大越)
西田さんの“自分のふるさとを汚したやつは誰なんだと”、絞り出すようにおっしゃっていたのが私は忘れられませんが、あの時の気持ちを振り返られてどうですか?

西田)
そうですね、やはり原子力発電所を立地するに当たりいろいろ葛藤みたいなものは、福島県でもありました。立地にあくまで反対するもの、推進するもの、いろんなものがあって。どこでどういう風に折り合いを付けて、あそこに原発が出来たのかというプロセスはいろいろあったろうと思いますが。一応立地を受け入れたという形での福島県という立場でいうと、原発の存在が日本を経済大国に押し上げた一つの要素なんだろうと、そこは何とか良しとして、絶対に事故は起きないんだぞ、日本の原発は確実に安全なんだからという言葉を一つの頼りにしてずっときたわけです。一方で、(原発が)寿命も来ているぞ、古くなってるぞと危険は福島県民も感じていましたが、経済の歯車が回っている中で急になくすわけにはいかない、停止するわけにはいかないという経営的な思いもあったのか、あるいは防災に対するコストのかけ方があまりにも貧弱じゃなかったのかとか、後に思えばねいろんなことを考えますけども、とにかくやっぱり絶対あり得ないということはないと思い知らされましたね。

僕自身の情操をはぐくんでくれたあのふるさとの美しさが、見た目には一切変わっていないのに、放射線量の高いということで人が入れない住めないという状況になってしまっている状況が。それも汚染されているという言葉でね、いわれることがとっても胸を締め付けられている思いになりました。

大越)
ふるさとのことを聞かせてください。1947年、郡山市のお生まれで。

西田)
団塊の世代です。一クラスだいたい56人から60人近いクラスが13クラスありましたから。本当に多かった。そんな中でみんな中学校卒業するまでには就職する者、家業を継ぐ者などいろんな人たちがいる中で、僕だけ1人、俳優になろうと思っているということはあまりにもリアリティーが無くて、気の置けない友人に、何となく俳優になろうと思うんだという話をしたときにみんな、“俳優な~、う~ん”みたいな感じのリアクションを受けたのを今でも覚えてます。俳優としての自分の情操を本当に育んでくれたという思いがあるから、今ここでふるさとに対して何か恩返ししないという気持ちもすごく強いです。

大越)
郡山で少年時代を過ごす中で、演じる人になりたい俳優になりたいと思ったのは、どんな風にその気持ちは育っていったんですか?

西田)
父が地方公務員で、土曜ははんどんで帰ってきて、学校から僕が帰ってくる頃に合流してですね、“映画行くかと”という感じで、父の自転車の後ろに乗り街まで行って映画を見ました。封切館では無く、2番館、3番館みたいな映画館で、大人60円子供30円でしたね。それで6本立てみたいな感じで。そういうランダムに見た映画の中で、情操を育んでくれた一つかもしれません。

大越)
自転車でやってきて、小さな町で世界の日本のいろんな映画を見ながら、その町と一緒に育ってきたわけですね。

西田)
そうです、そうです。

大越)
福島でコンサートやられたときのトークを聞いたんですけども、阿武隈川で…。

西田)
泳ぎました。

大越)
まさに自然に抱かれて育ったんですね。

西田)
牧歌的な感じのロケーションが繋がっていて、目をつぶるとその時の景色が、映画を見ているときのようにローミングされます。ちょっと好きな女の子もいたりなんかして、意識しながら川の中を歩いていて、わざと彼女の前でおぼれたふりをして、“助けて”とか何とかいってひょうきんなことなんかをしたりしてたんですけども。上流では必ず牛をつれた、田舎ではベコ連れたおっちゃんが来て、縄をたわし状態にして牛の背中を洗ってやるんですね。そうすると必ず気持ちいいもんですから必ず放尿するんですね。(笑)その牛の放尿が長くて、見張りが“ベコしょんべんたっちゃぞ~”とかなんとかいうと、みんな一斉に川から上がるんですね。クモの子散らしたみたいに。そうすると川の真ん中を泡が通過する、それをみんなで見合って、向こういったらまた泳いでみたいな。(笑)

大越)
中学校卒業と同時に上京されるんですね。

西田)
映画を見るときれいな言葉をしゃべっているなと、標準語というか、東京弁がいいなという風に聞こえてきて、“俺このままずっとこの多感な時期こっちで暮らしていると、福島弁が染みついちゃって、もしかしたら標準語をしゃべれなくなっちゃうんじゃないか”という妙な子供なりに考える危機感みたいなものを感じて、早めにいって、東京弁と福島弁、バイリンガルになろうと思った。東京に出たいと両親を説得した。

大越)
東京に行って俳優になりたいんだというときは、両親はどうおっしゃったんですか?

