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二河白道 譬喩段は観経の顕説

本願寺派の偽物がいるようだから

本願寺派勧学の説によることにしましょうか。




譬喩段の最後に祖師の左訓がある。

「これはこれ、喩(喩の字、をしへなり)へなり。」

(これは観経の教え、顕説の諸行往生を教えられたものである)


梯實圓氏はこの左訓を無視している。


すなはちみづから思念すらく、
〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として
死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道
あり、かならず可度すべし〉と。(譬喩段)


「われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。
すでにこの道あり、かならず可度すべし」は自力の廻向発願心。

無常と罪悪に責め立てられて、自力の廻向発願心で白道を渡り

死後に西岸に到る。

この観経の顕説に従って、道を求めた体験が述べられているのが合法段だよ。

二河白道は廻向発願心を解釈されたものだから

廻向発願心に自力と他力の二つあれば、白道に二つあるのは当然。

アンチSはそこから勉強しないとね。

「二河白道」 わりと良いブログ







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No title

また面白い珍釈だね。

>譬喩段の最後に祖師の左訓がある。

>「これはこれ、喩(喩の字、をしへなり)へなり。」

>(これは観経の教え、顕説の諸行往生を教えられたものである)


どうしてこれが、顕説の諸行往生を教えられたものになるわけ?

まあ、以下の程度の学力では、妄想にしからないのは無理もないけど。

No title
「ごとし」を「同一」とか言っている日本語の不自由な高森派がよく言うよな。

「過ぎたる」=「及ばざる」

なんだろ。分かりやすく言えば、

「+」=「-」

って、算数も知らないんだろ。

幼稚園児並みの国語力と算数力

2チャンでも笑われているぞ


M野のウンチブログには笑ったよ。

「ごとし」が「同一」の意味だって、馬鹿じゃないの。
「同一」と「同等」の区別もつかないなんて、本物の馬鹿。

M野の馬鹿ぶり

1.「かたし」は「難しい」ではなく「不可能」の意味

2.2通りは「万人共通」の意味

3.夕方を「真昼間」という

4.「ごとし」は「同一」の意味

No title

>廻向発願心に自力と他力の二つあれば、白道に二つあるのは当然。


珍しく、前半は合っているが、詰めが甘いね。

飛雲から引用しておくから、そこから勉強しないとね。


一口問答(白道は自力か他力か8)

白道についてはこれ以上説明の必要はないでしょうが、どうしても負けを認めたくない知ったかぶり”教学自慢”の講師部員や会員がいますので、一応書いておきます。

問い

親鸞聖人は『観無量寿経』に隠顕があると教えられています。顕説として自力の行と信、隠彰として他力の行と信が説かれている、というものです。二河白道の譬えは、善導大師が、『観無量寿経』の三心(至誠心・深心・回向発願心)の回向発願心の解釈をされる中にあります。したがって、「白道」は顕説の自力信心と隠彰の他力信心が説かれている、と親鸞聖人は見做されていたと言えるでしょう。

答え

負け惜しみですね。前にも言いましたが理解できていないようなので、再度説明します。
『教行信証』信巻には隠彰の他力の信心、化土巻には顕説の自力の信心が説かれています。『観無量寿経』の三心を解釈された『観無量寿経疏』の三心釈は、信巻にも化土巻にも引用されています。しかし、二河白道の譬えは、信巻にしか引用されていません。つまり、「白道」を顕説の自力の信心としては、親鸞聖人は仰っていません。

No title

もう一つ飛雲から引用。
勉強してね。



白道の意味さえ知らない高森会長

善導大師が作られ、親鸞聖人も度々言及された”二河白道の譬え”を、高森会長は完璧に誤解しています。善導大師は言うまでもないですが、親鸞聖人の御著書も読んでいない高森会長が、正しい”二河白道の譬え”を知っている筈もないでしょう。高森会長が知っている”二河白道の譬え”は、伊藤康善師の『仏敵』でしょう。

だれでもその関所を通るのです。今が、二河白道の真ん中へ出た味です。前へ進むには進まれず、後へ帰るには帰られず、じっと止まるにも止まられずという三定死の苦しいところです・・・が、今しばらくの辛抱です。この聞信の一念は、弥勒菩薩などが行われる百大劫の修行の代わりですからね・・・

