生物学者のリスクの見積もり方(bloom の場合)前編
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私は「新型(豚)インフルエンザの致死率は従来の株と同程度」や、「避難勧奨地域以外では放射性物質による健康被害は考えにくい」という生物学的なリスクに関する記事を書いています。 それに対して「死者が出たらどう責任を取るのか」「今は健康でも○年後に被害が出る」「少しでも分からないことがある以上、危険寄りの立場を取るべき」という批判もありますが、私は現在の科学から論理的に推定されるリスクを述べるのが科学者の仕事だと考えています。 致死率 0.5% の感染症なら、感染源は危険人物として隔離し、人が集まる場所を閉鎖し、学校も企業活動も強い制限をかける必要性があります。 福島で癌や奇形が増えるなら、国家財政が破綻しても、住み慣れた土地を追われる人がストレスを受けても県内全域を居住禁止区域にすべきです。 危険寄りの分析も、安全寄りの分析も、どちらも住民に大きな負荷をかけるし、それに対する科学者の責任はどちらでも同じです。 科学者でないにしろ「線香の煙で癌になる論文がある」と脅されて葬儀場の隣から引っ越しをして仕事が見つからなかったり子供が友達関係で悩んだ後で反対隣の住民が健康で暮らしているのを知り、「何とも無かったから良かったじゃない」と開き直られたら納得いきませんよね。 リスクを煽る人は「あの人はたまたま長生き、もう一件隣はきっと早死に」とか言い訳するのがお約束ですが。科学の進歩はまた新しい謎を生むので、科学はこの先ずっと「分からない部分」が残ります。 しかし私達は科学の成果である農業、工業、医療などの恩恵を受けていますし、科学を利用せずに原始生活をしたところでリスクには直面する訳ですから、科学的なリスクの見積もりは必須です。 今回は生物系の研究者がリスクを見積もる方法について、私がインフルエンザと放射能のリスクを見積もった例を挙げて、解説してみます。 放射線生物学を初めて学ぶ方はこの記事からご覧になって下さい。 http://www.newtonpress.co.jp/newton/radiation/html/radiation.html (Newton 2008年10月号) 近藤宗平「人は放射線になぜ弱いか」(1998年の本)には多数の文献が紹介されていて、10 年以上前に放射線生物学はかなり研究が進んでいることが分かります。 リスクの見積もりには多面的なデータと論理性を駆使するこの記事を書く動機は、生物系の研究者がリスクを見積もる方法が伝わっていないことが放射能騒動の一因ではないかと考え始めているからです。私の場合は (A)疫学調査 (B)動物実験 (C)物質〜組織レベルまでの解析 (D)論理的な推察 (E)研究者側の事情、他の研究者の動向 ・・を総合して考察をしています。これは生物系のお約束なので説明不要と思っていたのですが、一般の方が(A)だけを根拠にしていると考えて「御用学者が安全寄りの疫学論文を出している」と邪推したり、物理系の研究者が(C)の知識も無いまま「放射線はとにかく少ない方が良い」と主張するのを見てきて、解説する必要があると考えました。 (A)疫学調査だけではリスクは論じられない疫学調査は複数の人間集団の比較(健康状態・生化学的データ・組織検査など)からリスクを見積もる方法です。「自然放射線が日本より高い国や、1960年代に放射性セシウムを浴びた世代の癌発生率に大きな違いは無い」も疫学的な考え方です。 ただ、調査対象を選ぶ過程で人為的な操作を入れやすいので、致死率を 100 倍多く見積もることも、安全側にねつ造することも出来ます。 極論を言えば、疫学調査はデータをねつ造しても「その調査に協力した人々」を再解析するのは不可能なので、言いっぱなしに出来ます。 「癌が○%増加」も「虐待が○%増加」と同じで、検査方法や通報システムの整備で変わる数値なので注意が必要です。 生化学データや組織切片などを基にした考察も症例数や測定法や組織切片の作成法などが問題になります。 「チェルノブイリ事故で胎児の奇形が増加」は奇形と判断する基準などが示されていない(目視に頼っている?)ため、「このサンプルは汚染地域由来である」という先入観を排除するための二重盲検法での評価が必要だと思います。 http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Lazjuk-J.html http://sleep.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-3c8a.html (粂先生のブログ記事の注6でも「リスクを最大に見積もった論文の一つ」として紹介されています) バンダジェフスキーの「心筋にセシウムが蓄積して病変を起こす」も切片の作成法や評価が議論になっています。 http://togetter.com/li/254477 (組織学に詳しい人も加わっている議論) 疫学調査は統計的な操作でもある程度の印象を変えることが出来ます。 それでも生データを見ると、雑なデータで論文を書いていることが考察出来る場合もあります。 http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110701 (バンダジェフスキーの「甲状腺にセシウムが溜まる」論文の穴に対する buvery さんの考察) http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110520 (ECRRが頻繁に引用しているトンデル論文の穴に対する buvery さんの考察) 児玉先生がチェルノブイリ膀胱炎で引用する「フクシマ論文」でも、土壌中のセシウム汚染量と尿中のセシウムの量の関係に疑問を感じた研究者は多いと思います。 Cs137 の濃度(Bq/L)が 高濃度汚染地域(55名)の 6.47±14.30 中濃度汚染地域(53名)の 1.23±1.01 高濃度汚染地域(12名)の 0.29±0.03 (「内部被曝の真実」の98頁や児玉先生の総説などに紹介されている数値) 高濃度地域のセシウム濃度の標準偏差が大き過ぎます。 