西田)
私がこうやりたいんだと言ったのも万難を排してやらしてやろうという協力体制を取ってくれた。だからとても今でも感謝しています。決して豊かではなかったですけども東京へ1人子供をやって、学生生活を送らせるというのは大変、非常に大変なことだったと思います。母は保険の外交などもやりながら、一生懸命支えてくれたんですね。

大越)
一昔前は中学校を卒業と同時にふるさとを後にされる方が多かったかもしれないですが、実際にその年齢ですね、ふるさとを後にするという気持ちは。

西田)
友人たちが一杯いましたし、中学校時代の友人は今でもつきあっていますけども、一生の宝だと思っております。その友人たちと離れて暮らすというのは、とてもじゃないけど自分の人生の中で一番辛い時期でもありました。みんな福島に残って、福島で頑張るぞという友人たちが多かったですから。電話とかたまに寂しくなってかけたりするのですが、やはり福島弁で彼ら答えてくれるので、自分がまた福島弁に戻ってしまうと思って、一時、その状態も止めて、なるべく会わないようにしていたことも。

大越)
幼なじみとはあえて接触を断つ。

西田)
絶つ時期がちょっとありました。

大越)
やはり俳優として。

西田)
言葉をちゃんと身につけようということはありました。福島訛りというのは、自分では直ったつもりでも、直ってないんですよ。よく演出家に舞台やっているときには、今のは福島弁だなと言われました。

大越)
まだ多感で、精神も不安定であったでしょうが、友達もあえて距離を置くという中で、ふるさとというのが我々とは違う位置づけになったのではないかと想像するんですが。

西田)
たまたま修学旅行で上野動物園に中学校3年の春に行った時に、ちょうどアフリカから連れてこられた最後のローランドゴリラで“ブルブル”というゴリラがいたんですけども。何々動物園生まれですと紹介されたゴリラが多い中、アフリカから来たというのを見て、しかもいつも岩の上に立ち、遙かアフリカの大地を見ているような、遠望している顔があって、それがまるで哲学者のような深い面立ちでずっと見ているんですよ。ものすごく気になりまして。それからふるさと恋しい時、ホームシックになると、上野へ上野へという気持ちがありました。そこでブルブルに会うと、なぜか同じ共通の辛さの中にいるのかなという思いを持って、朝から晩までブルブル見ていると、心が安らぎ、気持ちが楽になりました。ブルブルも自分と目線を合わしてくれるようになって、お互いに見合ったことがありますね。

大越)ふるさとを思う者同士だよねと。

西田)
そういう感じですね。こっちは勝手な思いを持ったんですけど、きっとブルブルもそう思ってたと思います。

大越)
自らのお国言葉を遠ざけながら。大人になるに従い自分の中でふるさとの存在というのはどうなってきましたか?

西田)
やはり仕事で煮詰まったり、芝居で行き詰まったりしているときに、ふっと素直に行きたくなるのが福島の友達の顔を見たいというのと、福島の空気を吸いたいというのがありました。いってみれば心の栄養ドリンクみたいな感じで、ふっと帰っていつも充電してくるというか、そういう場所にはなりました。

大越)
言葉が戻るということであえてふるさとと距離を置こうとした時期をお持ちなわけですよね、その距離を、“そうか、もうその距離を置かなくていいんだ”と思われたのはいつぐらいですか?

西田)
そうですね、自分で一応思ったのは、おまえは舞台役者になったなというふうに、劇団青年座というところに入って俳優の修業をしてそれで初舞台を踏んで、それで地方公演とか行っているうちに、地方を回っているうちに、やっぱり福島にもこの芝居を持って行きたいという思い、友達にも見せたいという思いがあった時に、なんか台詞とか言葉とか別に訛っていてもちゃんと説得できる力を持っている、ましてや方言の方がむしろ力があるじゃないかとだんだん思い始めてきました。その初舞台の舞台踏んでいるときに。その頃からもう大丈夫だ、訛ったっていいやっていう思いはどこかにありました。養成所の頃、基礎を学んでいる頃は、どうしても訛っちゃいけないとか、きれいな舞台でお客様全部に伝わるような発音・アクセントにしなきゃだめですと言われて、一生懸命忠実に守ろうとしましたけども。だんだんオレ流でいいかなと思い始めました。

大越)
それは?