これを読んだ高森会長が、白道を信前の求道と思い込んでしまったのだと思います。

高森会長の間違いについて難しい御文を挙げて説明しても、真宗教義の基礎が欠落している高森会長や講師部員、幹部会員には理解できないと思いますので、まずは基本から述べてみます。

『教行信証』は、真実を顕された前5巻と、方便を顕された第6巻とに大別されます。
教巻以外には、各巻の最初に阿弥陀仏の願名が挙げられています。

行巻―諸仏称名の願(17願)
信巻―至心信楽の願(18願)
証巻―必至滅土の願(11願)
真仏土巻―光明無量の願(12願)、寿命無量の願(13願)
化土巻―至心発願の願(19願)、至心回向の願(20巻)

各巻の最初にこのように書かれてあるということは、各巻は最初に挙げられた願の解説であるということです。
これは『教行信証』を読む上での常識です。

では、”二河白道の譬え”は『教行信証』のどの巻にあるか?
それは信巻です。18願意を説明される中で、”二河白道の譬え”を親鸞聖人は出されているのです。従って、”二河白道の譬え”は、18願の他力信心について顕されたものと判ります。

信巻の初めに

この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。

と仰って、18願の他力信心について明らかにされています。そこに”二河白道の譬え”が引かれているのですから、白道は当然ながら他力信心として親鸞聖人は教えられているのです。

もう少し詳しく解説すると、”二河白道の譬え”は善導大師の『散善義』の三心釈にあるものです。この三心とは、『観無量寿経』に説かれている至誠心・深心・回向発願心のことです。この三心について親鸞聖人は顕説と隠彰とに分けられて、顕説は自力の三心、隠彰は他力の三心と教えられています。
他力の三心は、18願の三心(至心・信楽・欲生)と同じであることを信巻で教えられています。ですから、白道は他力信心を顕すものとして引かれています。

一方、自力の三心は、化土巻で教えられています。『散善義』三心釈の一部を化土巻に引かれていて、自力の三心を顕されました。しかし化土巻には、”二河白道の譬え”は引かれていません。従って、”二河白道の譬え”は信前の自力信心、求道心でないことは明白です。
親鸞会では、化土巻にはどうすれば信心決定できるかの方法を教えられている、と言っていますが、”二河白道の譬え”はその方法ではないことになります。矛盾も甚だしいです。もちろん、化土巻は信心決定するための方法について書かれたものではありません。間違った行と信、そしてその利益について教えられたものです。

以上のことを常識的で論理的思考を持った人ならば、たとえ”二河白道の譬え”の詳しい解釈を知らなくても、”二河白道の譬え”は、真実の他力信心を譬えられたものであることが判る筈です。

次に直接的なお言葉では、『浄土文類聚鈔』に

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。

とあります。

「白道」
=「能生清浄願心」
=「凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なる」

です。

高森会長は、本当に何も知らないのです。

No title

これまでの議論の総まとめ


1.管理人さんが「教義のコメントには反論をしてきた」と自信満々に言ってきたが、反論できずに無視してきたコメントがいくつもあり、大嘘をついていた。

2.管理人さんが、「真宗学では全人類が闡提という解釈」と自信満々に言ってきたが、実は真宗学を学んでおらず、大嘘をついていた。

3.管理人さんの主張は「善ができるのは還相の菩薩のみ」というであり、聖道門は還相の菩薩のための教えというのと同様に、定散二善も還相の菩薩のための教えとなる。よって悪凡夫・逆悪の機・極重悪人には聖道門が関係ないのと同様、定散二善も関係がない。つまり、逆謗の機に定散二善を勧められたという高森顕徹会長の教えは、管理人さんによって完全に否定された。

4.管理人さんの考えでは、雑毒の善は悪ではなく、善導大師の仰る「仏法・世俗の二種の善根」に入るので、雑毒の善ができる人は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の下輩ではない。つまり、雑毒の善ができる人は、中輩か上輩である。

5.親鸞聖人は常没の凡愚でも雑毒の善のできることを認めておられるので、常没の凡愚にも「仏法・世俗の二種の善根」のある人が少なからず存在する。つまり、常没の凡愚には定散二善をすることは「かたし」難しいということであって、「不可」可能性ゼロではない。

6.親鸞聖人は御本典において『涅槃経』を引用されて、下根である闡提の者が、中根・上根という闡提ではない者に変わることを示されている上、他の御著書でも闡提は悪人の一部の機としてしか表現されていない。

