「自力の白道など、どこにも説かれていない」と仰る偽本願寺派
「白道」とは、
白の言は黒に対す、道の言は路に対す、
白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。
これすなはち自力小善の路なり。(愚禿鈔)
「『白道』の白は自力小善の路である」
その意を愚禿鈔巻末に
「ひそかに『観経』の三心往生を案ずれば、これすなはち諸機自力各別
の三心なり。『大経』の三信に帰せしめんがためなり、諸機を勧誘して三信に
通入せしめんと欲ふなり。」
和讃には
「万行諸善の小路より
本願一実の大道に
帰入しぬれば涅槃の
さとりはすなはちひらくなり」(高僧和讃)
「小善の路から他力の大道に入る」三願転入を示されたのは愚禿鈔に明らか。
これが御本典の内容ですから愚禿鈔にも、こう書かれているのです。
愚禿鈔には御真筆が現存していないので
自分たちに都合の悪い御文は「誤写」と、あっさり御聖教の御文を
否定するのだから「文証がない」のもあたりまえ。
御本典さえ「一切衆生=善機のみ」「不可=可能」とあっさり読み替えるのだから
それぐらいは朝飯前だよね。
覚如上人や蓮如上人は「誤写」とは言われなかった。
「善知識方と偽本願寺派の意見は違う」ということではっきりしています。
>御本典さえ「一切衆生=善機のみ」「不可=可能」とあっさり読み替えるのだから
あの、過去にすべて論破されているものばかりですが、以下に答えてから言うべきではないですか?
1.管理人さんが「教義のコメントには反論をしてきた」と自信満々に言ってきたが、反論できずに無視してきたコメントがいくつもあり、大嘘をついていた。
2.管理人さんが、「真宗学では全人類が闡提という解釈」と自信満々に言ってきたが、実は真宗学を学んでおらず、大嘘をついていた。
3.管理人さんの主張は「善ができるのは還相の菩薩のみ」というであり、聖道門は還相の菩薩のための教えというのと同様に、定散二善も還相の菩薩のための教えとなる。よって悪凡夫・逆悪の機・極重悪人には聖道門が関係ないのと同様、定散二善も関係がない。つまり、逆謗の機に定散二善を勧められたという高森顕徹会長の教えは、管理人さんによって完全に否定された。
4.管理人さんの考えでは、雑毒の善は悪ではなく、善導大師の仰る「仏法・世俗の二種の善根」に入るので、雑毒の善ができる人は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の下輩ではない。つまり、雑毒の善ができる人は、中輩か上輩である。
5.親鸞聖人は常没の凡愚でも雑毒の善のできることを認めておられるので、常没の凡愚にも「仏法・世俗の二種の善根」のある人が少なからず存在する。つまり、常没の凡愚には定散二善をすることは「かたし」難しいということであって、「不可」可能性ゼロではない。
6.親鸞聖人は御本典において『涅槃経』を引用されて、下根である闡提の者が、中根・上根という闡提ではない者に変わることを示されている上、他の御著書でも闡提は悪人の一部の機としてしか表現されていない。
7.親鸞聖人は御本典において、曇鸞大師の「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」を引用された後、善導大師の「謗法・闡提、回心すればみな往く」を引用されているので、謗法・闡提の者がそのままでは救われず、謗法・闡提の者でなくなって救われると教えられた。つまり、全人類が闡提という考えは、親鸞聖人には無い。
8.管理人さんは、闡提は無間業と主張しているが、親鸞聖人は「本願毀滅のともがらは 生盲闡提となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり」(高僧和讃)と無間業ではないと否定されている。
9.管理人さんは、大乗の五逆罪を無間業と主張しているが、親鸞聖人は三乗の五逆罪について御本典で「無間業と名づく」と明言された後、大乗の五逆罪についてはそのようなお言葉は一切ない。つまり、大乗の五逆罪が無間業という根拠は皆無である。
10.因果を深く信じる必要があるのは、上品上生と上品中生だけで、上品下生以下には、「因果の道理に疑いを生じてはならない」という前提は当てはまらない。つまり、管理人さんの断章取義が確定。
11.上品上生は「大乗を修学する上善の凡夫人なり」(観経疏)、上品中生は「大乗次善の凡夫人なり」(観経疏) とあるように、因果を深く信じた凡夫と善導大師は定義されているので、因果を深く信じた凡夫が存在する前提でしか善導大師は仰っていない。
12.結局、「常没の凡夫には善ができない」と管理人さんは喚いていますが、親鸞聖人は「定散諸機」と「逆悪の機」を明確に区別されて、結局、「常没の凡夫には善ができる者とできない者がある」としか仰ってない。しかも善のできる凡夫である定散諸機に対して定散二善を勧められている、と親鸞聖人が仰ったことで、決着。
13.いろいろ書いてみるが結局、「全人類が闡提、自性が闡提」という親鸞聖人の御文は無いわけです。
結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。
で決着。
14.曇鸞大師・親鸞聖人は、正法を誹謗する者は阿弥陀仏に救われないと断言され、親鸞聖人は信心決定した人は、師を謗り善知識を軽んずることはある筈がない、とお手紙でこれまた断言されている。謗法の者は謗法のままでは救われない、ということで決着。
15.七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と、管理人さん及び高森会長は、教義が根本的に異なり、安心も別なので、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人から見ると、管理人さんと高森会長は異安心で決着。
