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欺瞞は誠実である - 宮崎駿の二重思考(ダブルシンク)
前回の記事で、映画「風立ちぬ」が、特にヨーロッパの観客を意識して製作された作品で、もっと率直に言えば、ベネチア映画祭での賞取りを狙ったものだということを指摘した。それに関連して、このアニメの声優の問題がある。堀越二郎の声の役に庵野秀明を当てた件だ。非常に評判が悪い。あまりに素人丸出しで下手糞なので、耳障りで、物語の世界に入り込めないという苦情を言う感想が多い。これは同感だ。映画を見ながら、「この台詞はNGで録り直しだな」と思った場面が何か所もあった。9/1に引退の一報があった後、テレビに加藤登紀子が出てきて、「紅の豚」で同じ台詞を20回も録り直しさせられたという逸話の披露があった。「ハウルの動く城」では、噴水の音のリアリティに拘ったために、わざわざレマン湖まで収録に行ったという自慢話もあった。同じ宮崎駿が監督したとは思えないほど、庵野秀明の声優演技はお粗末で、ドラマの感動を盛り上げる重要な場面をぶち壊しにしている。巨匠監督による意表をついた素人の大胆な起用が、斬新な演出効果となって成功する例もないわけではない。黒澤明の「影武者」がそうだろう。巨匠になると、常識破りの手品で世間を驚かせたくなるものだ。だが、今回の庵野秀明の抜擢は明らかに失敗で、「巨匠最後の作品」に泥を塗る結果となった点は否めない。悪ふざけにしか思えない、尋常でない放逸な声優のキャスティング。ここには作為がある。


作為の一つは、「日本人の観客が聞く台詞なんてどうでもいいんだよ」という監督の本音だ。このアニメは、ベネチア映画祭で金獅子賞を取るために製作された作品で、欧州の批評家や関係者から高評価を得て、世界の市場でヒットさせることを狙った映画だ。すなわち、日本での評判(声優への不評)など二の次なのである。各国で上映されるときは、各国の言語で翻訳が出る。観客は文字を読む。日本語での音声は関係ない。だから、庵野秀明の素人の棒読みを耳障りに感じるのは、日本の映画館に入る観客だけなのだ。この不具合は、ベネチア映画祭での採点には影響せず、各国での興行には何の障害要素にもならない。外国では、子飼いの若いアニメ作家を主人公の声優に抜擢したという、「巨匠の離れ業」だけがサプライズとして伝わり、興味を惹くエピソードとして宣伝情報になるだけだ。宮崎駿は、そちらの戦略と効果を重視したのであり、世界の市場に庵野秀明の名前を売り込んだのだ。その方がプライオリティの高い判断事項だったからだ。ベネチア映画祭というターゲットが設定され、その目標一点に集中して、マーケティング・ミックスをベストに組んだ映画製作を完成させたとはいえ、(世界一高い映画料金の)日本の観客はずいぶんコケにされている。日本人が夏休みに映画館に殺到するのはデフォルトで、日テレやNHKや全マスコミが騒いでやってくれることで、宮崎駿からすれば全く眼中にないのだ。

今、宮崎作品をヒットさせることは、マスコミ自身の仕事であり、マスコミのビジネスの一部である。読売・日テレだけでなく、NHKもコミットしているし、日経も積極的に関わっている。国中が宮崎作品を盛り上げ、お祭り騒ぎをして、国民的プロモーションに熱中している。一人の観客として映画を見るという以上に、「世界の宮崎作品」を成功させる国を挙げた共同事業に参加し、それを推進するサポーターの一員になっている。五輪招致のイベントプロモーションと同じ論理と構図だ。今、宮崎駿は「クールジャパン」の象徴なのであり、韓国などに対抗して世界でシェアを取るコンテンツ商売の筆頭格であり、要するに、グローバル競争の環境下で宮崎駿は「日の丸」なのだ。見逃せないのは、この映画に関連させて、NHKが放送したゼロ戦の特集番組である。その中身は、堀越二郎が著作で論じた趣旨に沿ったもので、その機能を褒めちぎり、世界を短期で追い越した技術を自画自賛していた。ゼロ戦は、日中戦争で重慶を空襲する爆撃機を支援するために開発された戦闘機だ。それはまさに負の歴史である。呪われた出生の秘密と言える。太平洋戦争の空中戦で米軍機を撃墜していたゼロ戦は、何か颯爽として英雄的なイメージに見えなくもないが、重慶への無差別爆撃を支援していたとなると、そのイメージは途端に邪悪なものになる。ところが、番組の原稿には、そうした暗さや後ろめたさが微塵もなく、逆に堂々と肯定するかのような説明で終始した。

