「一切衆生=善機のみ」の論破コメント
No title
飛雲で何度も論破されているのにね。
当たり前のことですが、「定散諸機」≠「極重悪人」、「善凡夫」≠「悪凡夫」
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-1d09.html
偽装本願寺布教師は、何年経っても何の進歩もありません。すでに論破されて逃亡した内容を延々と繰り返すのみです。
”嘘も百回言えば真実になる”が、真実と思っているのでしょうが、相手にするのもあほらしくなります。
「常没の衆生」=「仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫」=「いまの時の善悪の凡夫」
これくらいのことも理解できないのですから。
「定散諸機」については一年以上前に
「定散諸機」とは
で述べていますし、昨年10月にも
愚かで哀れな講師部員
で述べています。『正信偈』の
善導独り仏の正意をあきらかにせり。定散と逆悪とを矜哀して
及び、『正信偈大意』の
「善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪」といふは、浄土門の祖師その数これおほしといへども、善導にかぎり独り仏証をこうて、あやまりなく仏の正意を明かしたまへり。されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。
は、「定散の機」と「五逆の機」とは別であることを示しています。これが同じだというのであれば、小学校で国語を習ってきてください。
昨年8・9月には
井の中の懲りない面々
でも解説した後、質問しました
・浄土門の人に19願を勧められた親鸞聖人のお言葉
・誰も化土往生できないと仰った親鸞聖人のお言葉
にも、未だに答えることができていません。なぜなら、そんなお言葉はないからです。そういえば誡疑讃を19願を勧められた根拠と言って、真宗会で笑われた人物もいましたね。
これらのお言葉は無いから三願転入の教えは根本から崩壊し、一切衆生必堕無間もカルトの教えで決着しています。その後言い訳をぐだぐだ言い続けて、幼稚園児のように駄々を捏ねられても面倒をみるつもりはありません。
「善凡夫」と「悪凡夫」についても、何度も何度も述べた通りです。
「定散の諸機」「極重悪人」と「機の深信」
悪人正機も理解できない親鸞会
「汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎」との明恵高弁の言葉を知っていますか?
でも取り上げています。
なお、山辺習學・赤沼智善著の『教行信證講義』の意味も取り違えて喜んでいるようですが、
「親鸞会の邪義を正す」
会員との問答(機の深信と罪悪観との違いについて)
でも紹介した
弥陀を信ずると云ふことが、単に、一心帰命と発表せられた場合には、起らなかった問題が、この機の深信の発表によって起った。夫は此の機の深信が、凡夫のみならず聖者にも通ずるのであるかと云ふ問題である。これを凡聖通局論と称す。
この問題は、見方によりては、甚だ有益にして、興味のあるものである。即ち言葉を換へて云へば、他力宗教の於ける聖者の意義とでも云ふべきである。所が一方他力教それ自身に於ても、龍樹、天親の二祖を菩薩と称して聖者の部類に入れてあり、そして二祖の著書の上にも、この機の深信が明示されていないために、この問題は、内外の聖者に対する興味あるものとなったのである。
