食と健康を科学する
健やかで心豊かな生活をおくるために必要なこと、それはバランスのとれた食生活です。老化防止や疲労回復、生活習慣病予防の基本となるのが毎日の食事だとはわかっていても、それを実行し継続するのは、とても難しいことです。このコーナーでは、食に関する理解を深めていただくために、食品中の栄養素の働き、病気を防ぐための食事、私たちが食品をおいしく感じる仕組みなど「食に係わる健康科学」の知識をわかりやすくご紹介していきます。
- 「食と健康を科学する」 もくじ
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第1回 食の機能性と食生活(前編)
第2回 食の機能性と食生活(後編)
第3回 味を感じる仕組み 〜味覚の生理学〜
第4回 安全に食べるための食感のデザイン 〜食品物性〜
第5回 心理学で探る食の感性の成り立ち
心理学で探る食の感性の成り立ち
- 取材協力・監修
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(独)農研機構 食品総合研究所 食品機能研究領域 食認知科学ユニット主任研究員
和田 有史 先生わだ・ゆうじ (財)長寿科学振興財団リサーチレジデント、食品総合研究所特別研究員などを経て、2008年より現職。専門は心理学。国際学術雑誌AppetiteのExecutive Editor、日本官能評価学会誌編集委員なども務める。博士(心理学)。専門官能評価士。
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人間はどのように食品を認識しているのだろうか? これまでは、食品の機能性と、味や歯ざわりなど、食品を口に入れた後の感覚に焦点をあてて、この問いに関連する知見を紹介してきた。しかし、食の感性は味覚や嗅覚だけではなく、視覚や聴覚など全ての感覚によって成立する。さらに、さまざまな食品に対する偏見や食卓の同席者なども、食の認識に大きな影響を与える。
そこで今回は、こうした心理学的な側面から見た人間の食の感性について説明しよう。
- 食品における錯覚とは
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視覚は、私たちの世界の認識にとって重要な手がかりだ。例えば、熟した赤いイチゴは、他の熟していない緑色のイチゴからすぐに見つけられる。多くの学者が、熟した果実をみつけられるように霊長類の色覚が発達したと考えている。つまり、私たちの視覚による食品の認識は、進化の過程で培われ、現代人にも受け継がれてきたのだ。その影響であろうか、食品の印象や味わいは、見た目によっても大きく変化する。
和食やフランス料理などの洗練された食文化では、彩り、盛りつけ、食器などの見た目の美しさも非常に重要な要素である。スーパーマーケットの生鮮食品売り場も食品の見栄えをよくする工夫でいっぱいだ。
例えばオクラやミカンを包む緑色や赤のネットは、色の錯覚を生じさせて食材の色を鮮やかに際立たせる(図1)。これは、ネットの色が包んでいる野菜や果物の色合いをより鮮やかに見せる、“色の同化”という視覚的な錯覚 (錯視) を利用しているのだ。
錯視とは視覚的な知覚・認知の錯誤である。ここでいう錯誤は“物理的な量”、あるいは“錯視を引き起こす特徴が存在しないときの見え方”と人間の知覚とのズレである。
例えば、図2のように、黄色い円盤に、赤や緑の網が加えられると、本来、黄色く見えるはずの円盤が赤みがかって、あるいは緑っぽく見える。
錯視は、特殊な図形を見るときのみに起こっているのではない。私たちの日常的な視覚も、錯視を見るのと同じメカニズムで成立している。つまり、日常生活も気づかないだけで錯覚に満ち溢れている。しかし、知覚の錯誤によって重大な事故が生じるようなことはめったにない。
人間の視覚は実在する環境に適応するように進化したため、普段は問題にならないのだ。錯覚はあらゆる感覚で生じ、複数の感覚を巻き込むことも珍しくない。
錯覚の存在は私たちが感じている世界が光などの物理的な手がかりに基づいて脳によって再構築されたものであることを端的に示している。
- 食品を外観まで“味わう”
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視覚の影響は他の感覚にも影響を及ぼす。ワインの殿堂であるボルドー大学ワイン醸造学科の学生に、ワインの味を評価させるときに、赤く着色された白ワインを紛れ込ます、という少し意地悪な実験がある。その結果、評価者は一貫して赤い白ワインを赤ワインに使われる典型的な言葉で評価し、白ワインに用いられる言葉を避けた。つまり、味わう訓練を受けた人間であっても視覚情報の影響を強く受けるのである。また、同じ内容の食事でも、高級レストランで食べた方が、大学食堂で食べるよりも食事の味の評価が高いということも知られている。