16.念仏誹謗の有情が、そのまま救われるというのが管理人さんの考え方、つまり、管理人さんは、阿弥陀仏に救われるのに聴聞も必要ない、三願転入などナンセンス、と親鸞会のいう求道を完全に否定した。
17.「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)、「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり」(正信偈大意)と、明白に「定散諸機」と「逆悪の機」もしくは「五逆の機」が別と教えられている。「定散諸機」と「極重悪人」が同じと仰った根拠は皆無で決着。
18.「肩たたき」は「孝養」に当たる。「第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。 曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。 ゆゑに世俗の善と名づく。」(散善義)と教えられている通り、「孝養」の「肩たたき」は散善になる、で決着。
19.仮相は「定善の機」「散善の機」「十悪の機」「五逆の機」「闡提の機」と様々であるが、実相は「自力では出離できない者」という一機である、で決着。
20.善知識に遇うには、過去世の因縁が必ずあった。しかし、その因縁とはどんなことであるかについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」(往生要集)と仰り、過去世の善根に限らない、不可思議な因縁ということで、決着。
21.釈尊は韋提希の請いに応じて定善の方法を説かれた。その表現は「観ぜしめたまふ」となっているが、韋提希の獲信後でも、その表現は変わっていない。つまり、釈尊は韋提希に定善をするように勧められた訳ではない。その証拠に、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観、というようにステップアップしていくので、日想観さえできない韋提希に釈尊がより難しい水想観を勧めることは有り得ない。よって、釈尊は韋提希に定善をするように勧められたのでもないし、韋提希が実践してもいない、で決着。
22.「深信因果」は散善の1つの行であり、もちろん諸行往生の行である。しかし、本願力回向とは相反する「深信因果」は、仏智不思議を疑う罪になるので、18願念仏往生のためには「深信因果」を含めた散善を捨てなければならない。もちろん、散善にならない倫理道徳の善は、世間の幸福には必要なものなので、往生と無関係に世俗の因果を信じて倫理道徳の善に励むように勧められている。これと「深信因果」とを混同しているのが管理人さん、ということで決着。
23.「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」といへり。」(化土巻)
この御文は、 「末代罪濁の凡夫」が下品生のことを指しているから、
常没の凡愚凡夫(善悪の凡夫)には、定善散善をすることは難しい(が不可能ではない)。悪凡夫には定善をすることは不可能である。
ということで、管理人さん「親鸞聖人は凡夫には定散二善をすることは不可能と教えられた」の主張は完全に否定された。
24.「しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 」 (信巻)を「この「難」はすべて可能性ゼロの「不可能」という意味です。」なんて主張は、日本語として有り得ないので、完全に間違いだったで決着。
25.親鸞聖人は雑行のことを「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり」(化土巻)と仰っているように、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は同じ」とは、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は【行が】同じ」ということで、【行が】同じでも、回心回向の心が違うこと。
つまり、梯氏への非難「六要の伝承を曲げて、また歴代の先輩の見解を捨てて、教えを曲げたい真意はどこにあるのでしょうか」とは、管理人さん自身への非難となるで決着。
26.「九品は方便」とは、管理人さんの解釈「九品の別があるのは方便で、下品下生の一機しかないが真実 」ではなく、親鸞聖人の解釈「九品は欣慕浄土のための方便で、念仏が真実 」「九品の往生は方便化土、念仏往生が真実報土」が正しいで決着。つまり、「九品の別がないのが真実だ」というのは、管理人さんの完全な妄想だった。
27.善導大師が仰り、親鸞聖人も引用されている『往生礼讃』の機の深信では、「善根薄少」 であり、下輩(悪人)の定義である「善根あることなし」とは明らかに違うので、機の深信に悪人の意味はない、で決着。
28.法然上人が「断善闡提のごとくなる者」と仰ったのは、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の「ごとし」と同じで、「同一」ではなく、「類似」の意味であり、小学生以上の国語力をもっていれば、
「断善闡提のごとくなる者」≠「断善闡提の者」
となるのは管理人さんも認めざるとえなかったで、完全決着。
29.『山科御坊之事並其時代事』に「木像本尊(安阿作)」とあり、明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実と管理人さんは認めた、で決着。
