「「思考停止」とは何かを考えてみる」につづき、考えるシリーズ。
なぜ人を殺してはいけないのか
子どもの頃、誰もが抱いた疑問に「なぜ人を殺してはいけないのか」というものがあるかと思います。しかし、結論を出すことができた方は、大変少ないのではないでしょうか。多くの方は、この疑問を忘れ、そのまま大人になってしまっているのではないでしょうか。
ぼくは「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、その理由は「ぼくらはすでに、人を殺してはいけないことを『知っている』から」と答えます。同語反復のようですが、そうとしか表現できません。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが出てくるのは、そもそも「人殺しはいけないことだ」とぼくらが知っているからです。
「なんで人殺しは悪いことなの?」と問う子どもは、すでに「悪いこと」だと十分に知っているのです。この子どもは、「人殺しが悪いことだとは知らなかったから」、「なぜ人を殺してはいけないのか」を聞いているのではありません。「人殺しは悪いことだとは知っているけれど」、なぜそうなのかがわからないから、彼らは問うのです。
この問いに対しては、様々な答えが与えられます。
ありがちなのは「あなたも殺されたら嫌でしょ?だから、他人を殺してはいけないんだよ」。でも、「じゃあ、殺されるのが嫌じゃない人、たとえば自殺しようとしている人は、誰かを殺していいの?」という問いが返ってきます。自分がやられたら嫌だからダメ、は答えとしては十分ではありません。
または「殺された人の家族や友人が悲しむでしょう。だからダメなんだよ」。これもまた「じゃあ、天涯孤独で、友人も家族もまったくいない人を殺すのは悪くないの?」という反問にあいます。ゆえに、これもまた十分ではありません。
なんというか、この方向で理由を与えようとすると、どうしても損得勘定の話に落ち着いてしまうのではないでしょうか。
注目すべきは、もっと根源的に、ぼくらが「人を殺してはいけない」ということを「悪いこと」だと「知っている」ことです。
人殺しが悪いことであるというのは、人間であれば誰もが知っていることです。ちょっと語弊がありますが、「本能」といってもよい、基礎的な性質です。
たとえば、「人殺し」を、「人助け」のような純粋な善意で遂行する人はいません。「あなたのためを思って」人殺しをする場合(たとえば心中)にも、その行為をする人は「殺すのは悪いことだけれど、仕方なく、必要性に駆られてあなたを殺すのだ」という論理を持っています。
うちに10ヶ月の娘がいますが、たぶん彼女も、人殺しが悪いことだと「知って」います。まぁ10ヶ月は大げさにしても、分別の付く頃には、やはりそれを知ることになるでしょう。親がわざわざ「人殺しは悪いことだよ」と教えなくても、彼女はそれを知ることになるのです。
というわけで「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対してぼくが持っている答えは、「その理由はわからないが、ぼくらは人間として生きる以上、それをすでに『悪いこと』だと『知っている』から」というものになります。
悪いことだと知っていることを、自ら望んでしたがる人はいないでしょう。一瞬の気の迷いで、人殺しに手を出してしまうことはあれど、それは当人ですら「過ち」と気づけるものです。この場合においても、彼/彼女は「人殺しが悪いこと」であることは、十分よくわかっているのです。
悪いことだとすでに知っているのなら、あえてその理由を問う必要もないんじゃないかと開き直ってます。少なくとも、ぼくには満足のいく答えが出せません。「人殺しは悪いことである」という倫理的な直観は、損得勘定を超えたもっと普遍的なものだと思うんですよね。
「なぜ人を殺してはいけないのか」。ぜひみなさんが考える「人殺しをしてはいけない理由」について教えてください。
みなさまのご意見(順次更新)
ツイッターで頂いた意見を転載していきます。みなさんありがとうございます!マジで面白い…。いやー、ブログやっててよかった。
まずはぼくの記事に対するツッコミ。ここ、どうなんでしょう。ぼくは「人殺しは基本的にNG」というのは文化を超える倫理的直観だと考えています。例外もあるんでしょうかね…。
首狩りや食人といった文化が過去に存在するので,殺人に対する直感は普遍的なものではなく文化的なものではないでしょうか。思考停止から先へ進めても私には普遍的な答えは出せず,あるのは功利的なつまらない理由だけです。 @IHayato
— 西田将也 Masaya NISHIDA (@nx802) September 5, 2013
個人を超えた、本能や社会に関わる観点。
@IHayato 「人を殺してはいけない」のは「社会がそのように要請するから」だと思います。逆に言えば、社会というファクターを切り捨てられる個人にとって、「人を殺してはいけない」理由は存在しないのではないでしょうか。