標準偏差はデータのバラツキを示す数値で、高濃度地域(55名)のセシウム濃度が全員 6.47 なら6.47±0.00 となります。 エクセルで 6.47±14.30 となる母集団の元データを推定してみましたが、濃度が 1-20 の間にばらついた程度だと、55名の標準偏差は 5 も行きません。50 を数人入れながら平均 6.47 になるようにデータ集団を作っても標準偏差は 10 を切り、100 を1人だけ入れてやっと 10 を越えました。 つまり、6.47±14.30 となるには「外れ値と思われるごく小数のデータ」が必要です。 twitter でも標準偏差が誤植ではないか?という意見も出ていたし、私もそう思っていたのですが、総説も本も論文も同じデータなので誤植ではないようです。 http://togetter.com/li/170950 私が普段の実験(細胞を用いた運動解析など)でこういうデータを見たのは、学生が誤入力で 10 倍高い数値を入れた時です。 その時はすぐに気付きましたが、測定機器の不具合や尿の不適切な保管によりデータが間違って表示された可能性も考えられます。 本当に1人だけ尿中の Cs137 の濃度が 100 Bq/L を越えていた・・という可能性も有りますが、その場合は同じような数値の患者が複数出るまで母集団を大きくするのが常識で、複数のデータが得られれば標準偏差も常識的な値になります。 母集団を大きくしても同じようなデータが得られない場合、外れ値として統計から外します。 もちろん、たった1人でも尿中のセシウム濃度が高いなら、症例としては興味深いですが・・曖昧な疫学データを報道機関に意味ありげに発表する手法としては「日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)と信大病院が福島県内の子ども130人を対象に今夏行った健康調査で10人の甲状腺機能に変化が見られた」が有名ですね。 http://savechild.net/archives/9708.html (健康被害を心配する市民団体の問い合わせに「有為差は分からない」と回答) (A)の疫学調査は(B)以下の解析と合わせてこそ意味を持ちます。 逆にここ数年で急激に普及した携帯電話の電磁波など、(A)のデータが不足している研究も(B)以下のデータの積み重ねである程度のリスク見積もりは出来ます。 (B)動物実験はごまかしにくいが、人間で出来ないのがネックマウスなどの実験動物に放射線を照射したり、放射性物質を含む餌を与えたりして、健康状態や組織や生化学的な数値を調べるという手法は DNA の二重らせんが発見された 1950 年代より前から行われています。マウスは世代交代が早いので、人間の一生に相当する解析が数ヶ月で出来ます。さらに DNA 研究が進むにつれ、DNA の変異を直接解析する実験も多数行われてきました。 動物実験は資金力さえあれば追試出来ることが、ねつ造を抑制する力になっています。 バンダジェフスキーのセシウム蓄積説は動物実験では否定されつつあるようです。 http://togetter.com/li/273559 (論文の検証を試みる人々へのリンクあり) チェルノブイリ膀胱炎も動物実験で検証出来ますが、昆虫とほ乳類で変異を起こす放射線量が違ったり・・といった種ごとの数値のズレはあり、「マウスで大丈夫でも人間では違う」という反論は有り得ます。
人間でも子供にはハチミツを食べさせてはいけない(ボツリヌス菌への抵抗性が低い)といった違いがありますが、菌やアレルゲンへの反応は何段階かの生体反応を経るので個体差が出やすいです。 これに対して放射線による DNA 損傷は、活性酸素を介する2段階の化学反応(放射線→水の電離→活性酸素による DNA 損傷)か DNA が電離して損傷する一段階の化学反応(放射線→DNA の電離)です。 http://icchou20.blog94.fc2.com/blog-entry-232.html また DNA 修復酵素は種間保存性が高く、ほ乳類はほぼ同じ酵素グループを利用しているので、少なくとも DNA 修復はマウスのデータがかなり利用出来ます。 また、DNA 修復能力に個体差があるという仮定は、酵素の変異では説明が難しいです(修復酵素に変異がある場合は自然放射線でも生存が難しくなるため)。 http://homepage3.nifty.com/anshin-kagaku/helr4-11-2.htm (放射線に弱いナイミーヘン症候群) タンパク質損傷は、脂質の損傷は・・と心配する人もいるでしょうが、そちらもマウスとヒトでほぼ同じ修復 or 交換機構です。つまり動物実験の評価には(C)物質〜組織レベルまでの解析が必須ということです。 長くなるので記事を分けます。 |
「時事問題(科学系)」書庫の記事一覧
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2013/6/22(土) 午後 11:35
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2013/4/16(火) 午後 11:29
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2013/4/4(木) 午前 0:36
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2013/1/20(日) 午後 5:52
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2013/1/11(金) 午後 7:38
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2012/11/3(土) 午後 11:53
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2012/5/20(日) 午後 0:45