一寸一服 〜自然に抱かれて〜  湖国と文化/106号冬掲載


幹の太い木々の根元に、たっぷりとした厚みをもって重なる色とりどりの落ち葉。その落ち葉の上にふわりと転がる、艶やかなドングリ。秋風に水面を揺らす池には、優雅に泳ぐカワムツの姿――。
さわやかな陽気にさそわれて、私は一歳になったばかりの息子を連れて「河辺いきものの森」(八日市市建部北町)を訪ねた。

普段は私の足にまとわりついて離れない息子が、森の中にあった枝を手にとって大きく円を描くように振り回しながら、私の前を振り返りもせず歩いていく。途中、木の幹に寄りかかるようにして座り、クシャクシャと音をたてながら落ち葉を粉砕し、その感触を楽しんでいる。それに飽きると池に向かって歩き出し、池の淵にじっと立って中をのぞき込む。池の中を泳ぐ小さな魚を見つけたようで、魚を指差しながら、なにやら私に話しかけてくる。木があって、水があって、土がある……。豊かな自然を前に、息子の目は空の青さを映すかのようにキラキラと輝いていた。


自然とのふれあいを求めて


一級河川の愛知川沿いに広がる一五ヘクタールの河辺林(かへんりん)は、昨年三月から「河辺(かわべ)いきものの森」として広く市民に開放されている。 

「いきものの森」には、河辺林の自然を解説する展示施設などを備えた森の利用拠点である「ネイチャーセンター」や、地上一二メートルの高さからクヌギやアラカシが生育する森の様子を眺めることのできる「林冠トレイル」、かつて流れていた水路を復元した「水辺のビオトープ」などが整備されている。こうした人間の手で整備されたものと、ありのままの自然が、ほどよい調和の上に存在している。

この自然に触れようと、休日ともなると大勢の家族連れが「いきものの森」を訪れる。虫取り網をもって池に入っていく子どもに、父親が池の中の生物について説明している姿や、森の中で競うようにしてドングリを拾う親子の姿――。オープンからこれまでに、約三万六000人(ニ00三年九月末現在)が訪れ、それぞれが自然とのふれあいを楽しんでいる。


よみがえった森

しかし考えてみると、私が幼かった頃はこうした自然はごく当たり前に身のまわりに存在していた。あえて木に触れようとしなくてもそばに木々が茂っていたし、あえて水の冷たさを感じようとしなくても隣に小川の流れがあった……。自然を求めてわざわざ出向く必要などなかったのだ。

ところが今さら言うまでもないが、物質的な豊かさや便利さと反比例するかのように、時代とともに自然は失われていった。それは当時名もなき森だった「いきものの森」も、例外ではなかった。

かつては川の水害から集落を守るための水害防備林として、また薪や芝をとる里山として、人々の維持管理のもとで青
々と茂っていた河辺林は、治水工事による愛知川の水位低下や化石燃料の普及などによって、その役割を失った。いつしか人々の足は遠ざかり、生物多様性も失われ、すっかり荒れ果ててしまった。

こうした河辺林の消失という危機的状況の中、かろうじて残された河辺林を守るため、一九九八年、八日市市職員ら有志が立ち上がった。里山保全団体「遊林会(ゆうりんかい)」(武藤(むとう)精蔵(せいぞう)代表)が結成され、河辺林を守り再生させるボランティア活動が始まった。

小さな子どもから九0歳代のお年寄りまで約五0人が活動に参加。チェーンソーで木を伐採するというハードな作業から、誰にでもできる落ち葉をかき集める仕事など、毎回用意される五つ程度のメニューの中から、参加者は自分にできるものを選び、作業に取り組む。一人ひとりの手による地道な作業の積み重ねが、荒れ果てた河辺林を再生させた。

今では生物多様性も復活し、河辺林は四季折々にその表情を変える。キツネやアナグマなど多くの動物が生息しているし、シジュウカラやヒヨドリなど鳥のさえずりを聞くこともできる。環境庁(当時)のレッド・データ・ブックで、近畿地方では絶滅したと見られていたサクラソウ科のハイハマボッスが、梅雨期には一斉に小さな白い花を咲かせ、夏には木々にカブトムシがとまる。秋にはドングリが転がり、雪の降った翌朝には、野ウサギの足跡が点々と続く。


自然の再生をめざして


多様な生物の生命を育んでいる「いきものの森」は、子どもたちには自然の豊かさを教え、大人には懐かしさとともに心に潤いを与えてくれる。天気のよい日などは、日向ぼっこをするお年寄りの姿も見られる。環境学習の場として利用されることも多い。

「いきものの森」を管理する市職員で遊林会の事務局もつとめる丸橋(まるはし)裕一(ゆういち)さんは、森のもつ力を目の当たりにしている。

「子どもたちは、蜂など危険な虫もたくさんいる自然の大きさに初めは戸惑いますが、森を歩いていくうちにそんな危険など忘れて夢中になっていくんですよ」

今も昔も、自然との触れ合いを求める人間の本能にかわりはない。にもかかわらず自然を損ないつづけてきた「自然の美しさを感じる能力が欠如している現代人」(武藤さん)である私たちは、「いきものの森」がボランティアの手によってよみがえったように、身のまわりの自然を再生させるための努力を惜しんではならないと思う。

複雑な物事はまだ理解できない私の息子が、あの日「いきものの森」で本能的に見せた目の輝きを、おもちゃ箱の中にある音の出る自動車や電池で走る汽車には目もくれず、「いきものの森」で拾ってきたドングリを転がしたり、打ち鳴らしたりして遊んでいる姿を見ていると、そう思わずにいられない――。