【プレイバック芸能スキャンダル史】
玉の輿婚の吉沢京子6年で子連れ離婚
【芸能】
柔道一直線(69年、TBS)でブレークし、清純派女優として活躍した吉沢京子。83年9月、29歳で結婚したが、お相手は1歳上のコマ・スタジアム社長の次男で、マスコミは“玉の輿婚”と書きたてた。
なれそめは82年4月、吉沢が大阪・梅田コマ劇場の「森進一特別公演」に出演した時、社長を通じて知り合ったのがきっかけ。程なく結婚を前提とした家族ぐるみの交際に発展し、吉沢は夏には結婚を意識するようになった。
その後、はっきりしたプロポーズはないまま交際が続いたが、同年11月にスポーツ紙に熱愛がスクープされたことで、急きょ婚約会見が開かれた。吉沢は「初めて結婚を考えた人です。安心してついていける人だって思いました」と結婚宣言。当時、モジャモジャの長髪にヒゲをたくわえていた男性は「彼女はボクのことをマンガ的だと言うんですが、彼女もどちらかといえば、マンガ的なんですよ。明るい2人がそろって明るい家庭をつくっていきます」と語った。
挙式は翌83年の9月28日。約200人が出席して大阪のホテルで行われて、吉沢は「マンガのような面白い家庭をつくりたい」とのろけた。新居は芦屋のマンション。吉沢は引退せず、地元関西のワイドショーの司会やCMなどを中心に、仕事を続けた。85年には長男も誕生。当初、芦屋の物価の高さや主婦たちが着飾って買い物をする社交場のようなスーパーの雰囲気になじめなかったと語る一方、すっかり“芦屋夫人”ぶりが板につき、優雅な日々を過ごしているとの報道も流れた。
しかし、結婚生活は長く続かなかった。89年11月にひっそりと離婚。吉沢は4歳の子どもを連れて東京に引っ越した。離婚は翌年に発覚し、吉沢は「89年初め頃から、どちらともなく離婚を言い出し、話し合ってきました。離婚を決めた大きな原因は申し上げられません」とコメント。「嫁姑の確執では?」との問いには、「義母は一番の理解者」とキッパリ否定した。離婚を考えた時も姑に相談し、「京子ちゃんがそう思うのならそうしなさい」と返事をもらったという。
離婚を切り出してからカタがつくまでわずか2カ月。慰謝料はもらわず長男の養育費だけが一括して支払われた。
吉沢は「互いに育ってきた環境が違うせいか、すべてのことに対して価値観が違った。プラスチックと木の違いというか」とも語った。吉沢と親しくしていたテレビ局プロデューサーは「関西の上流階級の伝統を強く残している芦屋に入って、息苦しくなったのではないか」と理由を推測した。
もっとも、関西にレギュラー番組を持っていた吉沢。94年まで一時的に生活の拠点を再び芦屋に戻し、関西の銘菓「芦屋婦人」のイメージキャラクターを務めるなど、“芦屋”との関係はしばらく続いた。
その後、男性は再婚したが、吉沢は独身のまま。最近は女優業に加え、和服のプロデュースなど幅広く活躍を続けている。
◇1989年11月 4日、オウム真理教による坂本堤弁護士一家殺害事件。6日、松田優作死去。40歳。10日、ベルリンの壁崩壊。24日、チェコスロバキアで共産党政権が崩壊。26日、大関小錦が初優勝。外国人力士優勝は17年ぶり。