「夫の親に、『子どもが三歳になるまでは仕事をするな』って言われているの…」
私の友人は、ため息混じりにこう言った。
彼女は出産にともなって勤めていた会社を退社し、今は専業主婦となって子育てをしている。私は彼女が自ら望んで専業主婦をしていると思っていたのだが、どうやら違うらしい。よくよく話を聞いてみると、彼女は子どもを保育園に入れて仕事をしたいと思っているのだが、夫の親がそれを許してくれないということだそうだ。ちなみに彼女自身の親は、彼女が仕事をすることには賛成だが、夫の親の同意を得られないのであれば、当面仕事を諦めるべきだ、と考えているそうだ。
そんなわけで、彼女は悶々としながら日々を過ごしているという。私は「三歳までは母親が家にいて子育てをしろ」という考えの根深さに驚くのとともに、それに渋々従っている彼女が気の毒になった。
子育てに関しては、「三つ子の魂百まで」と古くからいわれてきた。幼い頃の性質は年をとってからも変わらないので、幼い頃の子育てが重要であるという意味で使われることが多い。この「三つ子神話」からか、以前は「三歳までは母親が子どもをきちんと育てること」が大切だとされてきた。ここでいう母親は専業主婦が前提となっているのだろう。 しかし男女共同参画社会の実現などが叫ばれ、女性も男性と同じように仕事をする機会を得て活躍するようになった今の時代、三つ子神話も変化を見せてきた。
三歳まで母親が専業で子育てをした家庭と、母親が仕事を持ちながら子育てをした家庭では、子どもの性格や知能に違いがあるとは一概に言えないとする調査結果なども報告されるようになった。
だから実際に私の周りを見回してみても、子どもを育てながら仕事を続けている女性も数多い。
彼女たちは朝、保育園に子どもを入れて職場へ向かう。中には、出勤時間が自分よりも遅い夫が、子どもを連れて近くにある彼女の実家に行き、そこで朝食をとってから保育園に子どもを連れて行く家庭もある。保育所の先生の話でも、最近はお父さんが送り迎えをする家庭も珍しくないそうだ。
こうして彼女たちは、夫や実家の協力を得ながら仕事と子育てを両立している。子どもたちが保育園で色々な経験をしている間、彼女たちは仕事に打ち込む。そして子どもと一緒に過ごす時間は、離れている時を埋め尽くすのに十分な愛情をかけて子どもを育てている。古くから意識の中にインプットされてきた三つ子神話が完全に頭から消え去ったわけではないけれど、それでもひとり一人が精一杯、子育てと仕事に取り組んでいる。そんな母親の懸命な姿を見て、子どもたちは健やかに成長している。
もちろん一方で、専業主婦を自ら希望して、一日のすべてを子どもと過ごす女性もいる。
「なるべくずっと一緒にいてやりたいと思って」 と、彼女たちは素敵な笑顔で子どもの一日を見守っている。
私の息子と誕生日が非常に近いお嬢ちゃんをもつママは、今年八月、子どもたちの一歳の誕生日会をしよう、私と息子を家に招待してくれた。子どもたちの前には、小さな縞模様のろうそくが一本づつと桃の果肉とジュースでつくったという美味しそうなゼリーが並んだ。ろうそくに火をつけ、「ハッピーバースデイ!」と歌い、子どもたちに「ふう〜っ」と息を吹きかけさせた。小さなろうそくに灯っていた小さな火は、わずかに揺らいでそっと消え、私たちは大きな拍手をして子どもたちの誕生日を祝った。子どもたちの笑顔と歓声があがった。
そして早速ゼリーを一口食べると、濃厚な桃の味が口の中に広がりとても美味しい。彼女の子どもに対する愛の深さが、ゼリーの美味しさにあらわれていた。 こんなふうに、私のまわりの専業主婦のママたちは、それはそれはゆったりと子どもと向き合い、子育てを楽しんでいる。 私は…というと、ちょうど仕事と両立するママと専業主婦のママの中間に位置するのかもしれない。優柔不断な私は、仕事を完全にやめたり、休んだりはしたくないが、子どもともできる限り一緒に過ごしたいのだ。だから数時間だけ子どもを保育所に預けて、できる範囲でテレビや雑誌の仕事を続けている。欲張りだともいえるだろうし、どっちつかずだともいえるのかも知れない。その時々に応じて、仕事人だったり、専業主婦だったりと、自分勝手にコロコロ気分を変えている。
なぜ、こうしたかたちを選んだのか――。正直言って、心の片隅でほんの少しだけではあるが、子どもとずっと一緒に過ごす専業主婦もいいかな、と考えた時期もあった。しかし以前から予定の入っていた仕事をするため産後一0日で講演の場に立ったとき、言い知れない喜びが身体の底から沸きあがってきたのだ。そのとき思った。「やっぱり仕事はやめられない」と。
