「うわぁ、四0度を超えています・・・」
手もとの電子体温計の画面には、四0・二という数字が表れている。体温計を手渡しながら、看護士さん に、すがるようにこう言った。
私の腕の中でぐったりとしている息子の身体は、まるで火鉢のように熱かった。
診察室の前に設けられた椅子に腰をかけ、私は息子に母乳を与えた。もちろんジャケットで胸元は隠したけれど、人前でこんなことをするようになるなんて・・・。でも息子に、脱水症などになると大変だ。恥ずかしいとか、そんなことを言っている場合ではない。
公衆の面前で母乳を与えた私は、改めて息子の存在の大きさを感じるのと同時に、私の中の羞恥心が失われていくのを感じていた。
この日、私はテレビ番組収録の仕事をしていた。 普段なら、スタジオに携帯電話を持って入るようなことはしないのだが、この日はなぜか携帯電話をマナ−モ−ドにして、スタジオに持ち込んでいた。今にして思えば、虫の知らせだったのかもしれない。
私が収録していたのは三0分番組。ニュ−スやインタビュ−によるコ−ナ−、英会話のコ−ナ−などで構成されている。
二五分ほど収録が進み、残り五分の収録準備が行なわれていた。そのとき、私の携帯電話がブ−ンッ、ブ−ンッとうなり出した。どこからの電話だろうと、携帯電話の画面を見ると、息子を預けている保育所からだった。イヤな予感がよぎる。保育所から電話がかってくるのは、息子の体調が悪いときばかりだからだ。 「すみません、電話をとらせていただきます」
スタジオにいるスタッフの方に一言断わりを入れてから、急いで電話をとった。 「お昼寝から起きたときの息子さんの身体が、あまりにも熱かったので、熱を計ったら、三九度を超えていましたので、お知らせしようと思いまして・・・。なるべく早く迎えに来てください」
やっぱりだ。イヤな予感が、見事に的中した。 それにしても、三九度を超えるなんて初めてのことだ。これまでに何度か風邪をひいて、熱が出たこともあるが、三八度台までだった。心配だ、心配だ。気が急く。しかし、途中で仕事を投げ出すわけにもいかない。幸いにも、その後、収録はスム−ズに進んだので、電話を受けてから一五分後には、スタジオを出ることができた。そして、あわてて息子を迎えに行ったのだった。 保育所に着くと、息子は保育士さんの腕に抱かれ、グッタリとしていた。おでこには、冷えピタが貼られている。ほっぺたは真赤だし、呼吸も荒い。うつろな目で私をみつめた。これまで熱があっても、こんなにグッタリとしていたことはなかった。明らかに、以前よりも苦しそうだ。 「どうしたのぉ、大丈夫?」 息子を抱き寄せた。息子の顔に頬を寄せてみて、その熱さに驚いた。涙が出そうになる。駄目なママだ。私がオロオロしている場合ではないと、自分を奮い立たせた。 「大丈夫よ、大丈夫。ママがいるからね、もう大丈夫。ママ風邪をやっつけてあげるからね!」
この日、保育所に行くまで、息子は元気だった。いつもと違うところといえば、少しだけ目やにが出ていたことくらいだ。朝の離乳食もよく食べていた。 機嫌も悪くなかった。私が『おつむてんてん』をすると、ゲラゲラ笑っていたのに・・・。
保育士さんによると、おやつのヨ−グルトもよく食べ、元気だったと言う。しかし、お昼寝をして目を覚ますと、身体が燃えるように熱かった・・・ということだった。わずか数時間のうちに、急に熱が出てきたということになる。子どもの体調は、急激に変化する。
熱が上がったり、下がったり。機嫌が良くなったり、悪くなったり。だから、親が常にしっかりと、子どもの様子を見ておかなくてはいけないのだろう。 保育士さんの腕の中の息子の表情には、あんなに元気だった朝の面影はなく、別人のよう。
息子を抱きかかえ、車に乗せた。いつものかかりつけの病院は、この日は休診。そのため小児科のある近くの病院に連れていった。
午後の診察時間は三時から。私が病院に着いたのは、午後二時四五分頃。すでに数人の患者さんが、診察の 始まるのを待っている。 「だいぶん、待たなくてはいけませんか」
受付の方に聞くと、すぐに診察していただけるだろうとのこと。それなら、ということで、息子の検温をして、待つことにした。
すると四0・二度。保育所で検温していただいた時よりも上がっている。四0という数字に、目眩がしそうになってしまった。
とにかく水分補給だ。幼児が風邪などから脱水症になって死亡した、などというニュ−スを度々耳にする。脱水症だけは避けなければならない。しかし、息子は母乳大好き人間で、気分がのらないとお茶などはあまり飲まないのだ。ましてや体調の悪いときなどは、ますます母乳を飲む頻度が増す。だから、とりあえず何か水分を与えようと思うと、母乳を与えることになってしまうのだ。しかも、以前読んだ本によると、母乳は、子どもの口の中にあるウィルスに対する免疫をつくるなどと書いてあった。
