今年十月十一日から十三日まで、大津市のピアザ淡海で「生命のメッセージ展in滋賀」が開催された。このメッセージ展は、交通事故や犯罪などによって不条理に生命を断ち切られた人たちの生きた証をたどり、すべての人の生命が大切にされる社会をつくっていこうと、ニ00一年から全国各地で開かれており、大津は十九回目の開催の地となった。メインの展示は、不条理に生命を断ち切られた人たちの等身大の「人型パネル」と、生きた証の象徴である「靴」。今回は、一0八体の人型パネルが並び、声なき声が、会場を訪れた人たち一人ひとりに生命の大切さを叫びつづけていた。開催期間の三日間の間に、のべ三000人が会場に足を運び、人型パネルの前で涙を流した。 このメッセージ展の中心的な役割を果たしたのは、一昨年三月、次男悠さん(当時十六歳)を少年二人による暴行で殺害された大津市の青木和代さん。和代さんは、悠さんの死を無駄にしないように、また悠さんの人生を伝えることで、多くの人に生命の大切さを知ってもらおうと、このメッセージ展を開いたのだ。
寝る間も惜しんでの準備。後援依頼からポスターの作成、カンパ協力への呼びかけ、会場の下見――。応援してくれる人も数多くいたが、理解を示してくれる人ばかりではなかった。それでも和代さんは、弱音を吐くことなく、メッセージ展を成功させた。
「あまりの忙しさに、後ろから押されたら倒れてしまいそうになるほど、しんどいときもあります。でも、悠ちゃんの苦しみや悲しみを思ったら、弱音を吐いてはいられません。悠ちゃんのことや命の重さを訴えることで何かが変わっていけば、それこそが悠ちゃんの生きた証になるはずです」
我が子を失ったという深い深い悲しみを身体の奥底に抱えながらも、和代さんは悠さんの命を生かしていこうとしていたし、その想いは、メッセージ展の場においては、果たすことができたのではないかと思う。
このメッセージ展に、私は「司会」という立場で参加させていただいた。これまで私の取材にも快く応じてくださってきた和代さんのお手伝いがしたい、という気持ちと、メッセージ展に参加することで、私自身改めて命の重さと向きあいたい、という気持ちがあったのだ。
会場で司会の合間をぬって、私は人型パネル一体一体と向きあった。メッセージ展の主役は、不条理に命を断ち切られた人たち一人ひとりにほかならず、パネルに記された彼らの人生と向き合った。そこには、当たり前のことだが、誰一人として同じ人生を歩んだものはなく、一人ひとりがただ懸命に、ひたむきに生きていたのだ、ということが遺族の手によって記されていた。
無免許、飲酒など悪質なドライバーに命を奪われた青年、いじめで自殺に追い込まれてしまった女子高生、少年らによるリンチによって殺害された少年、大学の新歓コンパで一気のみを強要され急性アルコール中毒で死亡した大学生――。
その一つひとつがあまりに重く、一0八人と向き合うのに、まるまる三日かかった。初日などは、あまりに胸が苦しく、十体程としか向き合うことができなかった。彼らの訴えは、私の心に突き刺さってきた。"もっと生きたかった!""なぜ僕が死ななきゃならなかったの?""こんな苦しみを与えるのは、もうやめてくれ!"。彼らは、声なき声で必死に私たちに訴えているようだった。
そして会場には、人型パネルとなった大切な家族とともに、大勢の犯罪被害者遺族の方々が参加していた。 そうした遺族の方々と、私は話をさせていただいた。どのような事件や事故によって家族を奪われたのか、どんなに深い悲しみを感じていたのか、加害者を許すことができるのか、事件や事故をどのように捉えているのか――。悲しい気持ちをよみがえらせてしまうであろう私の問いかけに、どの遺族も丁寧に答えてくださった。その姿勢に感謝するのとともに、みなさんが事故や事件を「自分だけにふりかかった不幸」としてではなく、「社会全体の問題」として捉えているということに驚いた。さらには実際に、何らかの行動に移している方も多く、深く感心せざるを得なかった。
一九九七年八月、兵庫県稲美町の高松由美子さんの長男、聡至さん(当時十五歳)は、少年十人に殴られるなどして死亡した。加害者は、高校生一人や中学生一人を含む、無職や大工見習の十四歳から十六歳の少年で、その中には聡至さんの中学時代の同級生や友人五人も含まれていた。中学時代、聡至さんは加害少年らと同じ不良グループに入っていたことがあった。しかし、高校受験などを機に、聡至さんはグループを抜けて非行から更生し、高校生活を送っていた、その最初の夏休みだった。その聡至さんに、加害少年らは「付き合いが悪くなった」と腹を立て、殴る、蹴る、バイクで轢く……など暴行を繰り返した。そして、下着姿で聡至さんを放置し、死に至らしめたのだった。