従って問題の起因は、甚だ簡単である。即ち聖者の意義である。自力の修道によりて得たる證りは、果して真正なる證りであるかと云ふことである。所詮聖者と称せらるる人々は、卓越した能力を以つて、凡人以上の高尚なる精神生活をしてゐても、其中心に迷ひの根の断ち切れてをらぬかどうかと云ふのである。聖道の教へにありては、盛んに衆生も佛も同一であると談じて、道を修めてをるけれども、或は天に向ひて、バベルの塔を築いてゐるやうな愚を演じてをるのではなかろうか。素より漸次に努力すれば、凡人以上の高い立場の上に立つことが出来るけれども、上れば上るほど、哀心は益々絶対に対して取りつくことの出来ぬ悩みがあるのではないか。若しその悩みを感ぜずして、自己の現在の立場を楽しみ、夫を自負し、夫を固執するならば、知らず知らず驕慢の煩悩に捕へられてゐると云はねばならぬ。強く云へば、人間として生れた以上は、純善無漏の聖者と云はるる人は一人もなく、皆、中心には迷ひの根切れのしない所がありはせぬかと云ふのである。龍樹、天親二祖の如きも、善導大師の如く、明瞭に機相を打ち出されてはないけれども、一心に如来に乗託せられたことに依りて見れば、或は罪悪の根低たる自我の真相に触れて、自力無功を自覚して、他力に帰せられたことかも知れぬ。聖者と凡夫の間には、境遇や思想の相違から、等しく自力無功を自覚するにも、其感味は種々に異ることであらうが、其自己の真相に触れる點に至っては、同一であるかも知れぬ。或は聖者の方が、自力の高い山上から叩き落ちる點に於て、一層明瞭に此機相を自覚するかも知れぬ。我聖人の胸中には、御自身の實験上から、此凡聖是一の思想をもつてをられたことは明らかであるように思はれる。
を国語の能力のある人が読めば、龍樹菩薩、天親菩薩は「聖者」であって、「凡夫」ではなく、ましてや「極重の悪人」でもないことを言っているのが判る筈です。
「聖者と凡夫の間には、境遇や思想の相違から、等しく自力無功を自覚するにも、其感味は種々に異ることであらうが、其自己の真相に触れる點に至っては、同一である」を
「聖者」=「凡夫」
「定散諸機」=「極重悪人」
「善凡夫」=「悪凡夫」
「上根の機」=「下根の機」
などと理解するのは、日本語が判らないか、思考が異常な者の言うことです。
「自我の真相」「自力無功」という機の深信においては「同一」であることと、「罪悪」が同じであることの違いが理解できぬのでしょう。
「罪悪」について「聖者」が「悪凡夫」と同じなら、「自力の修道によりて得たる證り」はもともとないということで、聖道門の教えの否定です。『勅伝』の法然上人の救われる2つの場合について仰った
一には罪つくる時乗ずるなり。其故は、かくのごとく罪をつくれば、決定して地獄に落べし。しかるに本願の名号を唱れば、決定往生せん事のうれしさよと、よろこぶ時に乗ずるなり。
二には道心おこる時乗ずるなり。其故は、此道心にて往生すべからず。これ程の道心は、無始よりこのかたおこれども、いまだ生死をはなれず。故に道心の有無を論ぜず、造罪の軽重をいはずたゞ本願の称名を、念々相続せんちからによりてぞ、往生は遂べきとおもふ時に、他力本願に乗ずるなり。
を、地獄一定が万人共通の1通りと断言して、2chで
正常な脳
AとBの2つの場合がある。ということは、AかBの2通りに分かれる。
(当たり前過ぎて説明がいらない)
カルト脳の典型例
AとBの2つの場合がある。だからAしかないのだ。
(意味不明)
と笑われているのに、まだ判らないのですね。正常な思考の人から馬鹿にされて当然でしょう。
くどいようですが、悪人とは別に善人がいることを、釈尊も歴代の善知識方も仰っているのです。幼稚園ではあるまいに、善人と悪人とは違うことを一々説明する必要がありますか?
何度もいいますが、善知識方で聖道門の教えを否定された方はありません。聖道門は「悪凡夫」の機に合わないから、聖道門を捨てて18願に帰依せよ、と教えられているのです。
聖道門の教えを否定する外道の者は、外道同士で罵り合えばよいでしょう。
また『観無量寿経』の隠顕については
『観無量寿経』の隠顕
でも述べた通りです。過去に論破されて答えられなかったものを、わざわざ蒸し返して恥の上塗りをしたいのでしょうか?