— すーやー (@yasuissan) September 5, 2013
@IHayato 「あなたも殺されたら嫌でしょ?」でよい。「死にたくない。生きたい。」という本能が普遍的に備わっているという意味において。
— 松上幸吉 (@Kokichi_Matsu) September 5, 2013
@IHayato エントリーを機に考えてみました。確かに本能といえばそれまでですね。じゃあなぜその本能を有するかということから考えましたが、能力上、人を殺すことで人間の生産性を損ねるから。だから戦争や一人っ子政策が正当化される時もあるのではと。拙い意見ですが、いかがでしょうか。
— 中川元太 (@NGenta) September 5, 2013
@IHayato 生物であるため、人間という同じ生物の生存を優先させる機能があるのではないかと。蚊や蟻は平気で殺せるのに人間は殺さない。殺す場合でも、自分の生存が危うくなった時が多いような気がします。
— kiarohibear (@kiarohibear) September 5, 2013
「なぜ人を殺してはいけないのか」を考えてみる http://t.co/1SNgcr4ahf @IHayatoさんから死刑制度は人殺しの罪を人殺しによって裁く。正義として社会のために。人殺しは悪、人助けは正義。人間、1人では生きて行きにくいから人を殺してはいけないのだろうか。
— Kajigaya Shinya (@REPWORLDS) September 5, 2013
@IHayato 人を殺してはいけない理由は「殺すと社会からハブられるから」。ハブられる理由は「簡単に人を殺す人が近くにいると怖いから」。だから、社会が殺してもいいと判断した場合(死刑や戦争)は、殺しても制裁が無い(ハブられない)のだと思います。
— 軒田皓平@急につぶやくよー (@nokidakouhei) September 5, 2013
@IHayato 人のものは奪ってはいけないからだと思います。他人の財布盗っちゃいけないのと同じで、人の命を奪ってはいけない。ただ社会の安定など色んな考え方ができると思いますがその輪から外れる人がいる限り完璧な理論は存在しないのかもとも。
— 小川拓也 (@taku009) September 5, 2013
@IHayato 人を殺すと、その分遺伝子の多様性が少なくなってしまう=子孫の多様性が少なくなり、万が一気候変動などで対応できる人がいなくなってしまったら、人類は絶滅してしまう。人間はあくまで動物ですから、子孫を残すことが第一なのです。それを、本能的に知っているのでは…?
— まだらー( *`ω´) (@milkstorm) September 5, 2013
「なぜ人を殺してはいけないのか」を考えてみる http://t.co/btLePhOSC1 @IHayatoさんから 動物的に考えれば、自分の身の安全を常に脅かすようなのがいると社会が成り立たんから、だろうなあ 決めてるのは個人じゃなくて社会だと思うよ
— ブログ始めた周なんとか (@shu_rotaku) September 5, 2013
@IHayato 【殺した相手の向こう側にいる人までも、傷つける事になるから】だと思います。どんな人であれ、その人を大切に思っている家族、友人、知人、彼氏、彼女がいると思います。そんな人達を身体的にでなく、精神的に傷つける事になるので、人を殺めてはいけないと、僕は思います。
— 中澤 はやた (@muchinochi1985) September 5, 2013
@IHayato 人を殺してはいけない。という本能は人間だけでなくすべての動物に備わっているもので、生きとしいけるものは皆協力し「無駄な殺しをしてはいけない」という宇宙のルールなのだと思います。ライオンも食物以外は無駄な殺しをしません。http://t.co/goQFpTVoR7
— JEPAS (進化論を最先端に追求) (@jepasglover) September 5, 2013
復讐の連鎖、という観点。
@IHayato 人を殺すと殺された人の家族や友人が殺した人を殺す。そうすると、殺された人の家族や友人はその殺した人を殺す。という感じで終わりがなく、最終的には戦争になるからですね。
— Mission210 (@Mission210) September 5, 2013
ホッブズの議論を援用したご意見。ぼくはあんまり詳しくないですが、自然状態における倫理ってどのように解釈されているんでしょうね。考え方によっては、自然状態のままでも個々の倫理観によって、闘争状態に陥らないとも考えられるような気がします。はい、勉強します…。
@IHayato 人には生まれながらに自然権を持っている。ホッブズが『リヴァイアサン』で人間は自然状態のままでは「万人の万人に対する闘争状態」に陥ってしまう。人々は自己保存のために契約を結んで国家(法律)をつくる。殺人は人の自然権を侵害するから犯してはいけないのでは?