30.『慕帰絵詞』に、覚如上人が絵像を本尊とされている様子が描かれていることを管理人さんは認めた、で決着。
31.二河白道の譬えは信巻に引用されているが、化土巻には引用されていない。信巻は隠彰、化土巻は顕説。つまり、二河白道の譬えに顕説の意味はない、で決着。
2012-12-20(21:34) : みじめやな高森派 URL : 編集
『愚禿鈔』については、「飛雲」で散々論破されていますよ。それを誤読しているようでは悲しいですね。
「飛雲」から引用します。
文法からも、学問的観点からも、どこから見ても曲がった解釈
古文の文法さえ知らない、学問とは縁遠い高森会長と親鸞会ですが、今回は文献学という学問的観点から話をしてみます。
古文献には、原本と写本とがあります。『教行信証』で言えば、親鸞聖人が直に書かれた原本と、その原本を別の人が書写した写本、その写本をまた別の人が書写した写本があります。ここで、原本と写本とは、完全に一致していれば全く問題はないのですが、往々にして、写本には誤字、誤写、省略、加筆があるものです。従って写本では親鸞聖人の御心と違った内容になっている箇所もあり得ます。『教行信証』でもそのようなところが実際にあります。
このようなことから、親鸞聖人の御著書で原本が残されている場合には、原本で確認する必要があります。幸いにも親鸞聖人の御著書は、原本が伝わっているものが大半です。ところが原本のない写本しか伝わっていない御著書もあります。それが『愚禿鈔』です。
この『愚禿鈔』で、他の御著書と異なる内容が記されていて、古来から議論の対象となっている箇所が1箇所あります。それが「白道」です。
「白道」について書かれた『教行信証』と比較してみると判りやすいです。
『教行信証』信巻
白道とは、白の言は黒に対するなり。
白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。
黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。
道の言は路に対せるなり。
道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。
路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。
『愚禿鈔』
「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、
白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。
『愚禿鈔』における「白」の説明が『教行信証』とは明らかに異なっています。『愚禿鈔』の「白」の説明は、『教行信証』の「路」の説明と同じ内容です。
この事実を、真宗学を学んでいない文献学者が知ったならば、普通はこの『愚禿鈔』の写本は写し間違えられたものであると素直に理解するでしょう。
以下は想像ですが、『愚禿鈔』の写本には「路」と「道」の説明がないことから、原本には「道」と「路」の説明の部分が入っていたかもしれません。たとえば『教行信証』のお言葉をそのまま仮に入れて、以下のようになっていたかもしれません。
白とは、【すなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。
道とは、すなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。
路とは、】すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
つまり、【】内の赤字部分を誤って省略して書き写した可能性も考えられます。
写本では、このようなことはよくあることで、それは自分で書写した経験があれば想像できると思います。
写本の場合はこういったことも想定しなければならないのですが、断章取義・曲解・捏造、何でもありの親鸞会にとっては、そんなことはお構いなしです。
最近親鸞会が、「白道」を信前の求道とする根拠を、この
白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
としています。
根本聖典である『教行信証』によらなければ、親鸞聖人の正しい教えは判らない
と高森会長は言いながらも、『教行信証』を無視するのですから、お粗末極まりないです。尤も、『教行信証』を読んでいませんから、『教行信証』に書かれてあるお言葉も知らないでしょうけど。
ただし断っておきますが、これはあくまで文献学からの可能性ですので、親鸞聖人が本当に
白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
と書かれたのかもしれません。『愚禿鈔』の原本がない状態では、どちらが正しいということを断定することはできません。
しかし、原本でもこのようになっていた場合でも、親鸞会の主張は間違いです。ここでは、「自力小善の路」とありますので、ここは「白路」であって「白道」の説明ではありません。その証拠に、『愚禿鈔』のこの後には、
「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。
とあります。『愚禿鈔』がすべて親鸞聖人の書かれたことに間違いないという前提でも、「白道」は「他力」なのです。
いずれにしても、「白道」は自力の意味ではありません。
どんなに頑張っても、高森邪義は邪義でしかありません。それで、
親鸞聖人がこのように仰っているんだ。それが間違いだと言うのか!!!