追及されて困った時には、創作アニメの韋提希が根拠になります。都合のいい論文と都合のいい末寺の説も持ち出して、聖教上の根拠を出せない情けなさ。
断章取義、改竄にはうんざりしています。聖教上の御文で話をしなさい。
とはいうものの、記憶力も読解力も思考力も著しく低く、道徳心に至っては0の人物とは議論は成立しません。
親鸞会内でも軽んじられ、誰かに構ってもらいたく仕方がないのはよく判りますが、記憶力も読解力も思考力も、せめて世間並にまで引き上げて、世間並みの道徳心を持って、過去のエントリーをそれぞれ1万回以上読んだ上で、的を射た内容をブログに書くならば、当ブログで構ってあげてもいいですがね、偽装本願寺布教師さん。
それと”無常の虎”の根拠もまだ回答してもらっていませんが。
2012-09-17(22:35) : みじめやな高森派 URL : 編集
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もう1つ
当たり前の当たり前の当たり前ですが、「定散諸機」≠「極重の悪人」
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-f25c.html
「定散諸機」と「極重の悪人」が同じだなどと、いつまでもこだわる者がいますが、どれだけ説明すれば判るのか、現代語も判らないようで、断章取義(談笑主義?)も相変わらずです。
というよりも判ろうとする気がないのです。認めたら終わりですから。
「かたし」についてですが、たとえて言えば、進学校ではない高校で成績も良くない学生が東大に入れるかどうか、普通に考えれば「東大に入るのは無理だ、難しい」と言います。では可能性は0%かといえば、そうではありません。その生徒は勉強が嫌いで全くしてこなかっただけで、記憶力・思考力は、人一倍優れていて真面目に勉強をすれば東大に入ることができることもあり得ます。あるいは特別な才能がなくても、奮起して一日20時間勉強して東大に合格することも絶対にない話ではありません。ただし、極めて稀ということです。それを日本語では「難しい」「できない」と表現します。これくらいのことは、誰でも判ると思いますが。
これが理解できないとは困ったものです。
私は最初から、定散二善が誰一人できないといったことは、一度もありません。真宗の解説書でも同じです。『教行信証講義』については再三紹介しましたが、聖者と凡夫を区別されていますように、全人類が「極重の悪人」とは言っていません。機の深信と罪悪観がいつまで経っても理解できない知恵しか無い人には、私の書いていることを理解することは無理でしょう。
対機説法・応病与薬とは、「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ」
「仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫」=「いまの時の善悪の凡夫」
当たり前のことですが、「定散諸機」≠「極重悪人」、「善凡夫」≠「悪凡夫」
でも繰り返し述べたことが何も理解できず、いつまでも無視し続けています。
何度も説明していますが、仏教では
聖者
善凡夫
悪凡夫
と区別されます。超常識です。
親鸞会の教学は、仏教界・真宗界では通用しないことをよく知っておきましょう
で、
「薄地の凡夫」とは、本願寺出版の注釈では、
聖者の域に達しない下劣な者。凡夫を三種に分け、三賢(十住・十行・十回向)を内凡、十信を外凡、それ以下を薄地とする。
とあります。「WikiDharma」でも
サンスクリット語の「prithag-jana」は「必栗託仡仡那」と音写され、「異生」と訳される。これは衆生の項に説明がある。玄応音義 には「凡夫というは義訳なり」といって、「婆羅必粟託仡那」(bala-prithag-jana)と解釈している。
一般的に凡夫とは「凡庸なる士夫」の意味で、十分に四諦の道理を知らない人をいう。「凡夫は身見をもって性となす」といわれて、我見にとらわれている人をいう。
自己に実の我があると考え、自と他とを区別し自分に執着して、その差別観の中に苦悩している者のことである。見道(けんどう)以前のものを凡夫という。
この凡夫を内凡(ないぼん)・外凡(げぼん)・底下(ていげ)の凡夫などと区別する。
内凡とは見道に直前する四善根の位にある人、外凡とはその前の三賢の位にある人、底下の凡夫とは外凡以前の人々をいうのである。六道に輪廻するものを声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖に対して六凡という。
とあります。意味は少し違いますが、善のできる凡夫もいれば、善のできない凡夫もいるのです。
十方衆生=凡夫=下品下生=逆謗の機
という迷信が親鸞会で蔓延っています。その誤りは、何度も何度も述べてきました。
と書いたところ、「真宗界のどこで通用するのか」、と愚かなことを書いてきた親鸞会擁護の偽装退会者がいましたが、本願寺がこのように説明しているのに、「真宗界で通用しない」とかどこまで無知を晒したいのかと本当に驚きます。
善凡夫に対して定散二善を勧められた、悪凡夫に対して念仏を勧められた
この簡単なことが、どうしても認めたくないから、駄々をこねているだけのことです。
善導大師の『玄義分』で以下のように説明されていると以前に書きました。
上品上生……まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し
上品中生……またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして
上品下生……ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして
中品上生……またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。
中品中生……ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。
中品下生……ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。
となっています。
上品上生・上品中生・上品下生が、行福のできる凡夫です。
中品上生・中品中生が、戒福のできる凡夫です。
中品下生が、世福のできる凡夫です。
以上が善凡夫です。
一方で下品上生・下品中生・下品下生については
この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。
となっていまして、
下品上生・下品中生・下品下生が、無善造悪の凡夫です。これが悪凡夫です。
これより
「常没の衆生」
=「仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫」
=「いまの時の善悪の凡夫」
となりますが、どこに矛盾があるのでしょうか?