7.親鸞聖人は御本典において、曇鸞大師の「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」を引用された後、善導大師の「謗法・闡提、回心すればみな往く」を引用されているので、謗法・闡提の者がそのままでは救われず、謗法・闡提の者でなくなって救われると教えられた。つまり、全人類が闡提という考えは、親鸞聖人には無い。

8.管理人さんは、闡提は無間業と主張しているが、親鸞聖人は「本願毀滅のともがらは  生盲闡提となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり」(高僧和讃)と無間業ではないと否定されている。

9.管理人さんは、大乗の五逆罪を無間業と主張しているが、親鸞聖人は三乗の五逆罪について御本典で「無間業と名づく」と明言された後、大乗の五逆罪についてはそのようなお言葉は一切ない。つまり、大乗の五逆罪が無間業という根拠は皆無である。

10.因果を深く信じる必要があるのは、上品上生と上品中生だけで、上品下生以下には、「因果の道理に疑いを生じてはならない」という前提は当てはまらない。つまり、管理人さんの断章取義が確定。

11.上品上生は「大乗を修学する上善の凡夫人なり」(観経疏)、上品中生は「大乗次善の凡夫人なり」(観経疏) とあるように、因果を深く信じた凡夫と善導大師は定義されているので、因果を深く信じた凡夫が存在する前提でしか善導大師は仰っていない。

12.結局、「常没の凡夫には善ができない」と管理人さんは喚いていますが、親鸞聖人は「定散諸機」と「逆悪の機」を明確に区別されて、結局、「常没の凡夫には善ができる者とできない者がある」としか仰ってない。しかも善のできる凡夫である定散諸機に対して定散二善を勧められている、と親鸞聖人が仰ったことで、決着。

13.いろいろ書いてみるが結局、「全人類が闡提、自性が闡提」という親鸞聖人の御文は無いわけです。
結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。
で決着。

14.曇鸞大師・親鸞聖人は、正法を誹謗する者は阿弥陀仏に救われないと断言され、親鸞聖人は信心決定した人は、師を謗り善知識を軽んずることはある筈がない、とお手紙でこれまた断言されている。謗法の者は謗法のままでは救われない、ということで決着。

15.七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と、管理人さん及び高森会長は、教義が根本的に異なり、安心も別なので、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人から見ると、管理人さんと高森会長は異安心で決着。

16.念仏誹謗の有情が、そのまま救われるというのが管理人さんの考え方、つまり、管理人さんは、阿弥陀仏に救われるのに聴聞も必要ない、三願転入などナンセンス、と親鸞会のいう求道を完全に否定した。

17.「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)、「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり」(正信偈大意)と、明白に「定散諸機」と「逆悪の機」もしくは「五逆の機」が別と教えられている。「定散諸機」と「極重悪人」が同じと仰った根拠は皆無で決着。

18.「肩たたき」は「孝養」に当たる。「第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。 曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。 ゆゑに世俗の善と名づく。」(散善義)と教えられている通り、「孝養」の「肩たたき」は散善になる、で決着。

19.仮相は「定善の機」「散善の機」「十悪の機」「五逆の機」「闡提の機」と様々であるが、実相は「自力では出離できない者」という一機である、で決着。

20.善知識に遇うには、過去世の因縁が必ずあった。しかし、その因縁とはどんなことであるかについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」(往生要集)と仰り、過去世の善根に限らない、不可思議な因縁ということで、決着。

21.釈尊は韋提希の請いに応じて定善の方法を説かれた。その表現は「観ぜしめたまふ」となっているが、韋提希の獲信後でも、その表現は変わっていない。つまり、釈尊は韋提希に定善をするように勧められた訳ではない。その証拠に、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観、というようにステップアップしていくので、日想観さえできない韋提希に釈尊がより難しい水想観を勧めることは有り得ない。よって、釈尊は韋提希に定善をするように勧められたのでもないし、韋提希が実践してもいない、で決着。

22.「深信因果」は散善の1つの行であり、もちろん諸行往生の行である。しかし、本願力回向とは相反する「深信因果」は、仏智不思議を疑う罪になるので、18願念仏往生のためには「深信因果」を含めた散善を捨てなければならない。もちろん、散善にならない倫理道徳の善は、世間の幸福には必要なものなので、往生と無関係に世俗の因果を信じて倫理道徳の善に励むように勧められている。これと「深信因果」とを混同しているのが管理人さん、ということで決着。