さっそく私は、診察室の真ん前の椅子に腰をかけ、息子に母乳を与えた。母乳も飲まなかったらどうしようかと思ったが、幸い、コックン、コックンと母乳を飲んでいる。良かった。母乳を与えながら、診察していただけるのを待った。 ところが、だ。待っても待っても名前を呼ばれない。三時はとっくに過ぎている。しかも、明らかに元気そうな子どもや、デイサ−ビスに来た元気そうなお年寄りが、次々と診察室に入っていく。
診察室のドアが開くたびに、中にいる先生と目が合う。私の息子が、グッタリとしているのはわかっているはずだ。なのに、なのに、名前が呼ばれることはない。すぐに診ていただけるということだったから、こうして待っているのに。苛立ちが募る。
もちろん、ちょっとした風邪であれば、一時間待ちくらい我慢もできよう。しかし、今は非常事態。四0度を超える熱があるのだ。元気そうな患者は後回しにしてくれてもいいのではないか。自己中心的かもしれないが、そう思ってしまった。患者にも優先順位があると思う。一刻を争うことだってあるのだ。ましてや、身体の小さな乳児や幼児は、すぐに容態が変わる。多くの患者を診察する病院であれば、そんなことくらいわかるはずなのに。長い待ち時間の間に、容態が悪化したら、どうしてくれるのか。
待つこと、五0分あまり−−。ようやく息子の名前が呼ばれた。診察の結果は、突発性発疹か、風邪か、とのこと。要するに、はっきりとはわからないのだ。それでも、あまり高熱が続くのは良くないので、解熱剤や喉などの炎症を抑えるお薬を処方していただいた。
とりあえず、診察していただいたので、ひと安心。
息子は、相変わらずグッタリとしたままだが、私の気持ちは落ち着いてきた。あとは会計を済ませて、家に帰り、息子の様子を見守り、看病するだけだ。会計で名前が呼ばれるのを待った。
ところが、なかなか名前が呼ばれない。もしかして、また待たされるのか?またしてもイヤな予感・・・。待つこと、二0分−−。ようやく会計を終えることができた。
一体、これはどういうことなのだろうか。具合が悪くて、病院に来ているのに、結局、待ち時間だけで一時間を超えてしまった。こんなことでは、病院に行くことで、かえって具合が悪くなってしまう。
今は、小児科医の不足など、医療をめぐる問題が数多く指摘されているが、医療機関での待ち時間の長さも、問題の一つではないだろうか。患者の容態に応じて、ある程度の優先順位をつけることを考えてみてもいいのではないだろうか。
もちろん、瀕死の状態にある患者については、これまでから優先的に診察、処置が行なわれていると思う。
しかし、身体の弱い乳児や幼児、それにお年寄りなども、多少、優先的に診察されてもいいのではないかと思う。 場合によっては、一刻を争う命の現場である病院に対する期待と要望は、嫌でも応でも、大きくなってしまうのだ。
それにしても、私は自分が公衆の面前で、子どもに母乳を与えるような母親になろうとは、まったく思っていなかった。
息子が生まれてから、自分が思っていた以上に子ども好きであったとか、離乳食作りも楽しいものだとか、自分の性格を再発見することも多いが、人前で母乳を与えるようなことはないだろうと思っていた。 もちろん、母親が子どもに母乳を与えるのは、太古の昔から続いてきた普遍的な、自然な人間の営みである。それでも私の場合、羞恥心がそうした行為を阻むのではないかと思っていた。
しかし、違った。何よりも大切な息子のことになると、私の中の羞恥心は、いとも簡単に消え去ってしまった。恥ずかしいとか、そんなことは、どうでもよくなってしまう。それよりも、息子のために、今、母親として、自分に何ができるのかが優先する。そこに、羞恥心など存在しないのだ。
女性は母親になると、強くなると言われる。それは一番大切なものが、圧倒的にはっきりとしてくるからではないだろうか。
子どもの命より大切なものはない。子どもが元気に、健やかに成長すること。それが圧倒的に重要なことであって、それ以外のことは、グッと重要性が低くなるのだ。大切なものと、そうではないもの。大切なものにかける想いが強くなる分、そうでないものにかける想いが弱くなる。今回の私のケ−スだと、大切ではないもの−−それが、羞恥心だった。
しかし、同じ羞恥心でも、人としていかに生きるべきか、という「生き様」に関する羞恥心は、息子が生まれてから強くなった気がする。
子どもは親の背中を見て育つ、という。であるならば、息子に見せる私の背中は、常に人間として恥ずかしくないものでありたい。堂々と、その背中を見せていたい。ママはこうして人生を歩んでいるのよ、と胸を張っていたいと思う。 そのためには、決して努力を惜しんではならないと思うし、人にも優しくないといけないと思う。そしてもちろん、自分を大切にする生き方をしていきたいと考えている。
薄っぺらい羞恥心はいらない。
本当の意味で、人間にとって大切な羞恥心は、これからも、いやこれまで以上に、大切にしていきたいと思う。
|