これが「いまの時の悪凡夫」なら話は判らないこともありませんが、「いまの時の善悪の凡夫」です。
これを法然上人は『勅伝』に
上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」
と仰っているのです。筋の通らないところはどこにもありません。
実例としては、龍樹菩薩のような聖者もあれば、『高僧和讃』曇鸞讃に
鸞師こたへてのたまはく
わが身は智慧あさくして
いまだ地位にいらざれば
念力ひとしくおよばれず
とあるように、いまだ「地位」(初地以上の聖者)にまで至っていないが、ある程度のくらいまでは至られた曇鸞大師のような方もありますし、定善について『定善義』で
万事ともに捨てて、なほ失意・聾盲・痴人のごとくなれば、この定かならずすなはち得やすし。
と仰った善導大師のように、定善の容易な方もあります。
『教行信証』信巻で
禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。
と、上品上生の往生を遂げたと親鸞聖人も認められている智覚禅師もいます。
これ以外にも聖者・善凡夫の方々がおられる根拠はたくさんあります。当たり前です。そんなことを今頃説明する必要があるのでしょうか?
ところが極々一部の御文の言葉尻だけを捉えて、
「定散諸機」=「極重の悪人」
と無理やり結論付けるのが、カルト思考の典型です。
高森教でしか通用しない珍解釈を何度書いてきたところで、誰も支持しません。なぜなら、聖教上の根拠がないからです。ただ『教行信証』化土巻の
『観経』の定散の諸機は、「極重悪人、ただ弥陀を称せよ」と勧励したまへるなり。
の一文をもって、曲解することしかできません。
いつも言っていますように、極々僅かな御文を解釈したものが、それを完全に否定する膨大な御文があるのであれば、その極々僅かな御文の解釈が間違っているということです。少しでも論理的に考える知能があるなら、誰でも判る話です。
善知識方で聖道門を否定された方は誰一人おられないことも、根拠を挙げて説明してきましたが、聖道門の機があるのに、定散の機が誰もいないという理屈が通るとでも思っているのでしょうか。
当ブログを隅から隅まで一万回以上読んでから、ブログを書かないと恥を何重にも上塗りするだけです。
とにかく批判のための批判をして、上層部へのごますりをしたいだけなのでしょうが、私も暇ではありませんので、これ以上幼稚な思考に付き合うことはしません。
幼稚園児以下の思考と罵られながら、負け犬の遠吠えをいつまでも続けて下さいな。
2012-09-17(22:37) : みじめやな高森派 URL : 編集
1.善導大師は機の深信で御自身のことを「常没の凡夫」と仰っているのは、間違いのない事実。善導大師は定善が容易いと仰っているのも事実。「常没の凡夫」である善導大師が定善が容易いと仰ったのですが。
ならば、前回のコメントは有効
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1.善導大師は、御自身のこととして
・定善をすることは易い
・善根が少ない
・常没の凡夫
と仰っています。
そして善導大師は、定散二善を、
・定散二善のできる凡夫のために説かれた
とまた仰っています。
このことから、善導大師が「定散二善のできる凡夫」の存在を明言されていることになります。
ここまでは、管理人さんも異論はないと思います。
ただし、「定散二善のできる凡夫」が還相の菩薩と独特の解釈をしたのが管理人さん。私は善導大師、御本典、存覚上人の御文をそのまま素直に読んで、「定散二善のできる凡夫」と主張し、意見が分かれています。
しかし、「定散二善のできる凡夫」(還相の菩薩か否かは別として)以外に「定散二善のできない凡夫」がいることは、管理人さんと私とは意見が完全に一致しています。
よって結論として
・「定散二善のできる凡夫」(還相の菩薩か本当の善凡夫か)に対して定散二善を説かれた。
・「定散二善のできない凡夫」に対しては、定散二善は説かれていない。
ということで、高森会長の解釈、及び管理人さんの「定散諸機=極重悪人」説は間違いで宜しいですね。
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2012-09-19(20:50) : みじめやな高森派 URL : 編集
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善導大師
定善の機―定善のできる凡夫
散善の機―行福のできる凡夫
戒福のできる凡夫
世福のできる凡夫
無善の凡夫
このように定義された。
親鸞聖人は散善の機から無善の凡夫を除かれて
定善の機―定善のできる凡夫
散善の機―行福のできる凡夫
戒福のできる凡夫
世福のできる凡夫
逆悪の機―無善の凡夫
とされた。『正信偈』の「定散」「逆悪」がこれ。
つまり親鸞聖人が定散の機あるいは定散諸機といわれるのは、
定善の機―定善のできる凡夫
散善の機―行福のできる凡夫
戒福のできる凡夫
世福のできる凡夫
ということ。それが『愚禿鈔』の
二機とは、
一には善機、 二には悪機なり。
(中略)
また善機について二種あり。また傍正あり。
一には定機、二には散機なり。[『疏』に「一切衆生の機に二種あり、一には定、二には散なり」といへり。文]
(中略)
また悪機について七種あり。
一には十悪、 二には四重、
三には破見、 四には破戒、
五には五逆、 六には謗法、
七には闡提なり。
凡夫である定散諸機について、
臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして
