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二河白道3 偽本願寺派の醜態

偽本願寺派は「宗祖は要門、真門の行者が弘願の者になるという

論法を用いない」と完全に三願転入を否定する。

そのためには御聖教の解釈も、あっさりと飛ばし読みしている。


また〈水波つねに道を湿す〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心
を染汚するに喩ふ。また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく
功徳の法財を焼くに喩ふ。(合法段)


深川倫雄氏の「散善義講讃」は散善義を逐語的に解説しているのだが

この御文に関しては「愛心起こって云々」まで解説した

以下すっとばしてある。

すごい断章主義。学者がこんなことしていいのか。



「染汚される善心」「焼かれる功徳の法財」は

「一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、

瞋憎の心つねによく法財を焼く。」(信巻)のお言葉のとおり

自力の善心であり、自力の功徳です。

深川氏自身も「愛心起こって」の解説にはこの信巻の御文を出しているので

間違いには気づいていても訂正の仕様がないのでしょうね。

後世物語聞書にあるとおり、他力の白道ならけがされたり、焼かれたりしないから

解説できないわけです。

まことに本願の白道、あに愛欲のなみにけがされん
や。他力の功徳、むしろ瞋恚のほむらに焼くべけんや。(後世物語聞書)



梯實圓氏の「白道をゆく」などは、初めから合法段としての

解説がありません。他の著書に何か書いてるか?

「染汚される善心」「焼かれる功徳の法財」についての解説があれば

聞いてみたいですね。どんな言い訳があるのか。















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全体

またあるひとのいはく、曠劫よりこのかた乃至今日まで、十悪・五逆・四重・謗法等のもろもろの罪をつくるゆゑに、三界に流転していまに生死の巣守たり。かかる身のわづかに念仏すれども、愛欲のなみとこしなへにおこりて善心をけがし、瞋恚のほむらしきりにもえて功徳を焼く。よきこころにて申す念仏は万が一なり。その余はみなけがれたる念仏なり。されば切にねがふといふとも、この念仏ものになるべしともおぼえず。ひとびともまたさるこころをなほさずはかなふまじと申すときに、げにもとおぼえて、迷ひ候ふをば、いかがし候ふべき。

 師のいはく、これはさきの信心をいまだこころえず。かるがゆゑに、おもひ わづらひてねがふこころもゆるになるといふは、回向発願心のかけたるなり。善導の御こころによるに、「釈迦のをしへにしたがひ、弥陀の願力をたのみなば、愛欲・瞋恚のおこりまじはるといふとも、さらにかへりみることなかれ」(散善義・意)といへり。まことに本願の白道、あに愛欲のなみにけがされんや。他力の功徳、むしろ瞋恚のほむらに焼くべけんや。たとひ欲もおこりはらもたつとも、しづめがたくしのびがたくは、ただ仏たすけたまへとおもへば、かならず弥陀の大慈悲にてたすけたまふこと、本願力なるゆゑに摂取決定なり。摂取決定なるがゆゑに往生決定なりとおもひさだめて、いかなるひと来りていひさまたぐとも、すこしもかはらざるこころを金剛心といふ。しかるゆゑは如来に摂取せられたてまつればなり。これを回向発願心といふなり。これをよくよくこころうべし。 (『後世物語聞書』)

今一度「二河譬」をお読みください

全体を読めば分かることです。

確かに「二河喩」において

「忽然として中路に見れば二つの河あり。(中略)まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。 」

とあり、

「〈水波つねに道を湿す〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心を染汚するに喩ふ。また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。」

とありますが、いずれもまだ白道に乗る前であること、即ち他力信を得る前であることに注意しなければなりません。これは「他力の白道は確かにあるが、信順すべき教えに出遇っていない、あるいは出遇っていてもそれに信順していない」ことを示しています。もっとわかりやすくいうと、「衆生救済の名号<南無阿弥陀仏>は十劫の昔に成就しているが、衆生がそれを受けとっていない」ということです。決して「白道は自力の善心であり、自力の功徳である」ということにはなりません。管理人さんのいう

