ちょっと立て込んでいてお返事遅れました。ゆるゆると返していきます。
とうことで、ここでイケダハヤトの話にのって、論理的に導かれるものを「真理」と呼ぶなら、それにはなんらかの前提が存在しなければならない。たとえばイケダハヤトの内的な価値観が前提にあり(たとえば「人がなるべく苦しまない社会を作りたい」とか)、そこから論理的に導かれるものが、イケダハヤトがいう「真理」となる。
うーん、「真理」という言葉はちょっと不適切でしたね。ちょいと保留させてください。なんと表現するか、考えあぐねています。
指摘したいのは、個々人の主観を超えた、人間を人間足らしめる、共通する倫理観が存在するという事実です。
それはたとえば「人を殺すのは悪いことだ」と、ぼくらはすでに知っている、という事実です。人を殺すことは、誰にとっても悪いことでしょう。人を殺すことを善いことだと考えている人はいません。人に施しを与えるように、「あなたを助けるために」人を手当たり次第殺害するという文明は、存在しないし、存在しえないでしょう。
もちろん「人殺しは悪いことだ」と知った上で、それを様々なロジック(「あいつは敵である」「あいつは害をおよぼす存在だ」「可哀想だから安楽死させるべきだ」etc)で、自分たちにとって善いことに変える、というのはあり得ます。しかし、その場合もやはり前提としては、「人殺しは悪いことである」ことは知っているわけです。
ではなぜ、ぼくらが「人殺しは悪いことだ」と知っているかと問われると、それはもう、人間として生まれたから知っている、としか言いようがありません。うちに10ヶ月の娘がいますが、たぶん、彼女も「人殺しは悪いことだ」と知っています。
「人を殺すのは悪いことだ」というのは、そういう意味で「常識」とは違います。「常識」はこうした内面的な直観に基づくものではなく、外部に与えられた雰囲気や空気から生成されるものです。
この「人間が人間として生きている以上、すでに『知っている』内面的な直観」をどんな言葉で表現しようか考えあぐねて、先の記事では当座、「真理」という言葉を使いました。「真理」はちょいと違う気がするので、「倫理的直観」くらいがちょうどいいですかね…。
「不用意に他人に危害を加えてはいけない」という一文もまた、こうした倫理的直観(仮)に属するものです。「不用意に他人に危害を加えてはいけない」が悪いことであることは、誰もが知っているわけですから。少なくとも、それを「善いこと」だと考えている人はいません。
話が長くなりましたが、とりあえず、「不用意に他人に危害を加えてはいけない」ということは、あなたはよくわかっている、という理解で進めます。
善い生き方をするということ
さらに加えて、ぼくらは「自分は善い生き方をするべきだ」という倫理的直観も、すでに獲得しています。
「善い生き方をする」というのは「自分が『これは悪いことだ』と思うことから、極力距離を置き、そして『これは善いことだ』と考えることを実践していく態度」だと表現できます。
>一時的・表面的には相手に苦痛を与えているのは事実。それを辛いと表現しているわけだ。
あなたは自分がやっていることを、「悪いこと」だと認知しています。その上で、必要性があると判断して、行為しています。ぼくはその生き方は「善い生き方」だとは思いません。そして、あなた自身も、その点にきっと同意していただけるでしょう。あなたの汚い言葉には、「本当はやりたくないけれど」という前提が透けて見えます。
「本当はやりたくないけど、仕方なく苦痛を与えている」というあなたの生き方は、何より、あなた自身の倫理的直観に反するものだと考えます。端的にいえば、あなたは倫理的な生き方をしていないということです。それは他の誰でもなく、あなたにとって善くない生き方だと思います。だって、あなたなりの必要があるとはいえ、悪いことをして生きているのですから。
ぼくは完ぺきに倫理的ではありませんが、倫理的であろうとは努力しています。「悪いこと」から距離を置き、「善いこと」に近づける努力を続けています。そういう生き方が、倫理的直観が求める「善い生き方」でしょう。
イケダハヤトは俺から見るとすごく傲慢に見える。まともな対話か否かを当事者である自分が冷静・客観的に判断できると豪語しているように見える。俺にはとてもじゃないけど冷静・客観的に判断できる自信はないね。それが俺が何度も失敗を繰り返した結果、これまでの経験で痛感したこと。
ここら辺も態度の違いが見えますねー。僕からすると、あなたの方が傲慢で、さらに臆病に見えますよ笑 だって、「主観的」な基準で打ち立てた厳格なルールを運用して、それに満たない人を寄せ付けないようにしているわけですから。
ぼくはどんな意見を届ける人であれ、彼らを「相手にする」というプロセスにも意味があると思います。でなくては、断絶が広がっていくばかりですから。どんな人間であれ、相手にした上で、対話するかどうかを判断すればいいのです。それはそれなりの手間ですが、ある程度までの負荷は、は発信者が負担すべきものでしょう。
ついでに、あなたは「国家という単位で幸福を考えるべき」という言葉を記していますが、あなたのような排他的な態度は、国家という単位で考えたときに、望ましいものではないと思いますよ。
やっぱ「自分は特別な人間」というスタンスなんだ。俺はそういう考え方は好きじゃないけどね。俺ができるなら他人もできるだろうという謙虚さを忘れると、思考が暴走しがち。「弱いものを守る」というのは、麻薬みたいなもので、注意して使わないと、際限なく自我が暴走してしまう。最終的に「自分が独裁者になって愚民を導かねば」と(笑。
うーん、自分は特別だし、他人も特別、という感じですね。みんな違ってみんないい、というヤツです。特別な能力のない人なんて、この世に存在しません。みんなで補っていけばいいのです。そういう理解です。むしろ、これはかなり謙虚な態度だと思いますけどね。
イケダハヤトがいう「社畜」も、ずいぶん傷ついた人がいると思うけどね。他の表現を使えばよかったのに。ホントに必要あったの?