定散諸機をすすめけり
(浄土和讃)
と教えられている。
これは、釈尊が観経で説かれた定散二善を勧められた相手が凡夫である定散諸機ということ。
さて、何かの一つ覚えで書いている
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」といへり。
ですが、「定心修しがたし」「散心行じがたし」「立相住心なほ成じがたき」「無相離念まことに獲がたし」と「かたし」としか書かれていない。「不可なり」となっていない。
「かたし」の他の例として親鸞会でも有名な
信楽受持することはなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし。(正信偈)
善知識にあふことも
をしふることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなほかたし
(浄土和讃)
などたくさんあるが、可能性ゼロという意味で使われてはいない。
「不可」の例は信巻の
この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり
と、可能性ゼロを強調されている。ここで、「虚仮雑毒の善」ができる者がいる前提で仰っている。「虚仮雑毒の善」は当然、善。定散諸機の者でも、報土に往生することは「不可」可能性ゼロである。
更には
禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。(信巻)
と実際に高玉・智覚の名前を挙げて、上品の方であると親鸞聖人が善のできる常没の凡夫が実在したことを仰っている。
ところがこの凡夫である定散諸機は、実は還相の菩薩だという珍解釈をしたのが管理人さん。もちろんそんな御文はないわけで、
「結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。」
というエントリーのタイトルは管理人さん自身のことであった。
2012-07-31(04:36) : 根拠捏造 URL : 編集
2012-09-19(20:54) : みじめやな高森派 URL : 編集
宗祖は「道の言は路に対す」のお言葉どおり、「道」を「大きなみち(大道)」、「路」を「小さなみち(小路)」とされ、非常に注意深くかつ緻密に言葉を選んでおられます。
「正信偈」に
「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽」
(難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。)
とありますよね。龍樹菩薩の発揮を讃嘆なされたところですが、「易行品」に
「仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。」
と、いずれも「道」とされているものを、わざわざ「道」と「路」に峻別なされているのです。
………
……
…
さて、再度『愚禿鈔』の記述を見てみましょう。
「「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。」
管理人さんのおっしゃるように
白道=すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
としてしまうと、
道=路
になってしまいます。はたして宗祖がこんな「まちがい」をなされるのでしょうか…。
考えられるのは、
1:
「白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり」は「白路」の説明であって「白道」のことではない。
2:
http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-155.htm
で誤魔化しさんのコメントにあるように、
>白とは、【すなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。
>道とは、すなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。
>路とは、】すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
>つまり、【】内の赤字部分を誤って省略して書き写した可能性も考えられます。
(ちなみに文献学ではこのような誤写を「目移り」といいます)
ということになります。
逆に管理人さんに聞きたい。
「白道とは」と書かれてあって、直後の説明に「路」となっているのはなぜか。
………
……
…
>全然根拠になってないんですが。
>他力と自力があれば「他力を念ぜよ」と言われるのは当然。
十分根拠になってるでしょう。
前にも述べましたが、三願転入を万人に必須の道程(階梯)とするならば、どこかに「まず自力を念ぜよ」というふうなお言葉があるはずですが、それは具体的に何という御著書のどこにありますか。ないでしょう。
というか、できるだけ早く
「二河譬の譬喩段は観経の顕説」
「『白道』の白は自力小善の路である」
「無常と罪悪に責め立てられて、自力の廻向発願心で白道を渡り」
「獲信は二河の中、白道上のこと」
というご主張に基づいた「二河譬」の逐語訳をなされますようお願いします。