確かに子どもと一緒に過ごす時間は幸せだし、日々成長を遂げていく子どもの姿を見逃したくはない。初めての笑顔、初めての寝返り、初めてのはいはい、初めてのあんよ、初めての言葉…。その全てを見逃したくなかった。最初にその姿を目にするのは、私でありたかった。幼い時代特有のかわいらしさを、姿を、思い切り堪能したかった――。
しかしそれでも、まだ言葉も通じない子どもと二人きりで過ごす時間は、ごくたまにではあるが息苦しく、私に焦りを感じさせた。笑顔はもちろん泣き顔もいとおしく、息子のすべてが私にとってかけがえのない大切なものだったが、自分の生活のリズムは失われ、すべてが子ども中心で動く毎日は、私を不安にさせた。社会との接点がなくなり、時代から取り残されるのではないか、という恐怖が心の中に芽生えてきた。そんなときに、講演の場に立ったのだ。子どもの母親としてだけではなく、一人の人間として社会に関わっているということが、たまらなく嬉しかった。
それ以降、私は子どもと向き合いながらも、自分なりに納得できる形で仕事を続けていく方法を考え始めた。その結果が今のスタイルである。幸い私のまわりからは、この選択に対する反対の声はあがらなかった。夫や私の両親など、まわりの人たちの理解と協力があってこそ、今の私の生活があるように思う。 ところが冒頭の友人の場合は、反対の声があがってしまった。彼女が言うには、少しばかり社会との接点をもち、気分転換にもなるし家計の足しにもなるのだから、フルタイムでなくてもいい、一日に数時間だけでも仕事をしたい、ただそれだけなのだ。なのに、反対の声があがってしまった。
自分で納得しているのであればいい。しかし悶々とした気持ちを抱え、渋々なんとか我慢をしているのであれば、それはいいとはいえない。やはり解決の道を探っていくべきではないだろうか。
彼女の夫の親は、『女は家にいて家事と育児に専念するのがあたりまえだ』とされきたのかもしれない。もしかしたら夫の母は、社会で仕事をしてみたいという思いを抱えながらも、それを社会が許さず我慢せざるをえなかったのかもしれないし、望んで専業主婦を選んだのかもしれない。いずれにせよ、結果的には専業主婦となり、子どもを立派に育ててきたのだろう。それはそれで、素晴らしいことだと思うし、そうした経験に基づいた考えなのだろうから、ある意味では説得力もあると思う。 しかしすべての価値観は、その人の生まれ育った時代や環境、積んできた経験などによって異なる。
しかもニ一世紀という時代は、多様な価値観が認められる時代であるはずだ。それぞれの選択をした一人ひとりが認められ、その選択や生き方が尊重されるべきではないのか。
仕事をする人、しない人。結婚する人、しない人。子どもを生む人、生まない人。仕事をしたくても、結婚したくても、子どもを生みたくても、そうした機会が訪れなかった人だっているだろう…。子育てに関しても、「結婚して子どもを生んだとしても、女性も社会に出て仕事を続けるべきだ」と考える人や、「最低でも子どもが三歳になるまでは、母親が専業主婦となって子育てをするべきだ」と考える人、あるいは「これからの時代、男性が専業主婦になったっていいではないか」と考える人など、さまざまだろう。ひとり一人の顔が違うように、考え方がそれぞれに違うのは、ごく自然なことなのだ。
その違いをどのように受け止めるのか、乗り越えるのか、尊重し認め合うのか、が問題であるような気がする。すなわち、考え方や価値観の違いに気がついたとき、「この人と私は考え方が違うけれど、そういう生き方、考え方もあるのなら、それもいい」と受け止めることができるかどうか、ということなのだ。「あなたはそういう考えかもしれないけれど、私の考えに従うべきだ」と頭ごなしに自分の考えを人に押し付けるのは、避けなければならないと思う。他者との考え方の違いを認め、自分とは違う考え方も尊重する――。多様な価値観を認める社会というのは、そういう社会のことなのではないだろうか。 ちなみに私の友人は、これからも機会をみて、夫の親に自分の考え方を伝え、理解を得られるようにしていきたいという。彼女の考えが受け止められ、認められ、彼女が生き生きと仕事と育児の両立に取り組める日が少しでも早くきますように……。
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