ぼくは他者を意図的に傷付けるために、「社畜は死ね」みたいな暴言を吐くようなことはしていんですけどね…。特定個人を「社畜」と揶揄したこと(「Aさんは社畜だね」など)も、もちろんございません。皮肉や、反語的な意味合い(あなたはこんな『社畜』ではないだろう)で使うことはありましたが、それはぼくの倫理観と照らし合わせて、問題ないと判断しました。でも、最近は使ってませんね。やっぱり汚い言葉ですし。
俺は馬鹿な人間に考え方や議論の仕方を教えたい。それには彼らと同じレベルで泥仕合をすることが大事だと考えた。きちんと隙がない完璧な論述をすると、彼らは俺に戦いを挑んでこない。むしろ隙だらけで「こいつになら、勝てそうだ」と思わせないとね。
書いていただいた文章のなかで、ここが一番面白かったです。なるほどー、そういう考え方があるんですね。どれだけの効果が出ているのか、それはよく確認すべきだと思いますが、そういう意図でしたら汚い言葉も理解できます。
が、前述の通り、あなたが汚い言葉を使うことを、自分自身で「悪いこと」だと考えているのなら、それは利用しない方が、善い生き方になると思いますよ。他のやり方でも、バカな人間を教育することはできますから。
でもそれだと「やらない理由」を結局相手のせいにできるよね。イケダハヤトは都合よすぎなんだよ。
これは逆ですね。「この人の言うことだから、とりあえず騙されたと思ってやってみるか」と思ってもらえないのは、指導者が悪いんですよ。生徒のせいではなく、先生のせいです。この場合で言ったら、ぼくが自責の念に駆られるべきですし、ぼくは少なくともそういう思考回路で、自分の未熟さを実感しています。
これが詭弁の典型。たとえば小学1年生と小学6年生の身長を比較すれば、大雑把にはやはり小学6年生の方が背が高いだろ。これは客観的な事実だ。むろん中には例外がいて、小学1年生よりも身長が低い小学6年生もいるだろう。
いやいや、「年長者の方が『身長』が高い」ということと「年長者の方が『意見』が成熟している」を一緒にするのは違うでしょう。「意見」なんてもの価値は、観測者によって多いに変わるものですから。身長のような共通のモノサシがあるわけではないです。
「30年サラリーマンをやった方の意見よりも、サラリーマン経験をしたことがない大学生の意見の方が成熟している」というのは、客観的な事実として存在します。「30年サラリーマンをやった方の意見よりも、5歳児の意見の方が成熟している」というのもあり得るでしょう。
>入社1年目の人間が大企業の仕組みを理解できるとは思えない。俺でも理解できない部分は多いわけで、でも大雑把には理解度は勤続年数に比例すると思うよ。
知識・経験の量については、その通りですね。異論はないです。
根本的にズレがありそうなのは、「知識・経験の量」と「意見・行為の質」は比例しないと、ぼくは考えているというところでしょうか。人間は、勉強すればするほど頑なになって、結局愚かな行為をしたりするものです。その意味では、ぼくらは知れば知るほど、愚鈍になっていくとすらいえます。
さらにいえば、「意見・行為の質」を判断するのは主観でしかありません。それを絶対的な基準で評価できるとは、ぼくには到底思えません。
ぼくはそういう視座で、物事を見て、ここまで語っています。ここが根本的にズレてるので、平行線な感じですね。
こちらから聞いてみたいこともそろそろ無くなりました。お返事はお任せします〜。