また一切往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一つの譬喩(喩の字、さとす)を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。なにものかこれや。たとへば人ありて、西に向かひて行かんとするに、百千の里ならん。忽然として中路に見れば二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。
この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りてこの人を殺さんとす。死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言すらく、〈この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死せんこと疑はず。まさしく到り回らんと欲へば、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せんことを〉と。時にあたりて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。
この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。
この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ喩(喩の字、をしへなり)へなり。
次に喩へを合せば、〈東の岸〉といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。 〈西の岸〉といふは、すなはち極楽宝国に喩ふ。〈群賊・悪獣詐り親しむ〉といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。〈無人空迥の沢〉といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。
〈水火の二河〉といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごとしと喩ふ。〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。いまし貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心、微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。
また〈水波つねに道を湿す〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心を染汚するに喩ふ。また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。〈東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む〉といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらず、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ、すなはちこれを声のごとしと喩ふるなり。〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふるなり。
〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。〈須臾に西の岸に到りて善友あひ見て喜ぶ〉といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。
仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによつて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見て慶喜すること、なんぞ極まらんと喩ふるなり。
また、往生を願うすべての人々に告げる。念仏を行じる人のために、今重ねて一つの譬えを説き、信心を護り、考えの異なる人々の非難を防ごう。その譬えは次のようである。
ここに一人の人がいて、百千里の遠い道のりを西に向かって行こうとしている。その途中に、突然二つの河が現れる。一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河と火の河の間に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。この道の東の岸から西の岸までの長さも、また百歩である。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり、少しも止むことがない。この人が果てしない広野にさしかかった時、他にはまったく人影はなかった。そこに盗賊や恐ろしい獣がたくさん現れ、この人がただ一人でいるのを見て、われ先にと襲ってきて殺そうとした。そこで、この人は死をおそれて、すぐに走って西に向かったのであるが、突然現れたこの大河を見て次のように思った。〈この河は南北に果てしなく、まん中に一すじの白い道が見えるが、それはきわめて狭い。東西両岸の間は近いけれども、どうして渡ることができよう。わたしは今日死んでしまうに違いない。東に引き返そうとすれば、盗賊や恐ろしい獣が次第にせまってくる。南や北に逃げ去ろうとすれば、恐ろしい獣や毒虫が先を争ってわたしに向かってくる。西に向かって道をたどって行こうとすれば、また恐らくこの水と火の河に落ちるであろう〉と。こう思って、とても言葉にいい表すことができないほど、恐れおののいた。そこで、次のように考えた。〈わたしは今、引き返しても死ぬ、とどまっても死ぬ、進んでも死ぬ。どうしても死を免れないのなら、むしろこの道をたどって前に進もう。すでにこの道があるのだから、必ず渡れるに違いない〉と。
