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宮崎駿の引退会見 - ジブリは子どもに倫理を教えたか
昨日(9/6)、午後2時から行われた宮崎駿の引退会見、14か国から600人の報道陣が集結した盛況なものだった。雰囲気はとてもよかった。官僚や政治家の記者会見とまるで違い、宮崎駿の人柄がよく出ていて、中身の吟味は別に、見ながら楽しさを感じるやり取りが進行する映像だった。特に、会場に馳せ参じた外国の記者が、それぞれ日本語が堪能で、同時にかなり熱心な宮崎作品のファンで、自国の国民に向けて宮崎駿から特別なメッセージを取るべく、精力的に質問する姿が印象的だった。台湾、ロシア、イタリア、フランス。どの記者たちも、この重大な現場に立ち合って、宮崎駿と自国のファンとの間を仲介する大役に栄誉を感じ、その使命に興奮している様子だった。外国人記者たちの声は弾んでいて、そこには、質疑以前に、「宮崎先生、大好きです」という、自らの宮崎駿への率直な尊敬と愛着の気持ちが溢れていた。また、その態度は、決して、近寄りがたい哲人から言葉を拝聴するという、緊張や萎縮が漂うものではなく、昔からの親友に接するように、フランクリーに、無邪気に、遠慮なく、対等に接するものだった。カメラは質問する外国人記者を撮らなかったが、彼らが目を輝かせていたことは想像に難くない。記者たちは満足したに違いなく、テレビを見ている私も気分がよかった。外国人記者が日本人の会見の席を囲んで、こんなに楽しい空間ができるのは初めてか、久しぶりの光景だ。


前日(9/5)、ブエノスアイレスで行われた不毛な記者会見とは、まさに180度異なる空間である。こんなに世界中から愛されているのか、これほど宮崎駿の引退は世界的な事件なのかと、あらためて思わされ、その存在の偉大さに驚かされた時間だった。まさに「世界の宮崎」、日本の誇りである。村上春樹や小沢征爾と同じ人だ。だが、ここまで2本、「風立ちぬ」と宮崎駿への批判を記事で書いてきた私は、今回の会見を聞いても、宮崎駿の欺瞞という問題への眼差しを撤回する気にはなれない。追及をやめようとは思わない。やはり、欺瞞は散りばめられていると、そう正直に感じた。引退発表を9/1のベネチアで行って、金獅子賞の前日に本人の会見をセットした件について、鈴木敏夫はさりげなく偶然の日程だと説明したが、それを額面どおり受け取る者はいないだろう。疑惑の声が出ないのは、全員が宮崎駿の信者だからで、怪訝な視線を入れる者がいないからである。宮崎駿とジブリについて全てが肯定され、「監督、お疲れさまでした」「長い間ありがとうございました」と、全員が感謝を言う儀式の場だからだ。否定的な見解を言う者は排除される。少なくとも、マスコミの空間には出現しない。一代の英雄である宮崎駿を崇拝し、国民的芸術家として賛美するだけだ。しかし、日本だけでなく世界中のマスコミが宮崎駿を神格化すればするほど、私はそれに首を捻り、「日の丸」掲揚的空気にファシズムの毒素を感じてしまう。

最近、教育という問題をよく考えさせられる。ジブリの宮崎作品は、この20年以上、日本の初等教育のバイブルの地位を占めてきた。否、中等教育も含めて、このファンタジーで親は子を育て、少年少女はそれらの物語を糧として自らの人格を成育させた。与えた影響は絶大だ。アナロジーで言えば、高等教育の岩波書店が初等教育のスタジオ・ジブリだろうか。ジブリは教育機関であり、まさしく文化的権威の存在だった。今の日本の30代、20代の若者たちの精神のカーネルが宮崎作品である。カーネルの上に各ファンクションがインプリメントされる。カーネルは取り替えることができない。簡単に言えば、日本の若い世代は宮崎作品で思想形成し、ジブリ作品で精神の基礎を築いている。自ら否定できないもので、否定すると自己否定になる。自己による人格否定になる。全員が宮崎駿のジブリ学園で教育を受けて育った。保育園で児童はジブリの映画を皆で見る。夕方、母親が連れ戻りに来る時間が遅い子は、他の子が一人また一人と帰宅する中で、ずっと大好きなジブリの映画に熱中して見ている。そうやって時間を潰す。ジブリを見せていると、幼児は退屈せず、淋しがったり騒いだりしない。小学校の低学年の学童保育も同じだろうか。子どもたちを預かる側としては、ジブリ作品は便利で貴重な教育素材だ。こうして、大好きなジブリ作品群を、宮崎駿の名作を中心に、子どもたちは何度も何度も、場面と台詞を丸暗記してしまうほど繰り返し見続けるのだ。

何度もボヤキのように言っているのは、こうしてジブリの教育指導で - 悪く言えば刷り込みで - 精神のカーネルを形成しているはずの日本の青少年が、どうして猛毒の右翼青年に化けてしまうかという問題である。ネオリベ肯定の生き方をするかということだ。身勝手で、視野狭窄で、他者の痛みを思うことができない、弱い者いじめと利己主義しか能がない、自我が脆弱で細く尖って棘がある、自省と自制のできない、そうかと思えばおとなしく空気ばかり読む、あのような青少年の姿で結果しているのかということだ。イマジネーションの力のない、独創的な発想や豊かな構築力のない、貧困で怯懦で矮小な人間であるかということだ。ブロイラーが餌をついばむように、うつむいて(米国から与えられた)スマホを突っつくしか能のない、生産者ではなく消費者でしかない人間なのかということだ。ジブリがカーネルの人間なら、もっと、あの会見場に詰めかけた外国人記者のような健全な精神の人間 - 普通の、まともな、70年代まではそこら中にいた - に成長していなくてはいけないのではないのか。と、そんなことを思い、ときどき記事やTWに書く。神戸の鬼薔薇事件は1997年に起きた。栃木の中学校で女性教師が刺殺されたのは1998年だった。西鉄バスジャック事件は2000年。バブル崩壊の後、少年による冷酷で残忍な殺人事件が各地で起きた。この頃、「先生、人を殺して何で悪いんですか」というフレーズが話題になり、脱構築系がアカデミーとマスコミで無意味な屁理屈遊びを繰り広げていた。