と都合のよいお言葉だけを取り上げて、喚き散らして議論を吹き飛ばすのが精一杯でしょう。
出してくる根拠の前後を隠し、他の御著書との整合性を無視して、親鸞聖人の意図など関係ない、自分の主張さえ大声で叫べば相手は黙って勝ちだ、と思っている集団には、今回の話も理解できないでしょう。
こんな体たらくですから、高森会長が、第三者の前で退会者と法論することなど、永久にありません。
>その意を愚禿鈔巻末に
>
>「ひそかに『観経』の三心往生を案ずれば、これすなはち諸機自力各別
>の三心なり。『大経』の三信に帰せしめんがためなり、諸機を勧誘して三信に
>通入せしめんと欲ふなり。」
これについては「親鸞会教義の誤り」にありました。
親鸞会は諸行往生12
これまでのところを読んで御理解頂いている方には、今回は蛇足になります。
『本願寺なぜ答えぬ』には善の勧めとして取り上げられている親鸞聖人の根拠が、あと2つありますので、念の為解説しておきます。
『本願寺なぜ答えぬ』には、
十九・二十の方便二願は、真実、十八願に転入する、十方衆生の道程と、みておられることが、よくわかる。
このことは『三経往生文類』にも、みえるが、いまは『愚禿鈔』の文を、あげておく。
「ひそかに観経(十九願)の三心往生を按ずれば、これすなわち、諸機自力各別の三心なり。大経(十八願)の三信に帰せんがためなり。」
「万行諸善の小路(十九願)より
本願一実の大道(十八願)に
帰入しぬれば涅槃の
さとりはすなはちひらくなり」(高僧和讃)
と書いてあります。
権仮方便ということが理解されていれば、高森会長の御粗末なトリックは簡単に見破れますが、もう少し説明を加えてみましょう。
『愚禿鈔』で取り上げられた御文の前後を見ると、
おほよそ心について、二種の三心あり。
一には自利の三心、 二には利他の三信なり。
また二種の往生あり。
一には即往生、 二には便往生なり。
ひそかに『観経』の三心往生を案ずれば、これすなはち諸機自力各別の三心なり。『大経』の三信に帰せしめんがためなり、諸機を勧誘して三信に通入せしめんと欲ふなり。三信とは、これすなはち金剛の真心、不可思議の信心海なり。また「即往生」とは、これすなはち難思議往生、真の報土なり。「便往生」とは、すなはちこれ諸機各別の業因果成の土なり、胎宮・辺地・懈慢界、双樹林下往生なり、また難思往生なりと、知るべし。
となっています。
19願では化土往生しかできないから、報土往生の18願をはやく信じなさいと仰ったものです。18願の往生と19願の往生は別物で、並立するものです。
聖道仏教の学僧達から、諸善を勧める19願は本願ではないのか、と非難され、法然上人の教えを聞きながら、19願の往生を主張する人が多く現われましたので、親鸞聖人がこのように仰っておられるのです。その歴史的背景も知らねばなりません。
それで19願で往生しようと願っている人に対して、それは間違いであると誡めておられるのです。18願の難思議往生を求めている人に、19願の難思往生からスタートせよと仰ったものでないことは、少しでも古文が読める人なら分かる筈です。
>和讃には
>
>「万行諸善の小路より
> 本願一実の大道に
> 帰入しぬれば涅槃の
> さとりはすなはちひらくなり」(高僧和讃)
>
>「小善の路から他力の大道に入る」三願転入を示されたのは愚禿鈔に明らか。
これは「飛雲」にありました。
”方便より真実に入れ”の正しい意味
高森会長がヘンテコ真仮論を考えだしたのは、30年前の本願寺との論争の時です。『本願寺なぜ答えぬ』には、
誰もが、意識すると、しないとに、かかわらず、方便(仮)の道程を通らなければ、真実(真)の、絶対界には出れないのだ。
方便(仮)を通らずに、真実(真)が、どうして、真実と、知れようか。真実を、真実と、知らすための、方便なのだから。
ならばこそ、弥陀の本願から釈尊の説法、七高僧の教説は、悉く、方便と真実を比較して、説かれ、”方便より真実に入れよ”との、教えなのである。
その方便(仮)を、知らないのは、真実(真)も、わかっていない証拠、と結論づけられる。
と書いています。余りに幼稚な理論であったがために、本願寺が呆れて無視したのですが、それに気をよくして、未だに同じことを言い続けています。
この詭弁を見破れない人がいますので、簡単に解説しておきます。
現在、北アフリカ・中東諸国では、デモが頻発しています。デモの参加者が訴えていることは、
独裁政治より民主政治に変えよう
ということです。このデモ参加者の考えを、独裁政治を通らなければ民主政治には絶対になれないのだ、と理解する人はいないでしょう。ならば、
方便より真実に入れ
を方便を通らなければ、真実に入れないと考えるのは正しいでしょうか?