>無常と罪悪に責め立てられて、自力の廻向発願心で白道を渡り
http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-151.html

は「二河譬」のどこを指しているのでしょうか。

藁人形論法について

>偽本願寺派は「宗祖は要門、真門の行者が弘願の者になるという
論法を用いない」と完全に三願転入を否定する。

これが詭弁なのですね。正しくは、

偽本願寺派は「宗祖は弘願の行者になるためには、必ずしも万人が要門、真門を経ねばならないという論法を用いない」と完全に三願転入を否定する。

ですね。

第十八願の三心と二河喩

・至心:白道
・信楽:白道に乗る
・欲生:白道を渡る

こういうことですね。

至心の体は<南無阿弥陀仏>の名号です。「染汚される善心」「焼かれる功徳の法財」とは、未信のものが
その名号法に何らかのかたちで仇なすことです。

No title

まだ言っているの?

信巻は、他力信心を顕わされたところで、化土巻は、自力信心を顕わされたところ。

管理人さんの言葉を使えば、

信巻は観経の隠彰である他力信心を顕わされたところで、そこに二河白道の譬えが引用されている。
化土巻は観経の顕説である自力信心を顕わされたところで、そこに二河白道の譬えは引用されていない。

どんなに屁理屈を捏ねようが、、二河白道の譬えは他力信心の意味以外にはないとするのが、親鸞聖人。

簡単な話をややこしくして誤魔化そうとするだけのこと。

もう少し勉強した方がいいよ。

No title

管理人さんが出している

また〈水波つねに道を湿す〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心
を染汚するに喩ふ。また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく
功徳の法財を焼くに喩ふ。(合法段)


の本願寺派の現代語訳は


また、<波が常に道に打ち寄せる>というのは、貪りの心が常におこって、信心を汚そうとすることをたとえ、また、<炎が常に道を焼く>とは、怒りの心が信心という功徳の宝を焼こうとすることをたとえたのである。


としているよね。

「信心を汚そうとする、信心という功徳の宝を焼こうとする」

その裏には御世物語聞書同様に、汚そうとしても汚されない、焼こうとしても焼けない、と言う意味でしょ。

何も難しい話ではない。

再び『後世物語聞書』

最初に挙げた『後世物語聞書』の「あるひと」というのは、信罪福心の自力念仏の行者なんですよ。だから「師」は

「これはさきの信心をいまだこころえず。かるがゆゑに、おもひ わづらひてねがふこころもゆるになるといふは、回向発願心のかけたるなり。」

と、未信を戒められ、

「たとひ欲もおこりはらもたつとも、しづめがたくしのびがたくは、ただ仏たすけたまへとおもへば、かならず弥陀の大慈悲にてたすけたまふこと、本願力なるゆゑに摂取決定なり。摂取決定なるがゆゑに往生決定なりとおもひさだめて、いかなるひと来りていひさまたぐとも、すこしもかはらざるこころを金剛心といふ。しかるゆゑは如来に摂取せられたてまつればなり。これを回向発願心といふなり。」

と、懇ろに他力信を勧められているのです。

もし管理人さんのいうように「獲信は二河の中、白道上のこと」とし、三願転入を万人に必須の道程(階梯)とするならば、「師」の答えは「けがされ焼かれながら、なお進め。やがて弥陀の御声を聞いた一念に本願の白道に生かされるだろう。そのまま頑張れ。」というようなものになると思うのですが、もちろんそんなことはどこにも書いてありません。

※管理人さんが『後世物語聞書』の御文を挙げられたので、私はそれに沿うかたちで「染汚される善心」「焼かれる功徳の法財」について、「未信のものがその名号法に何らかのかたちで仇なすこと」、つまり信罪福心と、「個別的」に説明してみました。それに対してみじめやな高森派さんが挙げられた現代語訳は、他力信に焦点をあてた、いわば「普遍的」なものですから、両者は一見違っているように思われるかもしれませんが、その本質は同じものです。