NHKが日中戦争の意味づけを変えているのだ。そこに、現在の「敵国」である中国を被せ、現在の「日本の脅威である強大な軍事国家」のイメージを重ね、番組として日本軍の中国攻撃を正当化している。悪魔的所業である重慶爆撃について批判的な眼差しは一切なかった。当然のこととして説明の一部にしていた。この見せ方や描き方は、従来の日本の公共放送の姿勢とは相当に違う。私はテレビの前で蒼白になったが、NHKは素知らぬフリだし、この番組が誰かから批判されて問題になったという話は聞かない。従来はクロだったものがシロになった戦争特集のNHK番組だった。宮崎駿によるゼロ戦と堀越二郎の美化は、このNHKの戦争観のチェンジと重なり、それを後押しするものだ。そして、宮崎駿とNHK(=政府)は、そのことを意識的に協業的にやっている。意味を了解した上で、クロをシロにする思想工作をやっている。先に大越健介とのグロテスクな媚態を見た私は、次にNHKのゼロ戦の番組を見て、裏にある猛毒の政治を直観した。国民を戦争へ導くプロパガンダ、それに宮崎駿が積極的に協力役を買い、映画の宣伝とWinWinのビジネス・コラボに興じている。その後、大越健介のNW9では、イタリアのカプローニの孫と宮崎駿との交流のエピソードを詳しく紹介し、局を挙げた「風立ちぬ」の営業促進に尽力、ベネチアの賞取りを実現させるべく気運盛り上げを支援している。おそらく、政府(文科省・外務省)が一枚噛んでいる。裏でイタリア政府に手を回しているに違いない。

宮崎駿は、ジブリの小冊子「熱風」の7月号で、憲法について大きく特集を組み、改憲反対の旗幟を鮮明にした。憲法9条を変えてはいけないと世論に訴えた。この行動は、戦争の道具であるゼロ戦開発を美化する映画を製作し、そこに何の反戦のメッセージも入れなかった宮崎駿に批判が来ることを見越し、バランスをとる目的で、左側のスタンスでの政治的発言に出たのではないかと言われている。案の定、この冊子発行の後、右翼から宮崎駿に口汚い罵倒が集中した。そうした7月からの状況もあり、空気感としては「バランスがとれた」景色になり、日本国内では、「宮崎駿までが右傾化した」という最悪の評価には至っていない。日本では、文化的なもののオーソリティーは、やはり左派リベラルが基準となってリードする。それはファシズムの時代だった戦前からそうで、戦後もずっと同じで、永久に続くに違いない。知性的なものの領域では、左派リベラルが支配的で主導的な力を持つ。文化や知識の世界での岩波やみすずの権威と定評を、右翼勢がひっくり返すことはできない。それは外国でも同じことだ。インテリは常に左派リベラルの表象となる。宮崎駿、村上春樹、大江健三郎、小沢征爾、武満徹。みんな同じ系統にある。例外なのは、建築とファッション・デザインの小世界だけだろうか。そもそも、今年のベネチア映画祭の審査委員長は、あの「1900年」の監督のベルトリッチだ。反ファシズムを描いた壮大な叙事詩だった、そこから考えると、「風立ちぬ」に戦争美化の悪評が立つことは、宮崎駿にとって相当に都合が悪いことだろう。