少し考えればお判りになると思います。
デモで訴えていることは、現在独裁政治の状態になっているから、それを民主政治に改めたい、というのであって、民主政治にするためには、独裁政治から始めて、独裁政治に耐えられなくなってから民主政治に移行しなさい、というものではありません。
それと同じで、現在方便に迷っている人に対して、それは方便だから捨てて真実に入りなさい、であって、方便に迷っていない人に、先ずは方便に迷って、方便では救われないことが知らされてから真実に入りなさい、という意味になる訳がないです。
これを踏まえて、『本願寺なぜ答えぬ』で引用されている根拠を見てみましょう。
『高僧和讃』曇鸞讃
万行諸善の小路より
本願一実の大道に
帰入しぬれば涅槃の
さとりはすなはちひらくなり
も、「万行諸善の小路」を通らなければ、「本願一実の大道」に出ることができないのではありません。「万行諸善の小路」に迷っている人はこれを捨てて、「本願一実の大道」を速やかに信じて入りなさい、ということです。
これだけ説明しても、「それこそお前の詭弁だ」、とひねくれ者が言ってくるかも知れませんので、曇鸞大師の根拠を出しておきましょう。『教行信証』行巻にも引かれている『浄土論註』のお言葉です。
まさにまた例を引きて自力・他力の相を示すべし。人、三塗を畏るるがゆゑに禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆゑによく禅定を修す。禅定を修すをもつてのゆゑに神通を修習す。神通をもつてのゆゑによく四天下に遊ぶがごとし。
かくのごときらを名づけて自力とす。また劣夫の驢に跨つて上らざれども、転輪王の行くに従へば、すなはち虚空に乗じて四天下に遊ぶに障碍するところなきがごとし。かくのごときらを名づけて他力とす。愚かなるかな後の学者、他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし。みづから局分することなかれ。
(現代語訳)
さらに例をあげて、自力と他力のありさまを示そう。人が、地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることを恐れるから戒律をたもち、戒律をたもつから禅定を修めることができ、禅定を修めるから神通力を習得し、神通力を得るからあらゆる世界へ自由自在に行くことができるようになる。
このようなことを自力という。また、力のないものがロバに乗っても空へのぼることはできないが、転輪聖王にしたがって行けば、空にのぼってあらゆる世界へ行くのに何のさまたげもない。このようなことを他力というのである。
自力にとらわれるのは何と愚かなことであろう。後の世に道を学ぶものよ、すべてをまかせることができる他力の法を聞いて、信心をおこすべきである。決して自力にこだわってはならない。
「万行諸善の小路」=「自力」にとらわれることを愚かなことと仰り、「本願一実の大道」=「他力」に「乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし」なのです。ここでの「自力」は自力仏教、「他力」は他力仏教のことです。当たり前のことですが、「信心を生ず」の前に、「自力」の教えを捨てて「他力の乗ずべきを聞きて」になります。
「愚かなるかな後の学者」と曇鸞大師が仰っているのは、「万行諸善の小路」=「自力」にとらわれている高森会長と会員のことです。
そして最期に、「みづから局分することなかれ」、と「万行諸善の小路」「自力」の教えにこだわることを厳しく誡めておられます。
親鸞聖人も同じことしか教えられていませんし、他の善知識方も同じです。法然上人の三選の文も、親鸞聖人の三願転入の文も、皆同じ意味です。
したがって高森会長の下記の言葉、
ならばこそ、弥陀の本願から釈尊の説法、七高僧の教説は、悉く、方便と真実を比較して、説かれ、”方便より真実に入れよ”との、教えなのである。
は、正しいのです。もちろん、”ただちに方便を捨てて真実に入れよ”の意味で。
二河のなかについて、
「一つの譬喩を説きて信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん」と。
「この道、東の岸より西の岸に至るまで、また長さ百歩なり」となり。{文}
「百歩」とは、
人寿百歳に譬ふるなり。
「群賊・悪獣」とは、
「群賊」とは、別解・別行・異見・異執・悪見・邪心・定散自力の心なり。
「悪獣」とは、六根・六識・六塵・五陰・四大なり。
「つねに悪友に随ふ」といふは、
「悪友」とは、善友に対す、雑毒虚仮の人なり。
