彼の骨折③(完結)
土日、仕事が休みの知也はさすがにソファの上でクッションに脚を載せて、おとなしくしていた。手も極力使っていない。
「ごめんな、亜由。どこも行けなくて」
「いいよ。たまにはいいよね、こういうのも」
レンタルDVDを見たり、コーヒーを飲みながらごろごろしておしゃべりをしている内に、あっという間に夜になった。
「もうこんな時間かあ…。夕食作るけど、何食べたい?」
「そこのファミレスでも行く?」
知也の言葉に、亜由は首を横に振った。
「だめだよ、せっかく腫れも引いてきたのに」
「大丈夫だって、近くだし。2日間ずっと部屋の中だったから息詰まりそう」
「…それじゃあ、近くなら」
亜由は渋々うなずいた。
「じゃあちょっと、出掛ける前にトイレ行ってくるわ」
知也は立ち上がりトイレに入った。知也は室内では松葉杖なしで歩いている。亜由の脳裏に、ふとある考えが浮かぶ。
(どうしよう…でも成功するとも限らないし、やるだけやってみる…?)
亜由は急いで台所に行き、キッチンペーパーにサラダオイルを含ませ、それを二本の松葉杖の先にたっぷりと塗った。水音がして、知也がトイレから出てくる気配がした。亜由は慌ててキッチンペーパーを捨て、松葉杖を玄関に持っていく。
「じゃ、行こっか」
知也は亜由のしたことも知らず、松葉杖を持とうとした。亜由は慌てて言う。
「だめ!せっかく手首よくなってきたんだから、外までは使わないで!」
「え、大丈夫だって」
「でも心配だもん。脚だって心配だけど、ギプスしてるし」
亜由は有無を言わさずに押し切った。もしも松葉杖を使えば、オイルが早々にばれてしまうかもしれない。
亜由が松葉杖を持ち、二人は階段まで並んで歩いた。知也は脚をつくたびに少し痛そうな顔をする。
「あ!」
階段を降りる直前、亜由は声をあげ、持っていた松葉杖を知也に渡した。
「ごめん、携帯忘れちゃった。取ってくるね。先行ってて!」
言いながら走って部屋に戻り、鍵を開けた亜由は、ドキドキしながら扉を閉めた。携帯を忘れたのは嘘だ。ちゃんとバッグに入っている。
(きっと知也、松葉杖を使って階段を…)
亜由がそう思った途端だった。
「うわあああああっっっ!!」
扉の向こうから、知也の叫び声と何かが転げ落ちる気配がした。
(やっぱり!!)
亜由は部屋を飛び出した。知也はオイルを塗った松葉杖を使って階段を降りようとしたのだ。松葉杖はついた途端にオイルで滑り、知也はきっと…
「知也!!」
亜由は階段の上から叫んだ。知也が階段のいちばん下に倒れている。叫び声を聞きつけたらしいマンションの管理人が走り寄ってくる。
「大丈夫ですか!?」
「う…うっ…く…っ」
知也は体を丸めて痛みに耐えている。亜由が「知也!」と腕に縋り付くと、
「うぁぁっ!!」
と声をあげた。亜由の手の平にもはっきりと、折れた腕の骨の感触がある。
(いやだ…まさかこんな…大怪我になるなんて…!)
「救急車呼んでくださいっ!!」
亜由は管理人に言った。管理人は慌てて立ち上がった。
翌日。
「ゔぅ…」
「知也…痛むの…?」
亜由は痛みに耐える知也の額の脂汗をタオルで拭きながら、病室のベッドに付き添っていた。
知也は首にコルセットをはめている。右脚のギプスはそのままだが、更に右腕にも肘上からギプスをはめている。
腕と脚を天井からから吊られ、身動きが取れない状態で知也は横たわっていた。
病室のドアがノックされ、おそるおそる顔を出したのは岡田だった。
「亜由さん…作田さん、大丈夫ですか?」
「岡田くん、来てくれたんだ。ありがとう」
「いや、近くに来たんで」
亜由は微笑んで知也の耳元で言った。
「知也、岡田くんだよ…?」
「作田さん、具合どうですか?」
「それが…あちこち折っちゃって…」
亜由はうつむいて言った。
「無理して一人で階段を降りようとして、松葉杖をつきそこなっちゃったみたいで…」
「亜由、余計なこと言うなって…」
知也が苦しそうな声で言った。
「別に、そんなひどい怪我じゃ…」
そう言いながら起きようとし、
「っ痛…っ!」
と声をもらす。
「もう、動かないで!首の骨も折れてるんだから!」
亜由は眉をひそめて、起き上がろうとした知也の両肩をベッドに押し戻した。岡田も言う。
「そうっすよ、作田さん。仕事は俺に任せてください!」
「それが一番…心配…」
ぐったりとベッドに横たわり、知也は言った。
「仕方ないでしょ、脚だけじゃなく腕も折っちゃって、しばらくは絶対安静って言われてるんだから…。岡田くん、1か月は入院って言われてるの。仕事、よろしくね」
「任せてくださいっ!作田さん、ゆっくり休んでくださいね!」
岡田は満面の笑みで帰っていった。
「知也、水飲む?お茶がいい?」
「ん…じゃ、お茶…」
亜由は吸い飲みに冷たいお茶を入れ、吸い口を知也の口に入れた。
「いいって、普通にコップで…」
「何言ってるの。首動かすの厳禁でしょ」
そう言って、亜由は吸い飲みを傾けた。
「1人で何でもやろうとしないでよね。脚も腕も、全然骨がついてないんだから」
「別に動いても痛くないって…」
亜由は肘を少し曲げられた状態で、付け根から指先までギプスで固定された知也の腕を見た。腫れているために縦に割られ、上から包帯でぐるぐる巻きにされて吊られている。
亜由はその腕を、ポン、と押した。バンドで天井から吊った腕がブランコのように揺れ、
「いだっ!いてえっ!亜由、痛いって!!」
知也は大声をあげながら、慌てて左手で右腕の揺れを停めた。
「ほら、やっぱり痛いんじゃない」
亜由は言った。
「退院してもしばらく車椅子だからね。もう、絶対無理しちゃダメだよ。これ、洗ってくるね」
亜由は吸い飲みを手に立ち上がり、通りがけに吊られた知也の脚をポン、と叩いた。
「だっ!いだっ!」
知也は思わず枕から首を上げ、
「…っ!!…痛っ…いてぇ…」
と左手で首を押さえてうめく。亜由は
「でしょ。ちゃんと安静にしてて!」
と言って廊下に出た。
(あー…もうっ!)
廊下を歩きながら知也の痛がる姿を思い出し、亜由は下腹部を脈打つ熱さを押さえられなかった。
(知也…私が、ちゃんと面倒みてあげるからねっ…!)
そう思いながら亜由は、自分の顔が微笑んでいることに気づいていた。
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