— 甲賀高大 (@abeter) September 5, 2013
こちらは日本では異色なご意見。宗教性と絡めて考えるというのは非常に面白い切り口です。宗教に根拠を求めない場合は、やはり「本能」みたいなものを持ち出すことになるんでしょうかね…。
@IHayato 自殺を肯定できない理由に繋がりますが、神のご意思(それぞれの人を用いようとすること)に反するからです というのがキリスト教徒の考え方。神様への信仰をお持ちでない人の考え方を拝見しますm(__)m
— 深銀色 (@thewhitenotes) September 5, 2013
こちらもやや異色の観点。逆説的な表現に聞こえるかもしれませんが、この方の立場は「ぼくらには法律を犯す自由がある」と考えるぼくと近い気がします。
@IHayato 「人を殺してはいけない理由はない」と思います。その人がどのような不利益をも被る覚悟で行動する限りにおいて、それを根本的に抑制できるような言説は存在しないと思います。
— くろすけ (@kurokuro_mk2) September 5, 2013
@IHayato ただ社会的に考えれば好き勝手に人が殺されてしまうと群生動物としての人に不利益になるので、何らかの言説を用いて抑制しようとするのは理解できることであると思います。
— くろすけ (@kurokuro_mk2) September 5, 2013
@IHayato 言説のパースペクティブを「個」で捉えるか、「集団」で捉えるかによって回答が変わってくる問いだと思いますね。
— くろすけ (@kurokuro_mk2) September 5, 2013
良い意味で、アニミズム的な宗教性があるご意見。
@IHayato 人と人が関わって今の自分があるということは、人によって自分は生を受けて、その後も生かされているんだと思う。 その連鎖をとめてはいけない。。というか、結局は自分が生きてても、自分の持ちものを殺す(失う)ことになるんだと思う。 →「なぜ人を殺してはいけないのか」
— AliceTakeuchi (@alice00180) September 5, 2013
倫理の限界についての指摘。これも面白いテーマです。法律が必要な理由はここにあるのかも?
@beartaka @IHayato 「この質問者は「悪いということ」を知っている」という考えに同意です。だから、ただ唖然として、「悪いに決まってるだろ」と、論理的でないことを承知の上で、倫理全快で答える。問題は、このような問いすらなく、人を殺してしまう場合ではないかと思います
— takakuma (@beartaka) September 5, 2013
この観点も面白い。主従関係というのも何か本質に関わっている気がします。
@IHayato 権力なんかよりも強い主従関係が生まれるから、とかいう考えはどうでしょう。殺すことができるということは生かすことができるということと等しいと思います。
— しおりん@異星人 (@alien_shiorin) September 5, 2013
「責任」というキーワードも興味深いです。
@IHayato 殺害後の責任が取れないからじゃないですかね。殺された相手の人間や自分の周りに多大な影響を及ぼします。仮に殺した自分が死んでも、親族への影響力は何世代かは残ってしまうと考えます。 そうなると個人の責任領域を充分に越えてるんじゃないかと。
— はらぞう@Usher (@hara_zou) September 5, 2013
問いを拡張すると、また違う議論が展開できそうですね。これ考えてみようと思います。
@IHayato 「なぜ人を殺しては〜」だとリアリティが無いが「なぜ(私の息子を殺したあの)人を殺してはいけないのか」とすれば人によってはそれが人を殺す正当な理由になってしまう。対象が無差別なのか、限定的なのかによって議論の幅も広がると思う。
— 灯下 元晴 (@AE_Planet) September 5, 2013
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