こう考えた時、にわかに東の岸に、〈そなたは、ためらうことなく、ただこの道をたどって行け。決して死ぬことはないであろう。もし、そのままそこにいるなら必ず死ぬであろう〉と人の勧める声が聞こえた。また、西の岸に人がいて、〈そなたは一心にためらうことなくまっすぐに来るがよい。わたしがそなたを護ろう。水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな〉と喚ぶ声がする。この人は、もはや、こちらの岸から〈行け〉と勧められ、向こうの岸から〈来るがよい〉と喚ばれるのを聞いた以上、その通りに受けとめ、少しも疑ったり恐れたり、またしりごみしたりもしないで、ためらうことなく、道をたどってまっすぐ西へ進んだ。そして少し行った時、東の岸から、盗賊などが、〈おい、戻ってこい。その道は危険だ。とても向こうの岸までは行けない。間違いなく死んでしまうだろう。俺たちは何もお前を殺そうとしているわけではない〉と呼ぶ。しかしこの人は、その呼び声を聞いてもふり返らず、わき目もふらずにその道を信じて進み、間もなく西の岸にたどり着いて、永久にさまざまなわざわいを離れ、善き友と会って、喜びも楽しみも尽きることがなかった。以上は譬えである。
次にこの譬えの意味を法義に合せて示そう。〈東の岸〉というのは、迷いの娑婆世界をたとえたのである。〈西の岸〉というのは、極楽世界をたとえたのである。〈盗賊や恐ろしい獣が親しげに近づく〉というのは、衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大をたとえたのである。〈人影一つない広野〉というのは、いつも悪い友にしたがうばかりで、まことの善知識に遇わないことをたとえたのである。〈水と火のニ河〉というのは、衆生の貪りや執着の心を水にたとえ、怒りや憎しみの心を火にたとえたのである。〈間にある四、五寸ほどの白い道〉というのは、衆生の貪りや怒りの心の中に、清らかな信心がおこることをたとえたのである。貪りや怒りの心は盛んであるから水や火にたとえ、信心のありさまはかすかであるから四、五寸ほどの白い道にたとえたのである。また、〈波が常に道に打ち寄せる〉というのは、貪りの心が常におこって、信心を汚そうとすることをたとえ、また、〈炎が常に道を焼く〉とは、怒りの心が信心という功徳の宝を焼こうとすることをたとえたのである。〈道の上をまっすぐ西へ向かう〉というのは、自力の行をすべてふり捨てて、ただちに浄土へ向かうことをたとえたのである。〈東の岸に人の勧める声が聞こえ、道をたどってまっすぐに西へ進む〉というのは、釈尊はすでに入滅されて、後の世の人は釈尊のお姿を見たてまつることができないけれども、残された教えを聞くことができるのをたとえたのである。すなわち、これを声にたとえたのである。〈少し行くと盗賊などが呼ぶ〉というのは、本願他力の教えと異なる道を歩む人や、間違った考えの人々が、〈念仏の行者は勝手な考えでお互いに惑わしあい、また自分自身で罪をつくって、さとりの道からはずれ、その利益を失うであろう〉とみだりに説くことをたとえたのである。〈西の岸に人がいて喚ぶ〉というのは、阿弥陀仏の本願の心をたとえたのである。〈間もなく西の岸にたどり着き、善き友と会って喜ぶ〉というのは、衆生は長い間迷いの世界に沈んで、はかり知れない遠い昔から生れ変り死に変りして迷い続け、自分の業に縛られてこれを逃れる道がない。そこで、釈尊が西方浄土へ往生せよとお勧めになるのを受け、また阿弥陀仏が大いなる慈悲の心をもって浄土へ来れと招き喚ばれるのによって、今釈尊と阿弥陀仏のお心に信順し、貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、ただひとすじに念仏して阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせ、この世の命を終えて浄土に往生し、仏とお会いしてよろこびがきわまりない。このことをたとえたのである。
二河白道(にがびゃくどう)、貪瞋(とんじん)二河の譬喩ともいう。浄土往生を願う衆生が、信を得て浄土に至るまでを譬喩によって表したもの。善導大師の「散善義」に説かれる。
ある人が西に向かって独り進んで行くと、無人の原野に忽然として水火の二河に出会う。火の河は南に、水の河は北に、河の幅はそれぞれわずかに百歩ほどであるが、深くて底なく、また南北に辺はない。ただ中間に一筋の白道があるばかりだが、幅四五寸で水火が常に押し寄せている。そこへ後方・南北より群賊悪獣が殺そうと迫ってくる。このように往くも還るも止まるも死を免れえない、ひとつとして死を免れえない。
しかし思い切って白道を進んで行こうと思った時、東の岸より「この道をたづねて行け」と勧める声(発遣)が、また西の岸より「直ちに来れ、我よく汝を護らん」と呼ぶ声(招喚)がする。東岸の群賊たちは危険だから戻れと誘うが顧みず、一心に疑いなく進むと西岸に到達し、諸難を離れ善友と相見(まみ)えることができたという。
火の河は衆生の瞋憎、水の河は貪愛、無人の原野は真の善知識に遇わないことを、群賊は別解・別行・異学・異見の人、悪獣は衆生の六識・六根・五蘊・四大に喩える。また白道は浄土往生を願う清浄の信心、また本願力をあらわす。東岸の声は娑婆世界における釈尊の発遣の教法、西岸の声は浄土の阿弥陀仏の本願の招喚に喩える。