西田)
もう20代後半、27、28くらいの頃だと思います。

大越)
その頃からかつての幼なじみの方々とずっと交流を続けて。

西田)
もうそれ以来、彼らが忘れているくらいの方言も一杯知っているくらいで。“いまそんなことはいわねえぞ”なんて言われるくらい。その時に開放感というか、嬉しさというか、言葉を駆使するときの優越性というか、気持ち良さがあって気持ちいいんですよね。

大越)
同じ北国の出身なのですごくよくわかるのですが、一方で、東京で生活するようになると、ふるさとのありがたさを思うと同時に、ふるさととの絆を保ち続けるのは難しいのではないかなと思ったりもしますが。

西田)
そうかもしれませんけどもね。しかし、なぜか僕たちはうまくいっています。本当に自分の立場とか思いとか、全部とっぱらったところであっという間に中学時代に戻って、何回も会っているから何回も同じ話です。同じ話なんですけど、毎回同じところで笑い、毎回同じところで泣き。なんかね、これ端から見てたらおかしいぞと思われるくらい変なんですけどね。またあの話しているみたいな。

大越)
福島のあの原発が水素爆発を起こしているということを刻々と知るに従って、郷里をどんな風に見つめてらっしゃいました。

西田)
やあ、本当に身内を置いてきて、今、1人単身赴任しているような父親のような気持ちになりましたね。友人たちもとにかく電話が繋がらなくて、“大丈夫か”という一言、“大丈夫だ”という一言聞けば安心なんですけども、なかなか聞こえなくて。それから4日後ぐらいですかね、ようやく電話通じて、“大丈夫だ、でもちょっと、みんなちょっとショックだよ”という声を聞いた途端、早く行きたいと思いました。

大越)
純粋に福島県出身者の1人であると同時に、西田さんは世の中に対して物事を訴えることが出来る存在でもあります。自分がどうしたらどう振る舞ったらいいのか考えたりも。

西田)
思いました。
僕自身の中で思っていたこと、つまり、原子力に代わるエネルギーは絶対に必要だなと。原発という原子力発電所、あそこは事故を起こしては行けない場所なんだということをずっと思ってましたから。事故を起こすということは、いわゆる原爆や水爆を投下されたのと同じことなんだぞということはずっと思ってましたから。どうなってんだよというか。千年に一度の地震だどうのこうのといっても、“想定外です”みたいなことはあり得ない。想定外の外に原発はなければならないと思ってましたので、ものすごい腹立たしさというか、あんなに豪語していた、“絶対に事故は起きえない”って、嘘だったのかという風にものすごい腹立たしさを感じましたね。

大越)
西田敏行という名で、広く世間に訴えなければならないと。あの時の心の中の怒りは非常に大きかった?

西田)
大きかったです。やっぱり第一次産業に携わる方々の思いというものを一番感じてきたというか、農家の方が“稲を作ることは出来ないかもしれない”と思うような状況を作ることは絶対にあってはいけないことだと思っています。農家の方々の苦渋にゆがんだ顔を見ていると、“俺のコメは本当に食べてもらったらわかるけど一番うまいコメなんだよ”と自慢している農家のお父さんの顔をみていたから。あなた作ることを止めなさいってことは、もう、生きるの止めなさいっていってるのと同じ、同義語に聞こえるんです。いってみれば、農家の方や漁業の方とかは本当に苦しい。“俺の捕ってきた魚はうまいぞ”っていう風に。大和民族の暮らしの原点みたいなことをね、何か根底から止めさせてしまう、ストップさせることが、原発事故なんだと思った。原発の存在そのものが本当にどういう風に受け止めていいのか、複雑な思いになりましたね。

大越)
原発に対しては本当に功罪両方あるということがいわれますよね。原発がなければこれだけの豊かさにはたどりつけなかったが、一方でそこまで豊かな国を、原発に頼ってまで必要だったかと思いますよね。

西田)
そんなリスク、ハイリスクの中で、豊かさを教授して幸せですかと。本当に幸せですかという風に、あえて自分たち1人1人の胸に問うてみたい気持ちはあります。幸せって何だろう、大切に思うって何だろうって。本当に今こそ、我々1人1人が考えなきゃいけない時期に来ているんじゃないでしょうか。この豊かさの継続を求めるために、まだ稼働し続けなきゃいけないのか、あるいは別の変わるエネルギーを早く開発して、日本人の英知だったら何かできそうな気がします。何か早めに作って、公害のない、何も怖くないエネルギーを作って、経済的にも豊かな国ですよと胸を張っていえる国にならないかなと思っています。

