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『C.W.ミルズとアメリカ公共社会--動機の語彙論と平和思想--』彩流社。
http://8155.teacup.com/interactionism/bbs/t16/10
2013/08/16:読了。何とも誤植の多い本だった。
2013/08/19:書評原稿草稿
評者は、大学院生の頃よりシンボリック相互作用論の研究に従事してきた経験を持つ。そのため、当然の流れとして、船津(1976)から強い影響を受けており、C・W・ミルズ理解について言うならば、その第5章「C・W・ミルズとシンボリック相互作用論」の圧倒的な影響の下にある。本書『C.W.ミルズとアメリカ公共社会』の著者である伊奈正人氏(以下、「氏」と略記)も、船津(1976)を、我が国におけるミルズ導入の嚆矢と位置づけている。その船津によるミルズ評価の結論は、その理論体系が「未成熟にして未完成なもの」(船津 1976: 163)、という一刀両断的なものであった。このミルズ理解は、氏の<通説ミルズ>理解とも一致するが、当然ながら<氏のミルズ理解>と一致するわけではない。
本書は、ミルズの社会学思想を、彼の「動機の語彙論」を中軸として再読しようとしたものである。結論を先取りするならば、本書の最大の意義は、ミルズの思想ないしは理論が「未成熟にして未完成なもの」<でなければならなかった>、その理由を積極的・肯定的に明らかにしたところにある。ミルズの思索のモットーからするならば、むしろ「成熟」した「完成」品として理論や思想を打ち立て、それを「無限」に適用可能な普遍的見解と捉えること、それ自体が拒絶されなければならなかった。氏はこのことを、豊富な資料と文献を根拠に説得的に導き出している。
誰のどの思想にも必ずその「よりどころ」となるもの--いわゆる「パースペクティブとしての準拠集団」--が存在する。氏の見解を踏まえるならば、ミルズにとっての「準拠集団」とは、「テキサス的な雰囲気」(独立心)であり、「職人的な気質」(職人性)であった。「職人」は、マニュアル化され固定化され一般化された制作方法(方法論)も、そこから生み出される買い手に迎合的な半端な妥協物も、その性格上、断固拒否する存在であるといえよう。「よりどころのない立場」と揶揄されがちなミルズであるが、この準拠集団(独立心、職人性)だけは終生変わることがなかった。社会の現実を捉えるためには、妥協することなく絶えず自らの着想を、眼前の経験的世界にぶつけながら、相対化・改変・相対化の繰り返しのなかで練り上げていかなければならない。このハーバート・ブルーマーの自然的探究論と、ミルズの社会学的な営み(社会批評、社会学批評)は軌を一にしている(?頁)。こうした準拠集団を持つミルズが、社会学者兼公共知識人として、すなわち、公共社会学者として選んだ技法が、「隠喩の隠喩」(バーク)と「人間喜劇」(バルザック)であった。
「隠喩の隠喩」と「人間喜劇」は、ミルズにおいて「動機論の動機論」という形で結実する。「動機論の動機論」とは、あらゆる人びとの思想を、「動機」の一種として捉え、動機の社会的機能(統合的機能と操作的機能)と、その知識社会学的基盤を問おうとするものである。
ミルズは、『パワーエリート』、『ホワイトカラー』において、一方に権力の一元化を、他方にそうした権力の一元化に無関心でいる「陽気なロボット」を描いた。このミルズの描写を単なる現状分析と受け止めてはならない。むしろこれらは、タルコット・パーソンズやダニエル・ベル等が、ある一定の理論を以て現状を完全に論じきった、と考える姿勢を批判し、「論じ」きれていないことを彼らに自覚させるために使われた「隠喩」、「オキシモーロン」であると捉えられなければならない。そのことをアメリカ社会学自体にぶつけた再帰的な社会学書が『社会学的想像力』にほかならない。
ミルズは、ある一つの理論が社会の現実を説明する論理として無限に適用されることを何よりも批判した。どの理論も、ほかのあらゆる人びとが提示する言説と同じく、ある一定の釈明ないしは説明、すなわち「動機」として、ある一定の「今/ここ」に制約された形で、その「今/ここ」にのみ妥当するものとして、立ち現れてくるものと捉えられなければならない。「動機論の動機論」を用いることで、理論を一つの動機として捉え相対化し、その社会的機能の帰結(例えば「憎しみの連鎖」)を指摘し、かつ「今/ここ」に最も適切な「折り合いを付ける」次なる動機を探索し続ける。こうした課題を自らに課すミルズにとって、彼の理論は必然的に「完成」品であってはならなかったのである。
[文献]
・Blumer, H. G., 1969, Symbolic Interactionism, Prentice-Hall(=1991年、後藤将之訳『シンボリック相互作用論』けいそう書房).