宮崎駿は、そういう凶悪な少年事件を見ながら、同時にジブリ作品が時代の王道となり、初等教育のバイブルとなる勝利者となって、新しい映画を製作していたはずだ。1997年の「もののけ姫」は観客動員1420万人。2001年の「千と千尋の神隠し」は2430万人(史上1位)。ちなみに、1992年の「紅の豚」は305万人で、1989年の「魔女の宅急便」は264万人。桁が一つ違う。ジブリが児童大衆向け文化作品として国民的人気を博し、この国の教育分野で指導的かつ支配的な地位を固めたのは、1990年代後半からである。無論、宮崎駿のアニメが悪影響を及ぼしたなどと、私は言うつもりはない。だが、どうしても気になっている点は指摘したい。それは、教育とは何かというプリミティブな問題だ。教育とは、子どもに真善美を教えることではないのか。何が正義で何が悪かを、明確に教えることではないのか。これをすべき、これをしてはいけないと、倫理を正しく教えることではないのか。われわれが子どもの頃、例えば手塚治虫のマンガ作品は、今の宮崎駿と同じほど人気があり、影響力があって、幼児や少年にとってまさにカーネル形成的な教育素材だったと思うが、何が正義で何が悪かをはっきりと示していたと思われる。勧善懲悪の物語だった。弱きを助け、強きを挫く。最後は正義が勝つ。貧しくとも世のため人のため生きる人間が尊いという考え方。戦争には絶対反対。それが児童マンガの基本思想だったこと、あらためて言うまでもない。翻って、いわゆるジブリ作品は、そうした教育上の倫理思想はどうだろう。

よく言われるのは、宮崎駿とジブリ作品におけるポストモダン(脱構築)である。何が正義で何が悪かは一義的に決められない、正義が悪にもなるし、悪が正義にもなる、決めつけはよくないという考え方。宮崎駿は、現在もこの主張をずっと言い続けている。1990年代、「もう二項対立の時代じゃない」とか「大きな物語は終わった」というフレーズが頻繁に言われた。この観念は支配的な思想として君臨し、一般社会の常識になり、そこから派生した政治言説を全て正当化できる万能の杖となってきた。思い出すのは、当時、「先生、人を殺してどうして悪いんですか」の論議のときに、そこに積極的に参加していた脱構築系の小僧たちが、屁理屈を捏ね回して、この無意味きわまる倫理破壊を、むしろ積極的に意味づけて戯れていたことだ。その浮薄な連中は、例外なくジブリ作品に夢中になっていた。宮崎駿の、「何が正義で何が悪かは分からない」思想を賛美していた。正義と悪がよく分からない物語として、1997年の「もののけ姫」がある。人間と自然との対立を描いた物語ということで、見ながら、最後は人間が自然に復讐されて終わるのだろうと、私はでっきり思っていたが、そういう締めくくりにはせず、自然(森林)を暴力的に破壊するだけ破壊した人間が、奇妙なハッピーエンドになり、「戦いは空しい」などと言って終わるドラマだった。子どもに見せる物語としては、私の観点からは、どうにも煮ても焼いても食えないお話だったが、世間の評価は、そこがいいのだという太鼓判だった。善と悪を決めず曖昧にする(脱構築的)方法が絶賛された。

「もののけ姫」の「人間と自然との対立」の、曖昧模糊とした、責任倫理の不明確な思想的処理を踏まえて、今、個人的に深刻に考える問題がある。それは、今夏の摂氏40度の灼熱地獄であり、嘗てなかった竜巻の発生と急襲であり、各地に1時間100ミリ超を降らせて洪水被害をもたらす異常気象である。この災害は、まさしく人間が自然から復讐を受けている現象だ。神殺しを行った報いで苦しまされている現実だ。それを前にして、「もののけ姫」を見て育った子どもたちは、どういう認識と判断をするのだろう。森林を伐採し、汚し、科学技術で自然を征服することも、人間が生きていくために必要なことであり、仕方がないことだから、自然の神々には(申し訳ないが)死んでもらって、アシタカのように前を向いて生きて行こうと、そういう結論になるのだろうか。「もののけ姫」からは、自然と共生しないと人間は生きて行けないのだという倫理思想は、メッセージとして提示されなかった。自然を殺した人間は滅ぼされなかった。それでいのだろうか。教育としてそれでいいのだろうかと、私はずっと疑問に思ってきた。「風立ちぬ」のキャッチコピーは、「生きねば。」である。「もののけ姫」は「生きろ。」だった。ポスターにそう書いていたのを思い出した。同じメッセージではないか。この、「風立ちぬ」の「生きねば。」について、作品公開前は、宮崎駿はメッセージとして饒舌に解説していた。時代との関連を語っていた。だが、引退会見のときは、はぐらかすように、これは鈴木敏夫が持ってきたものだと言い、正面からの説明を逃げている。問題は、この「生きろ」「生きねば」の意味である。

それについて、TWで短く書いた。別の記事で倫理論、教育論として中身を論じたい。先に正直に本音を言えば、ジブリの教育思想の根底には、脱倫理があるのではないかという疑念だ。


by thessalonike5 | 2013-09-07 23:30 | Trackback | Comments(0)
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