食品の外観による重量や満足感についても、盛り付けの高さや盛りつける容器によって、ヴォリューム感や満足感が左右される。例えば、こんもりと小さな器に盛られた7オンスのアイスクリームの方が、大きなカップの底に控えめに盛られた8オンスのアイスクリームより好ましいと評価される。また、高齢者食として用いられることがある千切りの野菜は、量が増して見える (図3) だけではなく、かえって噛む負担が増えることがわかっている。つまり、生野菜などをたくさん食べてもらうための工夫としては、千切りは不向きな加工であるようだ。
これらの例は、色など、見かけによって味がごまかされる、という話として捉えられがちだが、筆者は、食品は味や匂いだけではなく、外観まで含めて“味わう”ことが人間の本質的な傾向であることを示していると考えている。
- 食品のイメージはどのように生まれるのか
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オレンジのみがとれる無人島で1年間過ごすときに携行する食物を一般のアメリカ人大学生に選ばせると、ほうれん草やバナナといった一般的に健康によいと考えられている食品を選ぶ傾向がある。栄養学の観点からは高カロリーのチョコレートやホットドッグの方が望ましいのだが、“カロリーをとり過ぎない方が健康によい”という偏見の方が判断に強い影響を与えたのだろう。別の研究でも、脂質が多い食品は悪い食品と評定されやすく、ビタミン・ミネラルが豊富な食品は良い食品と評価されることが示されている。これは、直感的イメージによる判断の誤りといえる。逆に考えると、先進国社会に住む人間は、なぜ抑制しなければならないほど脂肪や糖を摂取したいのだろうか? 一説では、500万年前にチンパンジーから分化した我々の祖先がうろついていたサヴァンナでは、肉や熟した果実を手に入れるのが容易ではなかったため、適応過程でそれらに対する欲求を身につけたといわれる。このように考えると、サヴァンナで形成された人間の本能は、現代の先進国の環境には適応できていないのかもしれない(図4)。カロリー制限をしたサルに比べると、同じ期間、好きなだけ食物を摂取しつづけたサルは老化が非常にはやい、という事実も、霊長類の食欲は飽食の環境に適応していないことを示している。
食に関する理解については、消費者の情報処理能力の限界も影響する。たとえば、大豆製ハンバーガーのパッケージ前面に記載された栄養機能に関する文章が短い文(例えば“大豆タンパクは心臓疾患のリスクを減少させる”)の場合と、長い文(例えば“飽和脂肪とコレステロールの少ない食事を摂るなかで1日に25gの大豆タンパクを摂取すると心臓疾患のリスクを減少させる”)場合では、短い文の方が、消費者が商品の栄養機能表示をよく読んで理解していた可能性が高い。
リスク対象についての専門家はリスクの高さをリスクの客観的な生起確率に基づいて判断する一方で、一般的な消費者は被害の恐ろしさや未知性、被害の大きさといったより主観的なリスク認知に基づいて判断する傾向がある。つまり、一般消費者の食に関する認識は科学的な知識・情報の産物というよりも、直感的なイメージによるところが大きいのだ。最近、有機栽培のクッキーが普通のクッキーよりもカロリーが低く評価されることが発表され話題になったが、これもオーガニック=健康によい、という直感的なイメージが影響したからであろう。
- 複雑化する現代人の食の認識
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人間の知覚は進化の産物であり、私たちの生存と発展に大いに貢献してきた。しかし私たちの知覚世界は、実際に存在する世界を物差しで測定したような物理世界のコピーではないことを、皆さんはお分かりになったと思う。私たちの食品の味わいは、味や匂いに加え、五感情報や社会的な文脈に基づき、私たち自身によって生み出されるのだ。食は単なる栄養補給ではなく、社会性やコミュニケーション、人類の進化と社会の変化などを巻き込んだ極めて複雑な心理学的な意味をはらんでいる。ここ半世紀で、先進諸国における人間の食をめぐる環境は大量生産、大量物流、さまざまな欲望をたくみにくすぐるコマーシャルなどにより大きく変容した。私たちが本能や嗜好に任せて食べ続けると成人病などが誘発され、健康を損なうような状態になった。飢えを恐れる時代に比べて、すばらしい時代だが、健康、欲求、社会性などの狭間で食に関する認知はますます複雑化し、社会や個人レベルで難しい食のコントロールを問われる時代であるとも言えよう。
YL Vol.05 2010.10.10発行