2人の子どもを連れて、福島から避難してきた森松明希子さん(39)です。
お兄ちゃんの明暁くんは5歳、妹の明愛ちゃんは2歳です。
<明愛ちゃん>
「じゃがいも」
<森松明希子さん>
「じゃがいも食べるとこ見たいな」
<明愛ちゃん>
「じゃあ食べさせて〜」
おととし5月、大阪に避難してから母親ひとりで、慌ただしく子育てに追われてきました。
<森松明希子さん>
「もう、これ(明日の支度)をやる時間がないので、寝ちゃったりすると明日の朝も毎朝、戦場みたいになっているので」
森松さんの夫、暁史さん(43)は、福島県郡山市の自宅でひとりで暮らしています。
毎日、帰宅途中に買うコンビニ弁当が夕食です。
総合病院の内科医でもある暁史さんが、妻と子どもの避難を決めました。
しかし、静かな我が家は、今もなじめません。
<森松暁史さん>
「精神的に、この時間がいちばん辛いです。この時間が本当に・・・」
明愛ちゃんが、まだ生後5か月だった、2011年の3月。
あの福島第一原発事故が起きました。
森松さんの自宅は、原発からおよそ60キロ離れています。
それでも事故直後は、近くの市役所で、8.26マイクロシーベルトまで放射線量が上昇し、6,000人を超える市民が県外へ避難したといいます。
<森松暁史さん>
「そこの線量をはかったときに、びっくりこいて。2(マイクロシーベルト)ぐらいあったんです、ふつうに。数か月の子をここにおいておくのは、よくないだろうと」
事故後、子どもが避難するまでに後悔していることがあるという暁史さん。
<森松暁史さん>
「下の子どもに水道水でミルクを作って、ミルクをやってしまったことですねー、あれは失敗だったですね」
あれから2年余りがたったこの夏、郡山市では、屋外プールも賑わいを取り戻し、震災前と変わらないように見えます。
<プールの男性利用客>
「まったく気にしていないですね。こっちに来ると、以前と、3年前と全然変わってないと思いますけどね」
<プールの女性利用者>
「気にはしていますけど、気にしていたら経済的によくないですよね」
地元の公園で遊ぶ子どもたちの姿も、見られるようになってきました。
この公園の線量は、1時間あたり0.2マイクロシーベルト。
一般市民は、年間積算、1ミリまでというのが目安です。
しかし、郡山の未就学児の線量は、おととしの時点で年間平均1.34ミリシーベルトでした。
<子ども>
「『ちゃんと休みの日も(線量計を)首にかけておきなさい』と(保育園で)言われた」
<母親>
「気にしていたらたぶん、ここに住んでいないと思う」
「もう何事もないことを、お祈りするしかないなみたいな」
高いところでは、今も0.6以上を示す線量計。
大阪市に比べると、実に10倍以上です。
この日、大阪に避難した妻と子どもが、一時帰宅します。
心待ちにする、夫の暁史さん。
<森松暁史さん>
「お帰り」
久しぶりの再会。
3日間の滞在で、今の2重生活に区切りをつけ、郡山で再び家族全員で暮らすことができるか、森松さん夫婦は決断しようと考えていました。
半年ぶりに、福島県郡山市の自宅に戻った森松さん。
部屋に入ると、放射線量がどれぐらいかが気になり始めました。
<森松明希子さん>
「低い、低いよ・・・ 0.14」
半年前より、線量が下がっていることに、少しだけ安心します。
森松さんは、一時帰宅すると子どもの医療費の申請など、様々な手続きを1度に済ませます。
今回は来年春、明暁くんが大阪の小学校に入学できるかも尋ねました。
<担当者>
「今のところ、災害避難の方は(入学も)大丈夫です」
<担当者>
「4月の段階だと300人ぐらいは、郡山市に戻ってきている」
<森松明希子さん>
「何人出たうちの300?」
<担当者>
「3割ぐらいは、戻ってきてる」
<森松明希子さん>
「じゃあ、7割はまだ・・・」
大阪市に転入手続きをとれば、被ばくの影響を調べる健康調査の対象から、我が子がはずされます。
郡山市に、現住所があることが条件なのです。
<家族一同>
「いただきます!」