王道標準である左派リベラルのインテリジェンスという宮崎駿の俗評が、ジブリ作品の教育素材としての安定感に繋がり、文化的価値の高さを確立させ、親たちが子供に作品を薦める安心感になっていた。だから、その思想的な信頼性が動揺することは、宮崎駿とジブリにとってブランド・イメージの毀損に直結する問題なのだ。政府の援助を得てベネチア映画祭の賞を射止めたいが、右寄りに転向しただの、戦争美化に変節しただの、そうした批判は受けたくないし、左からの悪評は一蹴したい。映画封切りの直前、小冊子で改憲反対の論陣を張る挙に出たのは、そういう事情があったからではないのか。それにしても、安倍晋三の腹心報道官である大越健介と睦まじく談笑し、その翌日には赤旗紙上で平和憲法の遵守を訴えるという、八面六臂のアクロバチックな游泳術には、どうしようもない思想的自己矛盾とその正当化の態度が孕まれている。終戦の日の三宅民夫の特集番組を見て、オーウェルが「1984年」で示した「戦争は平和である」のイングソックを思い出した。そこから、今回の宮崎駿の行動を見て、「欺瞞は誠実である」という二重思考の命題が思い浮かんだ。宮崎駿は誠実な芸術家であり、子供たちが生きる力を育むように一生懸命に作品を創作している。それは、なるべく普遍的な評価を得て、世界中の市場に普及させなくてはいけないし、一人でも多くの子供に見てもらわないといけない。そのためには、権力や資本とも積極的に寝なければならないのだ。

辺見庸が8/31の講演で言っていた、日本人の本来的なファシズム性の洞察とも繋がるが、日本人の自己欺瞞というのは、原理や生き方の矛盾や破綻を隠し、シームレスに縫合し整形する術に実に長けている。オーウェルの二重思考を上手に実践する。こんなに二重思考の毒弊を高度にマスターできるのは、世界中で日本人だけだ。内側で緊張と対立がない。自分を上手に騙し、相手を上手に騙す。自分を完璧に騙すことができるから、相手を巧妙に騙すことができる。「欺瞞は誠実である」。金儲けは理想と信念の追求なのだ。宮崎駿と鈴木敏夫にとって、その二つは同じ行為であり、心中で混然一体で矛盾や亀裂はない。いつも誠実にアニメを製作し、その結果、世界中から賞賛されているのだ。


by thessalonike5 | 2013-09-05 23:30 | Trackback | Comments(4)
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Commented at 2013-09-05 18:17 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by ごん at 2013-09-05 21:53 x
そもそも論として、宮崎は「ゼロ戦設計者の話」をなぜ、「風立ちぬ」という作品名にしたのだろうか。
主人公の恋人が「結核を患う」という設定のみが「風立ちぬ」であり、
「ゼロ戦設計者」の話とは何ら共通性もなく、むしろ恋人は付け足しでしかない。
仮に、この作品名が「風立ちぬ」でなかった場合、「戦争賛美、兵器賛美批判」が
国内に於いては容易に起こりえたのではないだろうか。
日本人が持っている「風立ちぬ」という作品のイメージによって、兵器賛美批判を「包み隠す」、
それだけの「ため」に、「風立ちぬ」という作品を使用したのではないだろうか。
Commented by 長坂 at 2013-09-05 23:52 x
宮崎アニメは”トトロ”と”千と千尋”しか見た事がなく、”トトロ”ではメイちゃんだかさつきちゃんのスカートが短いのが気になってしまう私(アメリカに長く居すぎですね)に宮崎駿を語る資格は全くありません。ただこの夏、テレビをつければ、ひっきりなしに流れるユーミンの”ひこうき雲”のあのコマーシャルは本当にウンザリで、あんなに宣伝しなきゃいけない映画は逆に拒絶反応でした。(スミマセン)
NHKのゼロ戦の番組で、9月13日(重慶爆撃の日)は記念日と笑いながら元パイロットは言ってましたね。盛んに”敵”という言葉を使ってあたかも侵略戦争じゃないかのようなナレーションで、不愉快で見るの辞めました。戦争といえば太平洋戦争ばかりで、もっと日中戦争のこと若い人達に知らせないと...(映画”登戸研究所”も当然ですが、ほぼ中高年だけでした。)

Commented by 旅マン at 2013-09-06 00:05 x
職業声優への強い嫌悪感を隠さない監督だが、誰のおかげで財をなせたのか?声はアニメの肝!絵を見た側の心を理屈抜きに引き付けられないとアニメ作品としては単なる駄作!他のテクが優れれば優れるほど、醜悪な作品と化してしまうのだ。その点でも、あなたの外国向けというご指摘、核心を突いている。また、元来日本は異様なまでの権威社会。たけし如きでも受賞した途端マスコミが平伏す(笑)。菊池寛の槍中村の話とジブリ映画はさして変わらない。彼は優れた声優さんがぶれない軸を作っていたトトロまでの人。日高のり子さんなどの生き生きとした声があっての感動!
「仏作って魂入れず」
アニメで映画をやりたいだけの人だと思います。
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