傷害致死容疑で送検された加賀少年らは、少年審判の結果「非行の態様や少年の資質、家庭環境などに照らし、少年院送致が相当」として、二人が初等少年院へ、八人が中等少年院に送致された。
ニ000年三月、由美子さんらは、加害少年とその保護者あわせてニ九人を相手取り、約二億三000万円の損害賠償を求めて、神戸地方裁判所姫路支部に提訴した。また、罪の重さを認識させ、再犯を防止するために、一般の慰謝料とは別に「懲罰的慰謝料」ニ000万円の適用も求めた。認められた場合には、犯罪被害者支援のための団体に寄付しようと考えていた。 結局、判決では約一億円の賠償が認められたものの、保護者の監督責任までは認められず、現在、控訴中だ。
少年院に送致された加害少年らは、いずれも一年四ヶ月から一年八ヶ月で退院した。 由美子さんは、事件後、加害少年の保護者らに、加害少年らの謝罪を求めてきた。 「少年院から出てきたら、謝罪しに家に連れてくるように」 その言葉にこたえるかたちで、加害少年十人のうちの八人は、少年院を退院した後、由美子さんのもとを訪れた。 「おばちゃん、ごめんなさい……」
加害少年らは、涙をポロポロと流して謝ったそうだ。しかしその翌日には、恐喝事件を起こして逮捕される少年もいた。中学時代の友人五人のうち三人は再犯し、さらにそのうちの一人は恐喝など再々犯し、刑事裁判を受けて再び少年院に入ったという。 「あの子たちの謝罪なんて、そんなものなんです。そして加害者たちは、『高松が悪かった』と言いふらし、『人を殺した』と箔をつけ、恐喝を繰り返すんです」
その加害少年たちは、今も聡至さんが暮らしたまちで平然と生活している。聡至さんは遺影としてでしか成人式に出席できなかったのに、加害少年らはスーツ姿で出席し、聡至さんの命を奪ったことを忘れているかのようなはしゃぎようだった。そして、何食わぬ顔で生活し、恋愛を楽しみ、結婚して、子どもを授かった少年もいる。聡至さんの未来は断ち切られてしまったのに、加害少年らの未来は今も続いている。
「悔しいという気持ちは、もちろんあります。しかしだからといって私が罪を犯すわけにはいきませんし、加害者でありながら聡至の友人でもあり、『あいつらは俺の連れや』と言っていた聡至の言葉も心に残っています。憎みきれないという悔しさもあるんです。こんなことだったら、知らない人から殺されたほうがマシやわ、と思ったこともありました」
由美子さんは、加害少年らに対する複雑な胸中をこう話した。 「だから、こうしてマスコミや社会に訴えること、裁判を続けることが、私にとっての『あだ討ち』なんです」
その上で、由美子さんは"被害者として生きていく"という言葉を口にした。 「ヘンな言い方かもしれませんが、もう聡至は返ってきません。だから、私たち犯罪被害者遺族は、結局、『被害者』として生きていかないといけない、ということを認識しないといけないんです」
由美子さんのいう、"被害者として生きていくこと"とは、すなわち"被害者だからこそ、できることをしていく"ということである。 犯罪被害者遺族らの裁判傍聴に付き添う「支援傍聴」や、地域にいる問題を抱える子どもたちを支えていく活動に、由美子さんは、今取り組んでいる。 「自分が助けていかなあかんと思っています。自分のペースでやっています。互いに癒し、癒されて、苦しみを乗り越えていきたい……」
由美子さんの活動は、確実に多くの犯罪被害者の心を癒し、悲しみで倒れそうになっている人たちを支えている。
ほかの犯罪被害者遺族の方が言った。 「悲しみというのは、普通、時間とともに薄れていくものだけれど、子どもを失った悲しみというのは薄れるんじゃなくて、どんどん濃くなって、じわりと身体に染み込んでいく感じがするのよ。決して薄れたりなんかしない。いつまでも、いつまでも、子どもの死を身体中に染み込ませながら、私たちは生きているんです――」
青木和代さんも高松由美子さんも、ほかの犯罪被害者遺族の方たちも、みな深い悲しみと一体となりながら、それでもなお、前に進もうとしている。事故や犯罪によって受けた悲しみを少しでも癒してあげたい、不条理に命が奪われることのないよう社会を変えていきたい……。その姿、志には、ただ、ただ、頭が下がる。
それでは、私には一体なにができるのだろうか――。それはやはり、私がお話をうかがった犯罪被害者遺族の想いを、こうして雑誌やテレビなど何らかの形で伝えていくことしかないのかもしれない。 私自身も気持ちを新たに、自分にできることを積み重ね、少しずつ前に進んでいきたいと思う。
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