久しぶりに、4人そろった賑やかな食卓です。
原発事故さえなければ家族バラバラにならず、この生活が当たり前でした。
<肩車された明暁くん>
「バンザイ!バンザイ!」
<明愛ちゃん>
「肩車してよー」
お父さんに甘えて離れない子どもたち。
楽しい夜が過ぎていきました。
翌日、避難先の関西で知り合い、1年前に子ども連れて郡山に戻ったという、友達が訪ねてきました。
<郡山在住で関西出身の友達>
「旦那も1人やし、メンタル的に男の人の方が弱いやんか、だからそれもかわいそう。腰も痛いのが悪化してきたと泣き言をいうから」
友達は郡山市で暮らす限り、将来への不安はぬぐえないと話しました。
<郡山在住で関西出身の友達>
「チェルノブイリで(小児性)甲状腺がんがわっとなったから、わっと言ってたけど、それこそ交通事故の確率ぐらいらしい」
震災後にオープンした屋内の遊技施設で、森松さんはもう1人の友達とも再会しました。
子どもとともに、地元を離れなかった小学校教諭です。
<地元に残った小学校教諭の友達>
「めっちゃお姉ちゃんになったね。1年ぶりだもんね」
原発事故後の避難をめぐって、それぞれに決断をした母親たち。
仕事への責任感から地元に残った友達も、こう言いました。
<地元に残った小学校教諭の友達>
「私は避難できる環境にある人は、避難したほうが絶対いいと思いました」
森松さんは、このまま大阪での避難生活を続けようと気持ちを固めたのです。
<森松暁史さん>
「変わりなく過ごして欲しいと思いますよ。郡山に住んでいる人にとっては、そうでなくちゃ」
<森松明希子さん>
「大阪と比べて、数値的に10倍以上の線量の高さを目の当たりにして、それを住めないという選択をする人もいると思うんです」
<森松暁史さん>
「沈黙の福島と揶揄されてます。我慢して我慢してというのがスタイルなので、だけど心の中では、すごい怒っている」
国は去年6月、「子ども・被災者支援法」を作り、被ばくを避けるどんな選択をしても支援すると定めながら、現時点で何の具体策もありません。
区域内であれば、補償金は、1人、月10万円。
一方、区域外の被災者には、何の補償もありません。
森松さんは、国と東電を相手に集団訴訟を起こすことを決め、原告団長をひき受けました。
<森松明希子さん>
「福島=もう救われている、というような間違った誤解されていることもたくさんあって、そういう精神的負担のほうが、いま重くのしかかっていると思います。福島県に住んでいて、不安を抱えて子育てをしていないお母さんは1人もいません。低線量の被ばくから子どもを守りながら折り合いをつけて住んでいるだけなんです」
他にも、原告になろうとする母親が増えています。
<原告となる母子避難した被災者>
「自力で貯金を切り崩して、生活をして、(子供の)健康に関しても不安を持ちながらということで、(事故当時から)何一つ変わっていない」
いま、森松さんは避難生活を支えようと、平日は仕事をしながら今月の集団提訴に向けて準備に追われています。
夕食を済ませた後、子どもたちが毎晩、楽しみにしているのは、お父さんからの電話です。
<森松明希子さん>
「あ、お父さんから電話で〜す」
<明暁くん>
「お父さん!」
<森松暁史さん・電話)
「もしもし、風邪はなおった?」
<明暁くん>
「うん、なおったよ」
<明愛ちゃん>
「きょうも、自分で(ご飯)たべられた」
<森松明希子さん>
「今日さあ、(明愛が保育所の)プールで顔をつけれたらしいよ」
<森松明希子さん>
「私の子どもだけじゃなくて、子どもって、この国の未来とか将来なので、そこに目を全然向けないというのが、残っている子どもも避難している子どもも、本当に守られるべきだと思うので」
故郷を奪い、家族を切り離した原発事故。
防ぐことはできなかったのか。
事故後の支援は、不十分ではないのか。
司法の場で、強く訴えていきます。
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