23.「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」といへり。」(化土巻)
この御文は、 「末代罪濁の凡夫」が下品生のことを指しているから、
常没の凡愚凡夫(善悪の凡夫)には、定善散善をすることは難しい(が不可能ではない)。悪凡夫には定善をすることは不可能である。
ということで、管理人さん「親鸞聖人は凡夫には定散二善をすることは不可能と教えられた」の主張は完全に否定された。

24.「しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 」 (信巻)を「この「難」はすべて可能性ゼロの「不可能」という意味です。」なんて主張は、日本語として有り得ないので、完全に間違いだったで決着。

25.親鸞聖人は雑行のことを「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり」(化土巻)と仰っているように、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は同じ」とは、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は【行が】同じ」ということで、【行が】同じでも、回心回向の心が違うこと。
つまり、梯氏への非難「六要の伝承を曲げて、また歴代の先輩の見解を捨てて、教えを曲げたい真意はどこにあるのでしょうか」とは、管理人さん自身への非難となるで決着。

26.「九品は方便」とは、管理人さんの解釈「九品の別があるのは方便で、下品下生の一機しかないが真実 」ではなく、親鸞聖人の解釈「九品は欣慕浄土のための方便で、念仏が真実 」「九品の往生は方便化土、念仏往生が真実報土」が正しいで決着。つまり、「九品の別がないのが真実だ」というのは、管理人さんの完全な妄想だった。

27.善導大師が仰り、親鸞聖人も引用されている『往生礼讃』の機の深信では、「善根薄少」 であり、下輩(悪人)の定義である「善根あることなし」とは明らかに違うので、機の深信に悪人の意味はない、で決着。

28.法然上人が「断善闡提のごとくなる者」と仰ったのは、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の「ごとし」と同じで、「同一」ではなく、「類似」の意味であり、小学生以上の国語力をもっていれば、
「断善闡提のごとくなる者」≠「断善闡提の者」
となるのは管理人さんも認めざるとえなかったで、完全決着。

29.『山科御坊之事並其時代事』に「木像本尊(安阿作)」とあり、明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実と管理人さんは認めた、で決着。

30.『慕帰絵詞』に、覚如上人が絵像を本尊とされている様子が描かれていることを管理人さんは認めた、で決着。

大信釈の総決

>二河白道は廻向発願心を解釈されたものだから
>廻向発願心に自力と他力の二つあれば、白道に二つあるのは当然。

だからこそ親鸞聖人は「信巻」の大信釈において、『散善義』中の回向発願心釈で通常

「かならずすべからく決定の真実心のうちに回向して、得生の想をなすべし」

とよむところを

「かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ。」

とよみかえられて、他力の回向発願心を顕かにされているのではないですか。
さらに、続く二河譬についても

「われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし」

というように、「寧」を「むしろ」ではなく「やすく」とよまれて、他力の白道に帰すよう勧めておられるのですね。

「信巻」大信釈の総決は以下の通りです。

「しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。」

つまり、本願寺派の解釈にあるとおり、

・行も信も、阿弥陀如来が成就され、完成された法として衆生にふり向けられたものである。
・如来回向の行信が往生の因となるのであるから、因がなくて往生するのではなく、また、その行信の他に別の因があるのでもない。

ということです。祖師のみ教えに「自力の回向発願心をたもて」とか「自力の白道を歩め」といった説示は皆無です。

三一問答における二河譬

親鸞聖人は同じく「信巻」三一問答法義釈の欲生釈において、やはり『散善義』を引文され、さらに助釈としてこう仰せです。

「まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。」

やはり「自力の回向発願心」「自力の白道」の意は読み取れませんね。

『高僧和讃』における二河譬

善導大師証をこひ
 定散二心をひるがへし
 貪瞋二河の譬喩をとき
 弘願の信心守護せしむ
               (『高僧和讃』69)

やはり親鸞聖人は、二河譬は「定散二心をひるがへし」てとかれたもの、即ち弘願門(第十八願)の他力念仏往生を示したものであるとご教導なさっておられます。
どう考えてもここから「自力の回向発願心」「自力の白道」の意は読み取れませんし、まして「自力の回向発願心をたもて」「自力の白道を歩め」などとは読めようもありません。
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