大越)
一方で演ずる役者である西田敏行が個人の思いをどこまでアピールするべきなのか、半分公人、半分私人としての立場というのは悩まれることがあるのでは

西田)
あるかもしれません。確かに、今までは原発に反対とか、賛成とかというと、ある種イデオロギーなどでくくられるような気がします。本当にそういうものじゃなくて、平べったく国民1人1人が、この国がどうあるべきかということを考える時期だと思います。そこにある種、政党とか、政治団体とかがかかわってきて、意見がこうだなど集約されて、原発推進、原発反対というみたいな括られ方はしたくないです。ロック界の巨星であった忌野清志郎さんが生前ずっとおっしゃっていた、“原発は僕は反対だ”という、個人的にスローガンを掲げて、しかもパフォーマンスもそこに通じるようなパフォーマンスされていた忌野清志郎さんに、改めて僕は敬意を表したいと僕は思いますね。

大越)
やはり日本の心のふるさとの東北が酷く傷んだ。この犠牲を無駄にしないことが大事だと?

西田)
と思いますね。絶対に。千年前にもあったんだろうけど、人はどれだけ学習をしてきたかとなると、やはり津波は尊い人命も持ったし、暮らしも持っていってしまう、強い力で持ってかれちゃったわけです。それにあらがうよりは、こなすっていうんですか、敢然と立ち向かうんでなくて、すっとこなす知恵というか、そういったものが今後必要になるのでは。来るものは来るだろうし。かといって、原子力発電エネルギーは人間が作ったものだし。しかしこの事故をみて、僕の中には人間にはまだまだ扱える代物じゃないぞっていう思いの方が強くなっています。

大越)
地震津波により引き起こされた原発事故。起きないよ、大丈夫だ、と何かあまり根拠のない賭けをしていたような。

西田)
そうですね。おっしゃるとおり。僕らもそこで安全を担保していたような思いがあります。そんな大きなものはこないよ。だけど、スマトラ沖でもう前年にあれだけ大きな津波と地震があったわけですから、じゃあ日本に来ないという確証はなかったわけですから。来るかもしれないという思いを持っていたにもかかわらず、何も対処出来てなかったっていう思いがある。

大越)
この国の人たちに、どんな風にメッセージを発していきたいと思いますか。

西田)
やはり自分自身の表現によって、いつも津波や地震のこわさを想起する、あるいは原発の事故に対する思いを想起するようなことを、常々定期的に表現していかなきゃならないだろうなと思っています。風化させることなく、何か復帰もなって、みんなも普通に日常を取り戻したら、何となく彼方に、記憶の彼方に行ってしまうみたいなことだけは避けたいと思いますね。いってみれば、阪神淡路もそうかもしれないし、絶えずこういうことが起きたんだぞ、今後も起きる可能性があるんだと、いつも思って頂きたいということは感じますね。

大越)
自分の使命だと。

西田)
思います。それは作品を通してなのか、こう表現させて頂くような場所がなのか、僕の場合は役者ですから何か一つ作品を通していつも何か想起して頂けるようなことを絶えず考えたいなと思うし、僕自身もそこから離れることはたぶん出来ないんじゃないかなと思います、これからの役者人生を考えると。

大越)
郡山でライブ、若い方々もたくさんいる中で歌われましたよね、“あの街で生まれて”。聞いてらっしゃる方の心が一つになっていたような感じがするんですが。

西田)
あの体験、僕も初めてだったものですからね。ともかく1万人を超えるような観客の前で歌う、パフォーマンスすることは初めての体験だったものですから。すごい、人間の力ってすごいぞと改めて感じたし、あのパワーは本当にいつか必ず逆境を有利な展開にしてくれる、大きな支えになるっていう風に思いました。観客1人1人が点のように見えるんですけども、ちゃんと1人1人の表情がわかるんですね。みんな頑張ろうねって、やるぞって、思いや熱いものがこう空気圧みたいに伝わってくるんですね。それはすごいなって思いましたし。福山雅治さんなんかも来てくれましたし、他府県からもアーティストたちが来てくれて、歌ってくれて、ましてや福山さんなんかは長崎の被爆県でおられるし、いろんな思いがおありになるだろうと思うとなんだか愛おしくてですね。みんなで最後に「アイラブユー アイニージュー 福島」を歌ったんですけど。ジャンプしたり、足をちょっと痛めちゃいましたけどね(笑)、そのぐらい興奮しました。