・船津衛、1976年『シンボリック相互作用論』恒星社厚生閣。
・Shibutani, T., 1955, Reference Groups as Perspectives, The American Journal of Sociology, No. ??:?-?(=2013年、木原綾香ほか訳「パースペクティブとしての準拠集団」Discussion Papers In Economics and Sociology, No. 1301).
2013/08/19b:「動機論の動機論」について。これは伊奈の造語である。これが良く分からないので、本書は書評がやりにくい。本当に「動機の語彙論」でミルズの思想を括れているのか、が非常に怪しい。なんか煙に巻かれているような文章が多い。本日、読了2回目。こういうことだろうか。初期「動機の語彙論」の手法で、パーソンズやベル、その他の思想家や日常生活者の生を分析する。その結果として、彼らのどの考えも、ある特定の「今/ここ」に拘束されたものであり、その「今/ここ」にしか適用できないものであること--知識社会学的考察--、それを無限化(無限に拡大適用)すると、「憎しみの連鎖」のような、硬直した悪循環を生み出してしまうこと--動機の語彙の否定的な社会的機能--、これらを明らかにすること。そして明らかにされた内容を「届く言葉」でアメリカ社会にぶつけ続けることで、「公衆の改造」を理論的にのみならず実践的にも挑発的に行おうとしたこと。しかしミルズ自身は、隠喩の隠喩、人間喜劇の手法によって、「今/ここ」において妥当するより良い「折り合い」をもたらす「動機」を模索し続けた。職人性を重要視するミルズは、固定的な理論のみならず、固定的な方法論の樹立をも拒否した。これは伊奈氏も認めているように、ブルーマーの「自然的探究論」と軌を一にする(彼は「集合行動論」と表現していたが)。絶えず新しい「動機」を模索するためには、絶えず「パースペクティブとしての準拠集団」を「取り替えて」いかなければならない。当然にして「拠り所のない立場」となる。また絶えず模索することをモットーとするのであれば、「完成品」など完成するはずがない、否、させてはならないことになる。徹底した社会に対する、社会学に対する自明性の剥奪をエンドレスに行う。否、「エンド」「レス」は過言であろう。ミルズにとっては、とりあえずその時々の「今/ここ」で「最も適切に」「折り合いがつく」「語彙(理論)」が見つかればよいのだから。
2013/08/23:やはり、何度読み直してもこの人の文章(というか言葉遣い)は「雑」の一言。ほかのミルズ関連の文献を数本読了。
2013/08/24:伊奈の「動機論の動機論」とは、「さまざまな動機の語彙・用語系・理論どうしの相克状況、すなわち『動機をめぐる政治』をメタレベルの視点から観察・記述・分析することを、動機の社会学の主要課題に位置づけ」ること(内田 2012: 196)だそうだ。こうした立論においては、「フロイト的な動機の用語系」(「動機の売り込み」=オキシモーロン)は、「マルクス主義的な動機」、「営利的な動機」、「道徳的・宗教的な動機」、「金銭的な動機」、「快楽主義的な動機」とともに、動機(=用語系)の一種目という扱いを受けるにとどまる(内田 2012: 193)。ミルズは何よりも、ある一つの「動機」ないしは「用語系」が、時代・地域を越えて、普遍的に無限に適用される姿勢を拒絶した・・・・。さすが内田氏、解釈能力・表現能力の高さが窺える。
2013/08/30:『社会学研究』第91号の特集論文すべてに目を通す。何となくこの本(伊奈 2013)の輪郭が掴めてきた。しかし、やはり師匠の本[https://sites.google.com/site/tsukasakuwabara1970/home/let-me-introduce-myself/Funatsu-kuwabara2012.pdf?attredirects=0&d=1]と違って、良い書評を書く自信は全くない。とにもかくにも、伊奈本に振り回された8月であった。さて、翻訳の方を再開しなければ。来年の7月には公刊したい。なんかどんどん公刊が先延ばしになっている気がする(https://sites.google.com/site/tsukasakuwabara1970/home/schedule)。
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