No title

「親鸞会教義の誤り」のコメント欄で参考になることが書いてあります。
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-43.html#comment


まず基本的なこととして、白道は三定死の後に歩む道です。三定死の直後に獲信と親鸞会で教えていると思いますが、それならば、どう考えても信後のことにしかなりません。
『浄土文類聚鈔』にも

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。

とありますが、
「白道」=「能生清浄願心」=「凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なる」
であり、他力のことです。
「白道」を信前の自力と解釈する理由が理解できません。

次に「回して」の意味ですが、これは仰るように「回向して」という意味と「ひるがえして」という意味と両方あります。後者の意味では「回心」は「心をひるがえして」ということです。二河白道の譬えの中でいえば、「われいま回らばまた死せん。」の「回る」は戻る、つまり「ひるがえす」ということです。
「白道」を信前という前提で考えると「回向して」と解釈したくなるのでしょうが、順番が逆です。
「回して」が「回向して」だから「白道」が信前ではなく、「白道」が信後だから「回して」が「ひるがえして」になるのです。そもそもの発想が違います。
「白道」を信前と仰ったお言葉があるなら別ですが、無いにも関わらず、「回して」を「回向して」と【仮定して】話を進めるのは論理的に間違っています。同じ理屈でいうならば、「回して」を「ひるがえして」と【仮定して】の話がないのがおかしいと思われませんか。

No title

「回して」と同じことで、まとめるとこうなります。

1、親鸞聖人の御著書では、白道を信前の求道として仰った箇所が全くない。すべて「他力」「自力のこころにあらず」で統一されている。

2、よって前提は『白道が他力信心を顕わす』である。

3、譬喩段において
  「その水の波浪交はり過ぎて道を湿し、その火炎また来りて道を焼く。」
 となっているが、白道は水の波によって削られたのでもなく、焼かれても燃えることもなく、白道は「闊さ四五寸」のまま何も変わっていない。
 つまり、「善心」は「愛心」「瞋嫌」によっても全く変わらない。

4、「一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。」の結論は、「この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。」である。
 つまり、この「善心」は「貪愛の心」「瞋憎の心」によって変化していることをあらわしている。

5、結論として「善心」の言葉は同じでも、
 白道は「変わらない善心」
 衆生の善心は「変わる善心」
 で、他力と自力の違いがある。

『真要鈔』における二河譬

「…「即得」といふは、すなはちうとなり。すなはちうといふは、ときをへだてず日をへだてず念をへだてざる義なり。されば一念帰命の解了たつとき、往生やがて定まるとなり。うるといふは定まるこころなり。この一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。

しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」(散善義 四六九)といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」(同 四六八)といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。」(『真要鈔』本)

管理人さんはこれを読まれてなお「二河譬の譬喩段は観経の顕説」「獲信は二河の中、白道上のこと」と主張なさるのでしょうか。

再び「染汚される善心」「焼かれる功徳の法財」について

全体を見てみましょう。

「 次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。
しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。 」(「信巻」三一問答 信楽釈)

以上を読むと、ここでの「染汚される善心」「焼かれる功徳の法財」とは、明らかに信前について言われたものだとわかりますよね。そして「二河喩」の

「また〈水波つねに道を湿す〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心を染汚するに喩ふ。また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。」

も同じく信前のことです。「二河喩」において行者が二尊に信順し決定して白道に乗じ渡り始めて以降、いかに水火の難が激しかろうと、それで白道や行者自身が損なわれることはありませんからね。

だから上記のような文証でもって

「…のお言葉のとおり自力の善心であり、自力の功徳です。」

とご主張なさっても、

「二河譬の譬喩段は観経の顕説」
「無常と罪悪に責め立てられて、自力の廻向発願心で白道を渡り」
「獲信は二河の中、白道上のこと」

ということにはならないのですよ。

管理人さん、一度ご自身のご主張に沿って「二河譬」を逐語訳してみてごらんなさい。絶対に破綻しますから。
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