大越)
西田さん涙もろくていらっしゃるのに、朗々と最後まで歌われましたよね。

西田)
本当に自分でも、ここは泣いて、自分1人で感動して行っちゃうんじゃねえぞみたいなことをなるべく自分に言い聞かせてはいましたし、あの時何か降りてきた感じがします。亡くなった両親が守ってくれたのか、何か知らないけど、ちゃんと落ち着きなさいよと、その場にステージにいさしてくれたような気がします。こんなにね、今ね、心が一つだよなという思いの中でいる時はないです。非常に不幸な状況にいますが、妙な、なんというんだろう、幸せ感も感じる、不思議な思いもあり、1人1人がなんか、こんなに人間の顔って愛おしかったかなっていうぐらいみんなが同時代に生きているんだなっていうことの愛おしさを感じながら生きているのでは。
今でも津波で、子供が父親の上着をつかんで、父親が手を伸ばしてしっかりと手をつかんでやろうと思った瞬間、お子さんが手を離したときに引き波に持ってかれて、もう何もすることができなかったっていう…
(涙)
聞いたときに、辛かったんだろうなって思いました。ごめんなさい。涙もろいといったら、本当に涙が出てきた。

大越)
津波でよく2万人近い命がということをいわれますけども、その莫大な数字は数字ではなくて、1人1人に人生があるわけですよね。

西田)
そうです。酪農をやっていて、原発さえなければと壁に遺言残して自殺した若き酪農家とかの話を聞くと、人が生きる、ちゃんと生きようとする選択肢、それまでももぎ取ってしまう、この原発事故っていうのは一体何なんだろうとつくづく思いますね。

大越)
西田さんがそういう思いを寄せて涙ぐまれること自体がたぶん今私たちの心にしみいるんだと思います。

西田)
みんなそういう思いの中で、日々生きているんだと思いますけど、本当にあの、今生きている人たち本当に1人1人が愛おしいですね。だから頑張ってみんなに、たぶん津波やなんかで失われた尊い命も、本当に失われたその命たちに向かって、こんなにすばらしい国になったぞっていうことを胸を張り、日本人の矜持をもって示したいなと思います。

大越)
ぼくも何度か被災地の取材に行ってインタビューをしますと、この人たちはどうしてこんな強い言葉を持っているんだろうと思います。

西田)
ねえ、もう本当にすばらしいなと思います。だから絶対大丈夫ですよ。絶対あの、本当にあの、孤高な生き方をしたいですね、この国は。

大越)
孤高な?

西田)
ええ、世界経済の競争の枠の中にいてどうのこうではなく、もうちょっと東方見聞録のマルコポーロが言ったように、“東の果てに光り輝いている国がある”みたいな、そういう孤高さを持ち、端然と生きる国でありたいなと思います。

大越)
みんな1人1人そう思えば出来なくはないですよね

西田)
出来ないことはないと思うんですよね。

大越)
当初の怒りを押し殺している感じがしますが。

西田)
おなかの底にずっと地底のマグマのように、怒りの気持ちというのがあって、絶えず、決して消えるものではなくて、やっぱりどっかに持っているし、逆に言えばある種の自分の生きる意味での活力というか、エネルギーにも今なりつつあるのかなと思っています。
日本も本当に地熱のエネルギーを早く模索してもらって、原子力に変わるエネルギーを作り発電し、送電しみたいなことは、経済戦略にも決して引けを取らないくらい経済界の皆さんの努力を見てみたいし、第一次産業の皆さんが作物を作っているときの豊かな表情も見ていたい。そういったものを見てみたいという思いが今密かなマグマとなっているような状態ですかね。必ず見てやるぞっていう思いがありますね。

大越)
是非これからもそういうメッセージを、まさにむき出しの西田敏行として、演じて語って、是非伝えて頂きたいと思います

西田)
そうやって生きていきます。

大越)
ありがとうございます

西田)
泣くまいとおもっていたけど(笑)。

(以上インタビュー全文)

原発はもう要らないという時、そこには普通、何らかの思想的、イデオロギー的背景や、政治の力学が見え隠れしていたものだ。しかし、福島の事故後、「平べったく」国民ひとりひとりが考えるべき問題になったと西田さんは言う。暴発すれば人間の力ではどうにもできないこの「神の火」と、これからどう向き合うかは、政界や財界の一部の人間によって恣意的に決められることがあってはならない。怒りをマグマにそのことを発信していく責務を、国民的俳優である西田さんは感じているようだ。
それにしても、遠くを見つめる上野動物園のゴリラ「ブルブル」の話はジーンときた。高村光太郎の詩「ぼろぼろな駝鳥」に重なるものがある。
ふるさとへの思いはかくも哀惜にみちたものであり、だれにも汚されたくはない。感情的になるまいと言い聞かせていた西田さんだが、父の手につかまりきれず、息子が津波に飲み込まれてしまった悲話を思い起こしたとき、こらえきれずに涙をこぼした。久々にもらい泣きした。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:11:16
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