「〈無人空迥の沢〉といふは、悪友なり。真の善知識に値はざるなり」となり。
「真」の言は仮に対し偽に対す。
「善知識」とは、悪知識に対するなり。[1]
真の善知識、 正の善知識、
実の善知識、 是の善知識、
善の善知識、 善性人なり。
悪の知識とは、 仮の善知識、
偽の善知識、 邪の善知識、
虚の善知識、 非の善知識、
悪の善知識、 悪性人なり。
「白道四五寸」といふは、
「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。
「四五寸」とは、四の言は四大、毒蛇に喩ふるなり。五の言は五陰、悪獣に喩ふるなり。
「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。
「あるいは行くこと一分二分す」といふは、年歳時節に喩ふるなり。
「悪見人等」といふは、驕慢・懈怠・邪見・疑心の人なり。
「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、
「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。
「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。龍樹大士『十住毘婆沙論』(易行品 一六)にいはく、「即時入必定」となり。曇鸞菩薩の『論』(論註・上意)には、「入正定聚之数」といへり。善導和尚は、「希有人なり、最勝人なり、妙好人なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」(散善義・意 五〇〇)といへり。「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。
「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。「能」の言は、不堪に対するなり、疑心の人なり。「護」の言は、阿弥陀仏果成の正意を顕すなり、また摂取不捨を形すの貌なり、すなはちこれ現生護念なり。「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。「慶楽」とは、「慶」の言は印可の言なり、獲得の言なり、「楽」の言は悦喜の言なり、歓喜踊躍なり。
「仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙る」といふは、順なり。「また弥陀の悲心招喚したまふによる」といふは、信なり。「いま二尊の意に信順して、水火二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗ず」といへり。
(『愚禿鈔 下』 ニ河譬釈)
管理人さんのおっしゃる
「『白道』の白は自力小善の路である」
を前提に全体を逐語訳すると、すべてが矛盾します。
「自力小善の路」を進む行者が「必定の菩薩」?
「自力小善の路」を進む行者が「真実の信心」を獲得している?
「自力小善の路」を進む行者が「選択摂取の本願」=「第一希有の行」を行じている?
「自力小善の路」を進む行者が「金剛不壊の心」を抱いている?
「自力小善の路」を進む行者が「方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰」している?
「自力小善の路」を進む行者が「諸仏出世の直説を顕」している?
「自力小善の路」を進む行者が「報土に還来せしめ」られる?
「「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。「能」の言は、不堪に対するなり、疑心の人なり。「護」の言は、阿弥陀仏果成の正意を顕すなり、また摂取不捨を形すの貌なり、すなはちこれ現生護念なり。「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。「慶楽」とは、「慶」の言は印可の言なり、獲得の言なり、「楽」の言は悦喜の言なり、歓喜踊躍なり。 」
「「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり」
「他力白道」
………
……
…
管理人さんのおっしゃる
「二河譬の譬喩段は観経の顕説」
「『白道』の白は自力小善の路である」
「無常と罪悪に責め立てられて、自力の廻向発願心で白道を渡り」
「獲信は二河の中、白道上のこと」
というようなことは、明らかに『愚禿鈔』の記述と矛盾していますよね。